113 死して終わり暗闇、しかして見上げる先にあるものは
それは形のないもの。
色もなく、物質ですらなく、それでもなお存在感を放ちそこに在ることを否定できる者はいない。
それは魂。
阿沙賀・功刀の魂が、そこに浮遊している。
ザイシュグラはその魂に見惚れることも驚くこともなく無造作に引っ掴むと、自らの口に放り込む。
咀嚼の手間すら惜しんでごくんと飲み下せば――あぁなんて美味。
「……ご馳走さま」
万感の思いの籠った言葉だった。
実に千年ぶりの人の魂の味は極上の一言に尽きる。
それも上等の人間の、最高にスパイスのきいた逸品だ。腹の中で今でも強い存在感を示し、満足感がやまない。感無量とはこのことか。
「…………」
悦に浸る魔王を尻目に、ニュギスは事切れた男に寄り添う。
阿沙賀・功刀は魂を喪失し、その肉体は糸が切れた人形のように倒れ伏した。
もう二度と立ち上がらない。もう二度と目覚めない。
だって魂のない肉体など、単なる死体と変わりはしないのだから。
触れたニュギスはそれを強く実感し、静かに一筋の涙を流す。
だが悲哀の発露はこれで終わり。これ以上の感情は全て怒りに転嫁せねばならない。
まだ終わっていない。阿沙賀とニュギスの戦いは、まだ。
「さてじゃあボクは行くよ、さようならもう二度と会うこともない」
「……わたくしを放置しても構いませんの?」
「うん?」
面倒そうに振り返るザイシュグラは、まるで無関心。
「そりゃあね、ボクはキミに触れられないんだ。ということは食べることもできない。そんな奴どうでもいいさ」
「あなたからすればそうでしょうが、こちらからはいそうですかとは言えませんの」
「え」
驚いたとばかり目を見開いてザイシュグラはここではじめてニュギスをまじまじと見遣る。
「もしかして……仇討ちとか、そういうのやるの? まさかね。そんな無駄なこと、わざわざするはずないよね。意味ないし」
「無駄でも無意味でも、気が収まりませんので」
瞬時に魔力を集約し、それを攻性に転換しようと――
「じゃあ仕方ない、キミにはここで果ててもらうか」
肩を竦めて、やっぱり面倒そうにザイシュグラは指を動かす。
「っ!?」
ただのそれだけでニュギスは身動きできなくなる。
溜めた魔力は霧散し、任意での魔力操作すら叶わない。力の一切を封殺されている。
「キミたちの考えは、たぶん契約違反による反転なんだろうね」
欠伸を噛み殺しながら、ザイシュグラは心底どうでもよさそうに語る。
「ボクはキミを害せない。だから一方的に攻撃できる。
ボクはキミに触れられない。だから触れるだけでもペナルティをくらう。うん、そうだね、じゃあ別の手を使えばいいだけじゃないか」
「っ」
触れなければいい。
傷つけなければいい。
簡単なことじゃないか。
「デオドキアをこの空間に送り込んだのはボクだよ? その際に彼が門の封鎖に巻き込まれて封印されたのは想定外だったけど、どんなことにも学びがあるよね」
「っ、空間の狭間での封鎖! わたくしをこの場に封ずるつもりですの!?」
「うん。これならキミを傷つけてないし、触れてもいない。契約違反にはならないよね」
「だいぶ強引な解釈ですの」
「キミだって触れるつもりのないボクに触れて、契約違反を言い張るつもりだったんじゃないのかい?」
傷つけずだけでなく触れるな、という文章をねじ込んだのはわざとらしかったが。
それで自らぶつかっていくのはだいぶグレーゾーンだろう。させるつもりは最初からないが。
「まぁ確かに契約違反で発生する魂の弱体化を計算してキミに討たせる、っていう案自体はキミたちに考えうる唯一の作戦ではあったんじゃないかな。そこは流石だよ、小賢しくって実に人間らしい」
けれど。
「もうお仕舞い。まったく無駄死にご馳走さま」
全て見透かされ、策略は通じず、当然に力は遠く及ばない。
なにもかもが無駄。
これまでのあらゆるが無意味。
「阿沙賀・功刀は死に。
お友達も家族もみんな平らげる。
誰も助けは来ない。
キミは永劫ひとりぼっちでどこにもいけない」
ただの事実の羅列。
悪意も誇張も含めていない。
ゆえにこそ厳然としてニュギスに突き付けられる。
ただひとつだけ、ザイシュグラは思いついてしまって――悪意をもって笑みを浮かべた。
「あぁそうだ、どうせ最後だ。キミにも見せてあげようか。
キミの大好きな力を、キミの大好きな魂を」
――『それが故に自我』
◇
――真っ暗だった。
ただひたすらに暗く、昏く、黒い。
光がないというよりも、闇が在るという表現が近い。
なにもかも覆い隠され、何重にも包み込まれ、指一本として動かない。
