112 魂喰魔王
「――やぁ、さっきぶりだね、阿沙賀・功刀」
果てしなく広がる宇宙のごとき闇に、なにひとつとして障害物はない。
遮るものがなく、誤魔化すものがなく、そこに居るのならば間違いなく視認できる。
ただ途方もない距離を隔てたがために今までそれを見つけられなかっただけ。
前に歩き続け、そして向こうもまたこちらに向かっていたのなら必然。
こうして二者は再び巡り合う。
魂喰魔王ザイシュグラは、なんの変哲もなく笑顔で現れた。
「?」
対する阿沙賀には違和感があった。
いや違う、逆だ。
違和感がない――どころか一切の感覚がない。なにも感じない。
相手は魔王。
公爵が束になっても敵わず、現れるだけで世界を滅ぼす悪魔の王様。
それなのに対面しても思うところがなにもない。
いや、それはおかしいだろう。
公爵悪魔らと相対した時には確かにあった。
恐怖、威圧、困惑。
無数の負の感情が入り乱れては膨らんで、ただひたすらに理不尽を思った。
先のアルルスタの肉体を奪っての遭遇であっても、それは似た感覚があって。
だがなぜその公爵よりも恐ろしいはずの真なる魔王を見て、なにも感じないという?
「っ」
気づく。
それはきっと、隔絶が過ぎるがゆえ。
どれだけ膨大な数字を見ても、それは数字でしかなく実感に至らない。
テレビの向こうで嵐が吹きすさんでも、それは視覚情報でしかなく体感ではない。
そういう、遠すぎて無関係に思えるような。
正しい理解すらも及ばないほど違っている。存在のステージが隔たっている。
現実感のないほど大きすぎる最悪の存在感。
そこにいるのに、全身がその事実を拒絶しているような死の予兆。
魔王は恐ろしくない。
故に、なにより恐ろしい。
「おや? どうしたんだよ阿沙賀・功刀、沈黙なんてらしくない。挨拶に無言で返すのがキミの礼儀なのかよ」
「……テメェなんぞに礼儀だなんだと言われたくねェな」
阿沙賀は湧き上がりづらい警戒心をなんとか膨らませ、敵意をもって言い返す。
ザイシュグラは子犬に吠えられた程度にしか感じていないのか、気安く肩を竦めた。
「もしかして嫌われてるのかな、ボクは」
「大っ嫌いだよ、ぽっと出のくせしておれン中の怒りポイントで迷亭に並びそうだぜ」
「ボクもあの嘘吐きは大嫌いだけどね、大江戸・門一郎もだ。そこはキミもなんじゃないのかい」
「はっ、嫌いな奴が一緒だからなんだよ、テメェも吐き気がするほど嫌いだって事実は揺るがねェ」
「残念だなぁ、ボクはキミと仲良くしてもよかったのに」
「薄ら寒いこと言いやがって。テメェの仲良しってのは最後にゃお腹の中なのかよ」
「そうだよ?」
皮肉をこめた否定的疑問に、さも当たり前のように頷かれてしまう。
「この世の全てはボクの御馳走さ。人も悪魔も、それ以外も」
その言葉に特別な思い入れはなかった。
ただ当たり前に常々思っている道理を、そのまま説明しているだけ。
いっそ淡々と、ザイシュグラは言う。
「敵対しようと殺し合おうと。
迎合しようと愛し合おうと。
なにを言ってもなにを笑っても。
なにをやってもなにを喰っても。
――最後には全部、おいしく食べるとも」
あぁそれはもしや、人が家畜に向ける感情なのか。
いや。
いいや違う。
「安心してよ、いただきますの言葉は忘れない。キミを喰らってキミのぶんまでボクが生きる。生きることとは食べることで、食べることとは生きることなんだから」
「しゃらくせェ! 生きるための食事と欲を満たしたいだけの暴食を同列に並べるなよ! 御大層に高説垂れようがテメェが我慢のきかないガキだってことはバレバレなんだよ」
不変で普遍で呑まねばそもそも今に居られない生存のための食欲とはまるで異なる。
