110 大江戸学園試胆会再演・下
「最後か?」
「最後じゃな」
「あぁ、最後だ」
そうして、ニュギスの転移で到達したのは枯れた桜の樹の下だった。
学園校舎裏の桜の樹――いつかのような艶やかに悪夢のように満開ではなく、ただひたすら虚無的に朽ちている。
キルシュキンテに余力がなく、また以前のように悲哀に耽溺してもいないからこそのそのまま。
枯れ木の下にはキルシュキンテと、そして遠凪が並んで待っていた。
「っておい、遠凪? オメェなに油売ってンだよ、新しい結界作るンだらァ?」
「あぁちょっとだけ抜け出してきた。五分だけ、時間をもらった」
「なんでまた」
「キルシュキンテがあんまりやる気がないからな、オレが引き留めないとだ」
「あー」
ちらとそのキルシュキンテに目を向ければ、彼女は大きな欠伸を袖で隠していた。
全然やる気が見えない。
キルシュキンテとしては阿沙賀が魔王に向かって死のうがどうでもいいのである。
足止めには一番向いた顕能を有している彼女がこれでは、遠凪が出張って来るのもやむなしか。
まぁどちらにせ、一戦交えたお陰でキルシュキンテも魔力が尽きかけていて、無駄な顕能使用はできないのだが。
その思考の延長で、阿沙賀はすこし首を傾げる。
「ん。ていうか遠凪、オメェも生命力はだいぶ消費してたように見えたが、そうでもねェのか?」
「いや、八割消費してたぞ」
それにしては今見る遠凪の魂はほとんど万全に思える。
失った魔力や生命力を回復する術は時間経過と休憩、もしくは他者からもらう裏技くらいしかなかったはず。
そのなぜは遠凪もまた驚いたものだ。
「ジュガーっていただろ、世姫アティスの臣下のひとり、汰奉のジュガー。
彼の顕能は『汰生奉還』って言って、他者に自らのエネルギーを分け与えるものらしくてな」
「あー。そうか。戦闘要員じゃないって言ってたあの執事か」
要するに裏技の類。
以前に阿沙賀が縁故を伝い自らの特異性を利用してやってのけた魔力の分配を、ジュガーは顕能として行使できる。それも活性化を伴って。
「それでオレと遊紗ちゃんは回復してもらって、結界構築をがんばってたんだが……阿沙賀が破竹の勢いで亜空間を駆け抜けてたから慌ててこっちに来たってわけだ」
「そうかよ。ご苦労さん。じゃあな、おれは行くぜ」
「行くな馬鹿!」
「!」
声を荒げて遠凪は言う。
先刻までの呑気な風情はかなぐり捨てて、必死の形相で叫ぶ。
「やめろ阿沙賀、頼むから。魔王と戦おうなんて無茶が過ぎる! 勝負にすらならずに喰われてお仕舞いだぞ!」
「あーじゃァ作戦、作戦考えたから」
「そんな今思いついたみたいに!」
「いやァあいつと話した段階で思いついて熟慮の果てに打ち立てたぞ」
「嘘つけ」
「ほんとだ」
「――っ」
いい加減にしろ……!
言いかけ、なんとか飲み込む。怒りに任せても無用な言い争いに発展するだけ、遠凪はぐっと堪える。
腕を組んで一旦気を落ち着ける。感情的になってしまえば会話じゃない。押し付けるような物言いは反感を買うだけ。
阿沙賀の言い分に則って話を進めてみる。
「じゃあその作戦ってのは? 聞かせてみろよ、検討してやる」
「ダメだ」
「は? なんで?」
梯子外しも甚だしい。
とはいえ、阿沙賀にだってそうする理屈があって。
当惑する遠凪に拗ねたようにして言う。
「だってどうせ聞いても無理だのなんだの言うんだろ? わかってンだよ」
「それは……」
「……いいかおれはな、実はけっこう落ち込んでる」
キルシュキンテに図星を突かれ、バルダ=ゴウドに無骨に肯定をされて。
ようやく自覚の上でそれを吐き出せる。
「どいつもこいつもおれが勝てない敗ける、無理だやめろって……仲のいい奴らにそんなネガティブなことばっか言われたら気分悪くもなるわ」
「あ」
「で、おれの勝ち筋を言ってもやっぱり同じこと言うんだろ? そうなったら、流石におれもちょっと自信が欠けちまうかもしれねェ。それで敗けたなんて嫌すぎる。そんな言い訳したくねェ。
だから、言わねェ」
「……それは悪かったけど」
既に感情の押し付けはしてしまっていたらしい。
言われて気づくなんて遅すぎると、遠凪は頭を下げる。
「謝るくらいなら退いてくれ」
「退けないから、謝るんだ」
睨み合い、引かず、譲らない。
ふたりがふたりとも大事なものを抱えて守り抜きたいと願っている。
阿沙賀はため息混じりに。
「オメェまさかせっかく回復してもらった魂、こんな無駄なことに使うわけがねェよな?」
