11 嘆溺の
どぽん、と。
まるで高飛び込みをしたような水音が鳴り響き、気づけば阿沙賀は水中にいた。
床を透過した……のではない。
阿沙賀がいたのは三階で、すり抜けるだけなら二階に着地するだけだ。
そうではなく意味不明の底知れぬ水の中にいる。
ならばあれは門であったか。
フルネウスの住まう亜空間へと繋がる門――すなわちここは。
「ここは俺の世界。
まさか自ら飛び込んでくるたぁ驚いたが、やっぱお前は面白いよアサガ」
「うるせェ黙ってろ――っ!?」
叫ぶと同時に驚く。
声が出せる。呼吸ができる。流石に水の抵抗感はあるし、どんどんと沈んでいくが、溺れない。
どういうことだ。
「ここで溺れるのは嘆く者だけだ。自らに絶望せず、己を揺るがない奴は溺れない。沈みはするがな」
溺死はしない。
だが沈み続けて浮かび上がることはできない。
言われて試してみると、浮力が極端に低いのかまるで重しを腹に括りつけられているように沈下ばかりする。
腕で掻いても、脚をばたつかせも一向に浮上しない。泳ぎにほとんど意味がない。
「ここに底はない。永遠に沈み続けてどこにも辿り着けない。嘆きが死を意味する――それが俺の顕能『溺れる藁は嘆くばかり』」
「――あっそ」
阿沙賀は説明を聞いてなお気にせず、むしろ身を反転して全身で水をかき分け泳ぎ出す。
――下に向かって。
「は? おまっ、話聞いてたのかよ、なに潜ってんだよ? 死にたいのか!」
「死なせたくない奴がいるだけだ、ボケ!」
自然の沈没よりも、自ら泳いで潜ったほうが速度で勝るのは道理である。
だから、すこしもすれば先に沈んでいた遊紗のもとへ、阿沙賀は辿り着いていた。
腕を伸ばして抱きかかえ、水没の速度を緩める。顔色を確認する。
「……」
遊紗は気絶していた。
まあ、学園にいたはずなのに急に四方八方が水しかない空間に落下させられたら嘆きを抱かないほうがおかしい。
慣れ始めてる阿沙賀がおかしいのだ。
幸いにしてすぐに気を失っているのなら無駄に水を飲み込むことはしていないはず。
まだ間に合う。死んでいない。
「…………」
阿沙賀は遊紗をしっかり抱えなおし、目を瞑る。
腹の内に眠ったものを取り出すイメージ。燃える炎を、全身に飛び火させて包み込む想像。
まるでそれは恋のように。
「――『命短し恋せよ亡者』を思い出せ」
開眼――同時に吹き上がるのは魔力である。
阿沙賀は一度注入されたシトリーの魔力、その感覚を既に掴んでいた。
付与ののちに自然と揮発して消えていくはずのその力に蓋をして、腹の底に沈めておくことができた。
それを今、解放した。
であるなら阿沙賀は現在、魔力により強化された人並外れた力を有する。
驚愕するのはフルネウス。やってのけた当人以上にそれの不可解を理解しているがゆえ。
「はぁ!? お前それ、根暗女の魔力……!?」
「節約家でな、もったいないからとっといた」
それだけ言うと、爆発的に向上した脚力でもってこの沈むばかりのはずの世界で駆け上がる。
水の抵抗も底なしに沈める見えない引力の腕も振り切って、阿沙賀は再び地上へ――学園の廊下に舞い戻る。
その姿を、フルネウスは太陽を見上げるように目を細めて見つめていた。
◇
「ぶは――っ」
なんとか着地。学園に帰って来た。
静かな廊下は他に誰の気配もなく、どこか不気味なほどに陽の光が薄い。
不思議なことに阿沙賀も遊紗も乾いていて、どこも濡れていない。先ほどの空間は夢か幻だったのか。
否である。
こちらの法則が向こうで適用されないように、あちらの世界での法則はこちらに適用されないというだけのこと。
把握しつつ阿沙賀は声を張る。
「おいこら、天の声!」
『はいはい、呼んだかな? 戦う君の最後の友人、天の声だよ』
ふざけ倒した出現の台詞にはすごく苛立つが、突っ込んでいる暇すらない。
用件だけを叩きつけるように叫ぶ。
「試胆会には部外者を傷つけるなって契約はねェのかよ!」
『あるよ。ただ今回は君の関係者だとフルネウスくんが勘違いしたものだから、微妙にグレーゾーンでね。咎めるほどではないけどちょっとラフプレーだったかな?』
「そうかよ、ともかくこいつを安全な場所に連れてけ」
別に反省なんざ期待していない。損得で物言いをしたわけでもない。
あの嗜虐の牙は他者を害することになんらの思い入れもないのだろう。悪意なく本能で殺傷する野生のサメそのもの。
そんな相手に感情的になっても無駄。苛立ちを表に出すだけ手先が震えて己の制御がブレる。不利になる。
だからむしろ怒りは先に吐き出しておく。自分の熱量を下げるためにもだ。
ぶっきら棒な命令にも天の声は嬉しそうに。
『もちろん。君が言うなら従うよ。そのドアの向こうに投げたまえ』
なにもなかったはずの壁に、横開きの戸が現れ出でる。
阿沙賀は特に驚かずひとりでに開くドアの向こうに遊紗を置く。
手を引っ込めるとぴしゃりと閉まり、そして幻だったかのようにドアは消え去った。
廊下には阿沙賀ひとりが取り残される。
「さて」
感情を吐き、懸念事項も失せたことで、阿沙賀は平常心を取り戻している。
考えるべきことはいくらもあるが、思考時間はフルネウスがやってくるまでのほんの僅か。
優先順序を違えず最速で思考を回していく。
『命短し恋せよ亡者』は一度身に受けて、それが抜け落ちるのを抑え込んでいるだけ。必ずいずれは揮発する。
引き延ばしても三分程度、先のように全開にすれば三十秒が限度だろう。
その制限時間でフルネウスを倒さねばならない。
「……」
ただ殴り倒すだけなら地上でやりあえばなんとなるかもしれない。
だがそれでいいのか?