過ぎたる大欲、不要の暴食。
むしろ殴ってでも止めねばならない身勝手であり、種族単位でふざけた因縁をつけられたようなもの。
「――売られた喧嘩は買うのが上等。
云百年の計画だったか? パーにしてやるよ、一切合切台無しだ。人間舐めンのも大概にしとけ!!」
もはや我慢の限界。
阿沙賀は見えない地を蹴り飛ばしてザイシュグラへと真っすぐに跳びかかる。
その拳は固く握りしめ、怒りをこめて殴りかかる。
――阿沙賀は今まで『それが故に自我』の最大出力を出していない。
それをする必要性がなかった。
アティスとやりあった時も、遊紗と対峙した時も、依り代にされたアルルスタを救う時も。
抑えた威力で充分に勝利できていた。
むしろ過剰な力は相手を無用に傷つけてしまい、阿沙賀の本意ではない。
顕能に覚醒してから拳を向けた相手は全員、どうしても倒すべき敵ではなかったからだ。殺したくない相手だったからだ
そのはじめての例外こそがこのザイシュグラ。
一切の遠慮も躊躇もいらない抹殺すべき敵であり、加減不要の絶対強者。
だから無論、最初の一撃から全身全霊全力全開――生涯初と言える、『それが故に自我』の最大出力。
これまで人も悪魔もその手で殺めることのなかった阿沙賀が、覚悟を決めて殺意すら込めた一撃。
その一撃は決まりさえすれば、現存するどの公爵であっても滅んでいた。
日本列島くらいなら沈めて余りある威力を誇り、上位次元だろうと時の彼方だろうと逃さぬ必殺を秘めている。
人間単体が発したエネルギーとしては史上最大と言って過言ではないはずだ。
それは間違いない。
間違いない――のに。
「阿沙賀・功刀、悪魔の力を借りたキミはたぶん人界魔界すべてを見渡して、現在上から八番目の強さを持っていると思うよ」
公爵悪魔すら相手にならず、それ以外など言うに及ばず。
しかし。
「七番目と八番目には、遠すぎる差があるってだけさ」
残酷なほどあっさりと。
その拳はザイシュグラの手のひらに吸い込まれ、なんの意味もなさずに停止した。
「っ!」
さしもの阿沙賀も一瞬、亀裂のように顔を歪める。
それは触れただけで彼我の距離が理解できたから。
いや、正確にはできなかった。
ただひたすらに遠く遠く及ばないという事実だけを理解し、その実際の距離は未知数。
それでも。
「うだらァァァァァァァァァァァァァァァァァアアア――!」
諦めずに何度でも。
阿沙賀は全力で殴打を続ける。
その全てが片手で軽々と凌がれていても、苛烈な攻撃は一切衰えない。
「ふぅん、そうだよね、キミはそうだ。仕方ない、手間をかけるしかないかなぁ」
命を削り一所懸命に打ち込み続ける阿沙賀の一方で、ザイシュグラは酷く冷めていた。
その感情は人に訳せば、食事の際に料理をするのが面倒だなといった具合のもの。
それも手間をかけた料理を作るというのだから、すこしの億劫と大きな期待を伴っただ。
食べるのは好きだがその準備は別に好きでもないのである。
「あぁそうだ」
だからできる限り手間を避けようとする。
道端の小石を避けて通るくらいの感情でザイシュグラは言う。相変わらず阿沙賀の猛攻をあやすように受けながら。
「こういうのはどうかな、キミが大人しく喰われてくれればボクは確実に人間界を壊さないで済むんだ、だから喰われてよ」
「……なに!?」
どういう意味だ。
面倒くさがりな一面の発露なのは見受けられるが、その意味がよくわからない。
そもそもザイシュグラが阿沙賀を熱烈に狙って喰らおうとしている理由すら、わかっていない。
それに気づいてザイシュグラは苦笑とともに説明を続ける。
「ボクが食べたものの顕能を使えるのは聞いたかな。
――顕能の名を『魂食魄喰』という。