「無駄とは思わない。けど、確かにだいぶ揺れてる」
「おれが勝つほうにベットすりゃ悩む必要ねェぞ」
「それは無理。かといって、全力で阿沙賀を止めに入っても互いに無駄な消耗をするだけだからな……より最悪になる。どうしたもんか」
悩む遠凪に阿沙賀は拳を振って。
「じゃんけんするか?」
「オレはそんな軽い感じで人生の岐路を決めたくない」
至極常識的な意見である。
とはいえ常道を選ぶには状況は逼迫し過ぎている。どうしようもなく選択肢が狭く、とりあえずの安全策をとれないからこそ狂気の沙汰が生み落とされる。
「なら力づくしかねェよ。オメェをぶっ飛ばしてでもおれは行く」
「オレなんか軽く捻っちまうから消耗は考えなくていいってことか?」
「なわけねェだろ、下に見やがって」
なぜか、怒っているのは阿沙賀のようだった。
むしろ遠凪は俯いて諦観したような面持ちであったのが、返答が強くて驚き顔を上げたくらいだ。
怒りと羞恥でもって、阿沙賀の顔に熱が帯びる。
「いいか、遠凪。こんな恥ずかしいことは二度と言わねェから聞き直すなよ。
――おれはオメェを、一番敵にしたくないと思ってる」
「!」
「強ェ弱ェで言えばそりゃ公爵悪魔どものほうが強かったさ。たぶんこれから挑む魔王ってのはそれすら引き離してとんでもねェんだろう」
けど、と阿沙賀は言う。
挑むように強く、逆接を強調する。
「敵にすることに躊躇いなんざねェ。
敗けが見えても戦うし、勝つために考える、なにがなんでも勝ってやるさ」
こうして試胆会全員から非難を受けても、構わず突っ走って殴りかかろうとしているのがいい証左。
では遠凪は?
阿沙賀は彼と、一度たりとも戦っていない。
「オメェは違う。
敵にしたくないし、戦いたくない。ある意味で、誰よりも勝てる気がしない」
「っ」
「友達だからやりづらいってのとは別次元で、喧嘩して楽しくないってのとは違う話で、どうも上手く勝てそうにねェ。
強さとかじゃなく……なんだろうな、相性とかか? その強さを余すとこなく誰より知ってるからかもしれねェし、逆に知られてるからこそ弱みがバレてるからかもしれねェ。わかんねェ。
理屈じゃねェんだろうな」
「…………」
あぁそれは。
きっと遠凪が思っていたこととまるで同じだ。
遠凪は阿沙賀に勝てる気がしなかった。
それは阿沙賀が顕能を開花する前から、悪魔について知らなかったころから、なんとなくそう感じていた。
そこはもう理屈じゃない。
そういう奴だと、遠凪は……阿沙賀を神聖視してしまっていたのだろう。
だが当の阿沙賀は遠凪に勝てる気がしないと言う。
悪魔と出逢い、契約し、自らの魂を高め、顕能を開花した――その全ての成長を終えた今でさえも、そうだと言う。
なんだそれは。
嘘にしか聞こえない。
そんなはずはないだろう。
けれど、本当なのだと痛いほど伝わってくる。
阿沙賀もまた地に足ついた人間だ。
友達に否定されて悲しく思うことだってある。友達を過剰に評価してしまうことだってある。
遠凪と変わらない、当たり前に等身大の人間なのだ。
そんな大事な前提事項を、どうして今まで取りこぼしていたのだろうか。
いつか九桜に言われていたというのに、どうして。
遠凪が沈黙してしまうと、阿沙賀としてはどうでればいいのかわからない。
おずおずと伺い立てるようにして。
「あー、だからできればじゃんけんで決めてェって思うんだが……ダメか?」
「……いや」
首を振る。大きく、横に振る。
「ダメじゃない。じゃんけん、するか」
「マジか、じゃ早速」
――じゃんけん、ぽん。
ごくあっさり手を出し合えば、阿沙賀はまたもグーで、遠凪もグー。
あいことなって再び掛け声とともに手を出し合えば、またあいこ。
それがさらに五度も続いて――ようやく勝敗は決した。
「よっしゃァ! おれの勝ちィ!」
「敗けた……敗けた、か」
やっぱりそうだ、と遠凪は思った。
敗けるのは、やっぱり自分であったとなにかすごく腑に落ちた。それでこそと沸き立つほどだ。
ならばここで邪魔立てするのも、やはり無意味なのだろう。
無茶でも無理でも、遠凪は信じなくてはならない。
諦観の極致で、遠凪はため息を吐き出す。
「…………いいか阿沙賀、絶対死ぬなよ。死んだら許さないからな。なんならオレも死ぬからな」
「いやなんでだよ。重ェよ」
「阿沙賀が一番嫌がりそうなことを考えた結果」
「オメェも死ぬって? まァ確かにかなりイヤだがよ……」