分厚い闇にひしと抱きしめられているような、底なしのどうしようもなさだけを痛感している。
当然だ、今の彼には身体がない。魂だけだ。
つまりそれは五感がないということ。
なにも聞こえず、見えず、感じないのが道理である。
肉体のないことの、なんと不自由で不便なことか。
それでもどうしてだろう、なにかを感じる。
それは不快。
それは苦痛。
それは怨嗟。
ここが地獄なのだろうか。これが死後の責苦なのだろうか。
少なくともここにあるのは阿沙賀だけではないようだ。
感じる怨嗟は膨大なる他者の悲鳴のようなもの。
魂の墓場とでも言うべきか、そこら中に死して終わった魂魄が敷き詰められている。
死んでいるというのに木霊する呪詛の声だけがやまず、そこかしこで憎悪と憤怒で渦巻いている。
既に死んで終わってザイシュグラに搾取されるだけの亡霊ども。
意志も心も擦り切れて、入り混じって溶け合って個我など残りはしない。あるのはただひたすらにこの世を恨む感情だけ。
いいや違う。
本当に恨んでいるのは、呪っているのはザイシュグラ。
自らを滅ぼし、永劫の責め苦に陥れ、そして輪廻の輪からすら除いた不倶戴天の仇。
だから自己すら憎悪している。
ザイシュグラの存在の一部となり果てたなにもかもを憎んで滅ぼしたがっている。
今こうして組み込まれた新入りの魂すら、消え去れ砕けろ痛い目を見ろと大合唱で滅びを歌う。
もはやここに正気はありえない。狂って狂ってすべてを嫌悪する最悪の循環をしていた。
そんな真っただ中で不快と苦痛以外のなにも感じず。
無感のはずなのに断末魔がうるさくて。
なにもできずただ魂が端から腐っていく。
こっちまで気が狂いそうになる。
全て放り捨てて眠りたくなる。
逃げ場もなければ、立ち向かう手段もない。
縛り付けられどうしようもなくて、ただただ責め苦を受容するだけ。
なにもできずに心が冷めていき、無力感に蝕まれ、いずれ眠り意識を失う。
周囲の怨霊どもの仲間入りし、ただ断末魔を叫び続けるだけのものになり果てるのだろう。
あぁそうだ。
そうだった。
どうせもうおれは死んで――
――死んでなどおりません!
その時、聞こえないはずの声が聞こえた気がした。
耳はないのに。鼓膜すらないのに、どうして。どうして。
誰かの声が、聞こえてくる。
――あっ、阿沙賀!
――阿沙賀!
――阿沙賀ァ!
――阿沙賀くん。
――アサガ!
――阿沙賀っ!
――阿沙賀・功刀。
――ご主人様。
どうして。
どうして。
みんなの声――否、これは音ではない。思いそのもの。
魂そのものに結びついた縁故より通じる、みんなの心。
そうだ、違う。
ここは地獄でもあの世でもない。あのザイシュグラの野郎の腹のなか。
膨大なる魂を喰らい、それを自らの糧とする魔王の胃袋――『魂食魄喰』の領域だ。
だったらまだ終わりじゃない。諦める必要なんてどこにもない。
魂を取り込まれてもまだ死んだわけじゃない――それはアルルスタの事例が教えてくれていたこと。
だから、そう。そうだ。
どれだけ否定されようとも。
死を突き付けられ、終わりを望まれても。
そんな耳障りな雑音なんかよりも、聞くべき声がある。
あれだけみんなに言われたこと。今なお言い続けてもらっていること。
――死ぬな。
――生きて。
たくさんの肯定をもらって、生存を望まれて。
あぁそれじゃァ――
「生きたいなァ」
阿沙賀はようやく、そんな当たり前のことを思えたのだった。
「ッ。あー」
あっぶねェ……ちょっともってかれるところだったわァ。
魂だけという心もとない状態。
周囲の怨嗟の渦という状況。
心を弱らせ、死を認めてしまうところであった。
自分を、手放しそうであった。
だがもう大丈夫。
みんなの声で思い出した。確信した。
――おれは阿沙賀・功刀だ。
他の何者でもなく。
魂だけになっていても。
自ずから我と言い張るが故の自我
――それが故に自我なのだ。
たとえ世界中がそれを否定したって、おれ自身が肯定するだけ。
それにきっと、あいつらも肯定してくれる。
充分だ、おれを言い張るのには、それで充分。
テメェなんぞに敗けやしない。
来いよ、勝負だ。どうせやるんだろ?
その一言が開始の合図だ。
どうせテメェにゃ御せやしない。
テメェはおれじゃない。おれはテメェじゃない。
おれがおれであり、阿沙賀・功刀が阿沙賀・功刀であるからこそその顕能は意味を持つ。
それの行使は同時におれの証明であり、おれの証明はすなわち喧嘩のスタートだ。
さぁ行くぜ――思いもよらないところから、テメェをぶん殴ってやる!
◇
――使ったな?