あ、もちろんただ美味しいから食べるのがボクのポリシーだし最大の理由として揺るぎないんだけど……」
「うるせェ、死ね!!」
自己の流儀の語り上げとか本当にいらない。
悪い輩ってのは、どうしてどいつもこいつもそんなに自分語りが好きなんだよ。
いや、別に自分を語るのはいいがそれでこちらの言い分を聞き入れないのでは一方的だろう、会話じゃない。
腹立ち増して拳の勢いも増す。やはり一撃たりとも届かない。
一応は阿沙賀の言をいれたのか、ザイシュグラは話を戻す。どうにせよ、彼の自分語りには違いないのだが。
「ボクはさぁ、強さなんて求めてなかったよ。そんなのどうでもいいんだよ。ボクはただ食べたかっただけ、おいしいものをたくさん食べたかった。たくさん食べてたらいつの間に強くなってた。食べたら強くなるなんて、そんな顕能のせいで気づいたら魔王さ。笑い話だよ、こんなの」
「ちっ、そういうことか……!」
珍しくうんざりした語調に、阿沙賀は理解する。
同時に阿沙賀の両拳はザイシュグラに掴み取られ、猛攻が止まる。瞬間の静止が生まれる。
阿沙賀はザイシュグラの嫌に澄んだ瞳を射抜きながら、吐き捨てるようにその答えを発する。
「――テメェ、弱くなりてェのか」
基本的に強さとは不可逆のものだ。
抑えることはできても、消耗することはあっても、誤魔化すことはしても、本質的には変わらない。
一度登り上がった強さの領域からは降りられない。
弱くなることは、できない。
それを可能とする顕能をこそ、ザイシュグラは求めていた。
なぜなら。
「そうか……魔王の魂が強すぎるから世界間を渡ることで滅びるってンなら弱くなればいい。理にはかなってる」
人間界に魔王が訪れれば滅ぶ。
前提として語られるその事実は、実はザイシュグラにとっても困りもの。
なにせ彼は人間の魂を食べるために人界に赴くのだ、その人界そのものが失われてしまえば当然そこに住まう食糧も消える。
それでは意味がない。
故に探していたのだ、滅びを回避しながら人界に在る方法を。
そのひとつが大江戸・門一郎との契約であり、もうひとつこそが滅びを回避できる程度の弱体である。
そこまで理解すれば阿沙賀の顕能『それが故に自我』を求めることに合点がいく。
確かに阿沙賀は自らの魂を縮小させてこれまでずっと生きて来た。そういう厳然たる事実が存在するのだ。
自己の自在化は強くすることと同じように、弱くすることさえ自在なのである。
そんな奇特な能力は魔界中探しても見つからなかった。
それもそのはず、顕能とは魂の一方向に特化するもの。弱くなる方向性を得てしまった魂の持ち主が長生きできる道理はない。
ましてや魔王と遭遇するまで生き延びることなどありえない。
ゆえにこそ奇特にして奇跡――魂を強いも弱いも自在とする、阿沙賀の『それが故に自我』。
ザイシュグラにとって、実に丁度いい。あつらえたかのように便利な顕能というわけだ。
「ボクはそれが欲しい。喉から手が出るほどにね」
「喉に詰まらせて死ね!」
掴まれた両手を支点に足を跳ね上げる。
ザイシュグラの顎を蹴り抜き、前身を捻って拘束から逃れようとし――微動だにしない。
「っ」
ならばと阿沙賀は覚悟を決める。
『それが故に自我』の再生力を信じて両手を捨ててでもザイシュグラから逃れようと――
「それだよ、それ……。ホントにキミは困ったヤツだ」
「なにを……!」
手を千切ってでもという無茶極まる力づくを、する寸ででザイシュグラは手を離す。
勢い余ってよろめくように数歩分後退。その勢いを使ってバックステップで間合いを広げる。
この程度の距離に意味があるとは思えないが気休めにはなる。
それよりも疑問――なぜ自ら手を離した?