だからってそう命を粗末にするのはどうなんだ。
などと阿沙賀が言ったら烈火のごとく反論されそうなので黙っておく。
別に勝てば無問題なので、もうこの際それはいい。
とにかくだいぶ不承不承ではあれ、やっと遠凪を言いくるめることはできたようで安堵する。いや五分とかとっくにすぎてるじゃねェか。
じゃあさっさと行くかと思えば、そこでキルシュキンテが不機嫌さを隠さないまま声を出す。
「おい戯け」
「なんだよ、名前くらい呼べよ」
今更、阿沙賀を嫌うキルシュキンテに邪魔されるとは思わないが、タイミングがどうも絶妙。
なにを言うのかと若干の緊張をもって待てば。
「どこへなりとも死にに行けばいい。ただし――勝手に殺されるではないぞ」
「……あー」
随分と回りくどい激励もあったもんだ。
礼を言っても皮肉を言っても、嫌味しか飛んでこないだろうから、阿沙賀は無言で手を振って応えた。
踵を返す。
遠凪とキルシュキンテに背を向ける。背後で待っていたニュギスが微笑んでいた。
空間への干渉がはじまる。今にも転移する、その寸前で。
「あぁそうだ、遊紗ちゃんから言伝――「今は我慢する」だとさ」
「!」
この際の際でぶっこんできやがった。
これではなにも言い返せないではないか。
腹立たしい思いを抱えながら、阿沙賀はこの亜空間を抜け出る――
◇
出れなかった。
「――最後って言ったくせによォ」
「ははは、遠凪くん嘘吐きになっちゃったねぇ」
「嘘吐きはオメェだ!」
はい、なんか予測通りではあったけどまだ終わってません。
感知できうる脱出の道に、巧妙に秘匿されていた隠し部屋。出口の手前で避けて通れないようにしてあったエクストラステージ。
迷亭・鈴鳴が待ち受ける、最後の関門であった。
「でも試胆会でだって変則第八戦はあっただろう? こうして僕が裏ボスとして登場するのは承知していたはずだよ」
いけしゃあしゃあと迷亭は言ってのける。
予見はしてたがそれにしても腹が立つということがわからんのか、こいつは。
やっとこさ試胆会どもを振り切って本番に到達、という直前のこれは無性に怒りを駆り立てる。
阿沙賀がなにか文句と罵詈雑言を吐こうとして、それを制するように迷亭は釘を刺す。
「ただ勘違いしないで欲しいのは、僕は決して君を邪魔しようだなんて思っていないってことさ」
「なに?」
「確かに魔王が人界に訪れて全てが滅ぶのは見過ごせないね。うん、全力で阻止するとも。
けれどごく個人的に言わせてもらえば――あいつをぶん殴ってやりたいんだよ」
それはいつものからかうような声音とはどこか違う。
切実な悔しさみたいなものが込められた、非常に恨みがましい言葉だった。
――ことザイシュグラくんの件に関しては、一切の虚偽なく語ると断言しよう。
先ほどのらしからぬ発言もある、よほどに因縁深いなにかがあるのだろうか。
その因縁を、どうか聞いて欲しいのだと迷亭は祈るように言う。
「だから阿沙賀くんには僕のこの怒りをね、聞いておいて欲しいんだ。君が彼を殴るその拳に、ほんの少しでも僕の怒りも混ぜてもらえたら嬉しい」
「……わかった聞いてやる。手短にな」
ため息を落として、阿沙賀は口を閉ざす。
いろいろと恨み言はこちらにもあるが、ここは譲ってやる。どうにも、積年のようだから。
すると迷亭は実にうれしそうに朗らかに笑って、自らと――そしてもう一柱について語る。
「まずは、ひとりの登場人物の紹介からしようか。口虚のパメラスカという悪魔がいてね」
完全に初耳の名であった。
これまでずっと迷亭だけが知り、他の誰にも知られることのなかった、その悪魔。
けれど阿沙賀には推測ができた。
きっと、おそらく、そいつは。
「オメェが取り込んだ悪魔か?」
「流石」にんまりと深く笑んで「その通りさ。僕が魔女としてこの新たな魂として新生した、その片割れこそがパメラスカくんなのさ」
話に上がったことは一度としてない。
名も素性もなにも残っていない。
だが確かに存在していたはずの悪魔――迷亭が魔女たるになるために捧げられた贄。
「実は僕が魔女になったのは、境界門に封をした、そのすこし後なんだよ」
「なんだと?」
ごく自然に最初から魔女であり、魔女であるが故に境界門の予兆に気づいて蓋をしたのだと思っていた。
迷亭もまた千年とか生きるような長命の存在なのだと考えていた。
だが境界門を閉じた後に魔女になったというのなら、それは一体どういう時系列になっている?