ザイシュグラはやれやれとばかりに言う。
「言ったよね、ボクはキミの魂が欲しいと。それってできれば損壊も汚濁も歪曲もない綺麗な状態がいいんだよね……そっちのほうがおいしいから」
「……テメェそれは」
「きっと魂の味なんてボクにしかわからないんだろうけど、だからボクだけは拘ってるのさ」
負の感情は魂を濁らせる。
肉体的な苦痛や欠損は魂を淀ませる。
感情や肉体は魂と非常に密接に関係しているが故に。
阿沙賀ほどの強い魂であっても、死の瞬間の圧倒的な恐怖にはどう影響するかわかったものではない。
「昔それで顕能まで歪んでしまったことがあってね、それから無駄に痛めつけたり怖がらせたりしないようにしてるんだ」
「テメェの全知全能は、マジで食い気だけなんだな」
なんて嫌な食いしん坊だ、長年の目的よりも今の味を優先してやがる。
だがようやくザイシュグラの煮え切らない態度の理由がわかった。
攻撃を捌くばかりで攻めてはこず、よくわからない提案を持ち出してきたのは、全て阿沙賀の魂を歪みなく食するため。
……それは阿沙賀にとっても好都合ではあった。
交渉の糸筋がある、という意味であるからだ。
ただの殴り合いでは勝ち目がないことは充分に証明されてしまった。ならば通じるのは、あとは言葉だけしか残っていない。
最後の最後で、悪魔との交渉になるだなんて……なんともまぁ原点回帰とはこのことか。
「で、どうだい、これで問題は解決。人間界は存続し、みんなみんなハッピーさ」
「だからそういう雑な大ボラ吹いてンじゃねェよ」
とはいえ、甘い話には裏があるもの。
迷亭の嘘に慣れた阿沙賀には、まるで意味をなさない。
「そりゃつまりテメェの楽しいディナーが時間制限なしのバイキングになっちまうだけだろうが」
人間界が壊れないからこそ、そこに住まう全人類が魔王の脅威にさらされることになる。
こいつを行かせれば地上全ての人間を誰憚ることなく食い尽くし、果てになんの感謝もない「ご馳走さま」を響かせて仕舞いである。
なんなら人間界の滅びよりなおタチが悪い。絶望的な終末だ。
ハッピーなのはザイシュグラだけ。
この世で一番腹立たしい結末であろう。
阿沙賀の取り付く島もない言い分に、ザイシュグラは困ったように。
「んー、そう簡単に騙されてはくれないかぁ」
人を騙すことになんらの抵抗もなく、無害そうに笑って陥れることばかり考えている。自分さえよければ他者なぞ顧みず、快楽を求めて超常の力を揮う。
こいつはどうも、阿沙賀のこれまで出くわした悪魔とは違っている。
いやむしろ、このザイシュグラこそが最も悪魔らしく思えた。
それは世に浸透したイメージ、想像上の悪魔像に合致するという意味で。
阿沙賀の好んだ実在の、これまで関わり合ってきた悪魔とは、どこまでも隔たっている。
だからこそこれまでと違ったアプローチを探ることができる。
「けど譲歩はできる」
「……契約者様?」
意外な発言に、ザイシュグラだけでなくニュギスもまた驚く。
先ほど言っていた作戦、というやつなのだろうか。それにしてもあまりにらしくないのではないか。
阿沙賀は続ける。
「おれと契約しろ――あぁ縁は結ぶなよ、ただ魂を対価に言うことを聞いてもらう、できんだろ?」
人と悪魔の間で結ぶ縁故を経ず、しかして強固なる誓約。
契約遵守生命である悪魔にとっては強力な拘束力をもつ約束である。
おそらく大江戸・門一郎や迷亭ともそれを結んでいるはずで、だからこれは確認というより前振り。
「それは当然だけど、なんだい、この魔王と対等に約するつもりかい?」
「あぁ。テメェがどこの誰だろうと、おれは阿沙賀・功刀だ。おれがどこの誰だろうと、テメェはテメェだ。対等じゃねェ道理がどこにある」
断ずる人間に、魔王は笑った。貶した風もなく、からからと。
「キミは本当にシンプルだねぇ。まぁ聞いてみようか、どういう条件でキミの魂を頂けるのかな?」
「――作戦タイム!」
「は?」
「条件についてちょっとニュギスと相談するから待ってろ」
「えぇ……」
緊迫感をぶち壊すような宣言に、流石のザイシュグラも困惑である。
一方的な物言いになにか反論しようかとも思ったが、契約内容の厳密化は重要だよなと悪魔的にはあまり文句の言えない発言でもあった。
どれだけ強くなり、他と画していようとも、本質的には悪魔という種族であることは絶対不変。
それこそが阿沙賀にとって――いや、人間にとってのつけ入る隙。
ザイシュグラは自らの弱点についても無論に心得ている。その上で余裕をもって嘆息を吐く。
「いやまあ、いいけどさ。ちなみにこちらの要求は抵抗せずに無傷の魂魄を食べることだから」
「知ってるよ」
ひらひら手を振って、阿沙賀は戦闘中にも関わらず敵に背を向ける。
はじめから攻撃しようともしていなかったザイシュグラであったが、こうもあからさまに隙を晒されると手を出したくもなる。だが先程の口約束ていどでもある程度の拘束力は存在し、歯がゆいながら肩を竦めるしかできない。
どうにも、調子を乱される。
悪魔だからとか、魔王だからとか、そういう多くの者が一目置く部分に阿沙賀はさして価値を見出していない。
ごくフラットにザイシュグラの魂と人格を見て、それでもって嫌いだから敵対する。やってきた行いが気に食わないから、それを繰り返すのなら阻止しようとする。それだけなのだろう。
きっとそういう人間だからこそ、そういう魂であって、そういう顕能が発現したのではないか。
ザイシュグラには想像もできない存在、未知なる魂。見たことも聞いたこともないゲテモノ。
だとすれば、あぁ……あぁ……
「きっとボクの知らない味がするんだろうなぁ」
とても、楽しみだ。
◇
背中からなにか舌なめずりの気配を感じて凍えつつも、阿沙賀はニュギスに向き直る。
すると彼女からの第一声はなんだか呆れ交じり。
「……はじめからこうするつもりでしたの? 仰っていた作戦というのは、人として契約してなんとかしようとするつもりでしたの?」
「あぁ。どうやって取り付けるかまでは考えてなかったけど」
「無策と同義ですの!」
「なんとかなったからセーフ」
こいつ……結果論でごり押ししてやがる。
たまたま魔王の欲するものをもっていただけ。交渉の席につけたのは幸運としか言いようがない。
「まぁもうそこはいいでしょう。けれど契約者様、自信ありげでした割にはやり口がなんだか小賢しいですの」
「うるせェ、マジで殴ってあれだぞ、真っ当にやりあって勝ち目ねェのはわかンだろ」
――悪魔相手に人間のする行いはすべて生きるための正当な手段となる、とは阿沙賀の言である。
阿沙賀といえど真実勝ち目のない敵ということは理解している。流石は魔王様、どう足掻いても足元にすら及んでいない。
だからと諦めたりはしないし、屈したりもしない。
そもそも阿沙賀は悪魔も啓術も、なにも知らなかった時にさえ悪魔に殴りかかれる男。
それは無謀でもあり、不屈ということでもあり――絶体絶命に活路を見出すことができるということでもある。
男なら意地でも格好つけて、泣き所にも笑って見せなきゃいけないのだ。
拳だけで駄目なら頭も使う。頭を回しても届かないなら手を借りる。手を借りてもまだ足りないなら――
「…………」
可能性に賭けるしかない。
できるかどうかわからない。不明瞭な部分が多すぎる。それでも可能性はゼロじゃない。
ただ薄っすらと考えていた構想が、ザイシュグラの性格をより詳細に把握できたことで肉付けされ、明確な形となったのは幸いだ。
阿沙賀の側に不安が残るが、ザイシュグラの側には憂いはない。きっとこいつは《《それ》》をすると確信できる。
あとは、うちのお姫様にかかっている。
「――ニュギス、ふたつ聞く」
寸刻以前とは落差の激しい真剣な眼差しに射すくめられ、ニュギスはすこし怯えてしまう。
なにか、決定的な決断を、彼は下していないか?