精々彼女の年齢は百歳そこらということになり、門一郎よりは年上であるが、思った以上に人に近い。
阿沙賀が瞠目している間にも、迷亭は続けている。
「僕が門を閉じてザイシュグラくんに嫌がらせをしていたら、それを知ったとある悪魔が声をかけてきてね。それが口虚のパメラスカ。
彼女はかつて魔界で、自分の連れ合いをザイシュグラくんに喰われてしまったそうだ」
「……そうか、そりゃまた」
言葉が詰まる。
悪魔たちにも情も愛もあることに疑いはない。
ならば無差別に悪魔を喰らうザイシュグラの凶行は多くの悲劇を生み落としていて、その中に憎悪を募らせて復讐を志す者がいてもおかしくはない。
いや、もしかしたらそういう悪魔は魔界に多いのかもしれない。
ただ強さが極まった魔王が相手であるから表立って感情をだせず、行動の無意味に諦観してしまっているだけなのかもしれない。
口虚のパメラスカは諦めなかった。
「そして彼女はザイシュグラくんに復讐を誓った。とはいえ力の差は歴然、だから力を求めて人間界に訪れたのだけど、人魂を喰らって強くなる、それはザイシュグラくんと同じ蛮行。そうと気づけば、できなくなってしまったそうだよ」
「真っ当な倫理観で助かるぜ」
「それでもどうにかしたかった彼女は、僕と出逢った。ザイシュグラくんに嫌がらせをして、その目的を数年とはいえ阻んでいた僕にね」
ザイシュグラに吠え面をかかせている真っ最中の人間……それは、パメラスカにとってどれだけの希望であっただろうか。
暴食をこそ至上とする魔王は、だから喰らうことを禁じられることを最も嫌がり、恐れてさえいる。
それに気づかせてくれた迷亭に、深く感謝をしたという。
「彼女はすぐに僕に助力を申し出た。とはいえ、空間術において別にパメラスカくんは卓越してるわけでもなくて、大した力にはならなかったけどね」
「――だから彼女は自己の魂を捧げることにした」
「魔女……」
「そう。彼女は望んで、僕を魔女に仕立て上げたのさ。自らの燃え続ける憎悪を受け継ぐことを条件に、ね」
「なるほどな、道理でそういう風なのか」
常ならざる憎悪。
らしくもない正直。
それは迷亭のものでありながら、迷亭でないもの。
外付けの感情、だがもはや魂で混ざり合って自らの想念と等しい。
歪のようでいで自然、奇異であるが常套。
迷亭・鈴鳴はザイシュグラが大嫌いである。
故にこそ今日までの長らくを境界門封鎖に努め、多くを巻き込みながらも死守できていたのだろう。
超然として飄々と振舞う迷亭の、それは原初。
大嘘吐きにさえ偽ることのできない真実のひとつ。
それを理解し納得できれば、
「迷亭、手ェだせ」
「?」
ふいと、阿沙賀はニッと笑ってそんなことを言う。
腕を掲げて手のひらを誘うように開く。
迷亭はよくわからずに真似するように手を出して掲げると。
ぱん、とその手を力強く叩かれた。
「よし、これでおれのこの拳はオメェの拳だ。ザイシュグラをぶっ飛ばす、おれとオメェの拳だ」
「…………」
「約束してやる、オメェの積年の恨みつらみもひっくるめて拳を握る――殴って来てやるから安心しろ」
「きみは……」
ふわりと胸に宿るのは、仄かに暖かいなにか。
冷めきった迷亭の魂にさえ灯された、ささやかながら消えることのない炎であった。
迷亭は抑えようもなく朱に染まっていく顔を隠すようにして、わざとらしいほどやれやれと首を振る。
「あーあ、絶句だよ。まったくまったく、言葉もでない。大嘘吐きを黙らせるなんて、君は本当にいけずだなぁ」
「どこが黙ってンだよ、ペチャクチャうるせェぞ」
「照れ隠しだよ、言わせないでくれ」
割と本音なのだが、あまり聞いた風もない。
いつもの嘘が出てこない。息を吸うように吐き出していた大嘘が霧散している。
なんてことだ、これじゃ大嘘吐きの面目丸つぶれだ。
「やっぱり君は素敵だ……僕の求めた運命のひと」
だから思わず呟いたそれも、紛れもなく迷亭・鈴鳴の本当なのであった。