問うことも許されず、阿沙賀は続ける。
「オメェは今でもおれが欲しいか?」
「この世のなによりも」
「じゃァもうひとつ、おれはここにいるな?」
「ええ、夢幻などではなく、わたくしのこの手の中に」
ゆっくりと、ニュギスはその手で阿沙賀に触れる。その魂の熱を感じる。夢でも幻でもなく、間違いなく。
その手を掴んで、阿沙賀は満足そうに頷く。
「そうだ、おれはここにいる。おれは偶像なんかじゃねェ。おれは阿沙賀・功刀だ――だからこそ、賭ける価値がある」
「…………」
賭ける。
なにを?
問いたい。でもできない。
問えば辛い解答しか待っていないと確信できる。
それにどうせ、問うても答えは変わらない。
「命綱はオメェと、あいつらに任せた」
「えぇ……承りましたの」
ニュギスは胸の痛みを堪えながら、なんとか笑みを浮かべて頷いた。
繋がる縁故からひしひしと感じる覚悟の念に、どうしてこんなにも切なくなる。
「じゃあ後は頼むぜ」
だが頼まれたのだ、任されたのだ。
精一杯その期待に応えねば女が廃る。彼と対等でなくなってしまう。
それだけは、どうしても嫌だった。
◇
「それで条件は?」
相談というほどの話し合いにもなっていないが、すぐ傍に敵の耳があるのだから仕方がない。
言葉に出さない部分で通じ合っていることを祈るしかない。
悪魔を引っかけるのだから、事は慎重にせねばならない。
この条件付けの会話こそがひとつの山場であり正念場。
阿沙賀は反応を見るようにまずは確実に無理な注文から放る。
「……あー人間食うな殺すな、は駄目だろ?」
「それが目的だからねぇ。流石に目の前の餌につられてはあげられないな」
「だよな。じゃあ特定の人間と、悪魔数名ってのは?」
「おや、生き残る者の選別かい? なんだか、キミらしくもない言い分に聞こえるけど」
「おれもそう思うよ」
無論ニュギスもだ。
無言の圧力を感じながらも、阿沙賀は言う。両手を上げてお手上げだと。
「っても正直、対面してもう無理だろこれ感はあるしな……」
なんとも常識的なことを言う。
それが逆に警戒心を刺激するが、これは疑い過ぎだろうか。
どれだけ人並外れていようとも、人という基準の時点で遥か格下。人という枠内から脱却していないのだから、それは警戒するに値しないのではないか。
この阿沙賀の弱音は、ただありきたりの道理なのではないか。
ザイシュグラは疑い深く注意深く言葉を聞く。
「すると人類全滅は見とくべきだろ。そこから魔界に逃げ延びれる奴らを生かしておくのがまだ現実的ってことになる」
「駄目だね。なにか、胡散臭い」
「せめて根拠を示せよ」
「さぁ? でも悪魔にとって約定は絶対なんだ、たとえ魔王と言えどね。だから結ぶには慎重になるものさ」
ほとんど敗北宣言をしているくせに、阿沙賀の舌の根はよく回る。
「人間ごときの浅知恵に騙されたくないってか?」
「長生きしてると凝り固まるのさ。キミらみたいにまだ五十も生きていない魂の考えることなんてわからないよ」
「そういや百年が当たり前の単位の生物だったな……」
最低でも千年以上生きている化け物である。
それと比すれば高校生の阿沙賀のなんと幼いことか。
あぁではもしかして。
長生きの嘘吐きというのは、それだけ不信に憑りつかれた悲哀の存在なのかもしれない。
なんて、同情などはしないけれど。
しかしザイシュグラは疑り深いだけであまり理屈をもって拒否しているわけでもないらしい。
では代案が効くだろうか。理屈じゃない説得なら、聞く耳を持つだろうか。
大人が子供の理屈を理解できないように、人類の幼さに不可解を抱いて惑ってくれ魔王サマ。
「じゃァいいよわかった――ニュギスだけは助けてくれ」
「え」
大分気恥ずかしそうに言うものだから、ニュギスは言葉をとりこぼす。
「けっ、契約者様?」
「うるせー、これ以上言わせンな」
これまた珍しいことに、阿沙賀の顔は朱に染まりそれを隠すために手で覆われている。
素直じゃない男の赤心は、この場にそぐわないほどに純なもの。
「はは、こんな時にまでそういう小さいことに拘れるのって、人間特有だよねぇ」
自己の命を蔑ろにする阿沙賀らしいといえばそうだが、ニュギスにはやはり違和感が付き纏う。
彼女の戸惑いなど置き去りに、ふたりは話を押し進める。
「条件は『ニュギスに指一本触れるな、傷つけるな』でいいな?」
からかうような物言いには取り合わず、阿沙賀は迫る。
「あぁ、うん。わかったよそれでいい。そんな程度でキミの魂を食べられるなんて夢のようだ」
「……言ったな?」
「言ったとも」
契約には慎重にと言っていたのと同じ口で、随分と軽く請け負うものだ。
そこがまた阿沙賀の癪に障ったが、無駄に言い争って条件を悪くするのも馬鹿らしい。
「じゃあ明文化して――」
『阿沙賀・功刀はザイシュグラに自己の魂を引き渡す。
ザイシュグラはニュギス・ヌタ・メアベリヒに触れること傷つけることを禁ずる』
「これで、おれは契約を結ぶ」
思えば多くの悪魔を相手取ってきたが、こうして明確に悪魔との取引をするのははじめてではないか。
これまではどうも甘い対応しかされず、利害関係など含むこともなかった。
どちらにとってもよりよくなるようにとした相互扶助が念頭にあって、悪魔と取引というよりも友人との約束事といった感覚だ。
今回の約定は、互いに互いを出し抜くためのそれ。
「いや、即時とつけてくれないか? タイミングをアヤフヤにするのはよくない」
「あー、確かにな。じゃあこっちもちょっと文脈変えるわ」
『阿沙賀・功刀はザイシュグラに自己の魂のみを即時引き渡す。
ザイシュグラはニュギス・ヌタ・メアベリヒに触れること傷つけることを永久に禁ずる』
「魂のみ、かい?」
「永久にのほうはいいのかよ」
しれっと加えた文に、反応のある部分とない部分。
ザイシュグラは一方にのみ物申す。
「それはいいんだよ、どうせ最初からそうなると思っていた。でも、肉体は食べちゃダメなのかい」
「ダメだ、後で火葬と納骨してもらわないとな」
「魂を失った肉体なんてただの肉塊に過ぎない。その機能は停止して死ぬだけだ」
「じゃあ別に食わんでもいいだろ、本命は魂なんだからよ」
「…………」
「…………」
僅かな睨み合い。
互いに譲らない――かに見えた言い争いだったが、存外にあっさりと終結する。
ザイシュグラのほうがあっさり投げ出したのだ。
「確かにそうだね、本命を見誤るのはよくないね」
「じゃあ?」
「うん、ボクも同意しよう――これで契約成立だ」
いささかの言い争いもあったが、ともあれこうして人と悪魔の間で契約は結ばれた。
そこにどんな感情が混じっていようとも、裏に潜むなにかがあったとしても。
一度結ばれた契約は絶対だ。
「では履行してもらおうか、ボクのほうから食べに行くべきかな?」
「いんや、こっちで魂くらい外に出せるぜ」
「なら早くしてくれないか、もう我慢できないよ」
契約を締結できればもう待ちきれない。
涎を垂らしてせっついてくる。白い歯が薄気味悪く輝いて、見え隠れする舌が獲物を求めて疼いている。
魔王などというより、空腹の獣かなにかに近い。
阿沙賀は制するように手のひらを突き出し、それからなにやら集中。
その間にふと、何の気なく言葉を残す。
「最期に一コ聞きてェ」
「なにかな?」
「テメェはなにをもって自分を自分だと決めつける? どんな自分でおれを喰らう?」
「無論――この食欲にて」
「聞くまでもなかったか」
そして阿沙賀の魂がその顕能によって自在に扱われ、肉体より切り離されてその場に出現する。
同時に阿沙賀の肉体は一切の力を失い、すべてが途切れるその刹那。
「テメェの自分でおれを喰って、腹ァ壊しちまえ」
「ふぅん?」
そうして、阿沙賀・功刀は――死んだ。