悪魔を屈服させるのが試胆会の本意――ではただ倒すだけでいいのか?
シトリーは恋を求めていた。
コワントは賭け事……ではフルネウスの欲する敗北の形はなんだ?
ただ殴り倒されることで喜ぶマゾヒストであるのか?
圧迫感を覚える。
高速で駆け上がる恐ろしき血染めの怪物が迫っている。
その直前に、阿沙賀は小さく囁いた。
「ニュギス……頼みがある」
「追いついたぞ、アサガぁ――!」
勢いよく床の水面を弾き飛ばしてフルネウスが現れる。
口が裂けるほどに笑って、全身で歓喜を表現する。阿沙賀の正面に立つ。
「お前がどんな理屈で命恋を使いこなしてんのかは知らねぇ。そうならそうで楽しむだけだ!」
「陸で魚がはしゃいでんなよ、フカヒレにして食っちまうぞ」
「やってみろやぁ!」
だん、とフルネウスは床を蹴っ飛ばして阿沙賀に突撃、近接しては手刀を振り下ろす。
横暴で乱暴な彼の態度に反し、その刃は感嘆するほど鋭かった。
首が落ちたと勘違いしかけるが、しっかりと阿沙賀の身体は回避をしている。首筋に、赤い線が刻まれて。
その鋭利さはおぞましき妖刀のごとし。本能的に恐怖する刃物を連想させてやまない。
それで怯えて竦む阿沙賀はいない。
「おらァ!」
やられたらやりかえす。
単純な理でもって握りしめた拳を叩き込む。
直撃、そのどてっ腹に。
「っ」
だがそこで阿沙賀は戦慄する。
まるで分厚いタイヤを殴りつけたような嫌な感触――美しさすらあるその筋肉は鎧としても天下一品。
フルネウスは痛みすら感じていないかのように即座に切り返してくる。
手刀の斬線。阿沙賀は脇腹から肩にかけて浅く斬痕を刻まれる。赤く生きた血飛沫が散る。
「っァ!」
「まだまだ寝るなよ、もっと来いよオラぁ!」
「冗談は筋肉だけにしろ、クソボケがァ!」
のけぞりそうになる上半身を気合で堪え、むしろ前へ。身体中でフルネウスに襲い掛かる。
渾身の頭突き。
「ぐっ……は……ぁ!?」
これにはフルネウスも痛打を受けてたたらを踏む。
一撃殴って確信した。
薄く長く引き延ばしても意味がない。色濃く短く弾けるように。
――『命短し恋せよ亡者』を全開にして殴りかかる。
「三十秒で刺身にしてやるよォ!」
「ハハ――っ!」
額から血を流しながらも、フルネウスは笑い続ける。
お前が真っ向から全力で挑むのなら、当然。
「水ん中でもはしゃいでいこうぜ、哺乳類!」
「!」
――こちらも全力で応えるとも!
瞬間、見渡す限りすべての床が壁が天井が――水面のように波打った。
学園廊下が丸ごと彼の世界へと続く門へと入れ替わったのだ。
「――『溺れる藁は嘆くばかり』、全部沈んじまえぇ!」
無論、足場なくば陸の上にはいられない。
飲み込まれるようにしてふたりは再び水中世界へ落下する。
ごぽりと泡を吐き出しながら阿沙賀は急遽、水中に適応しながら文句だけはぶつけておく。
「くそっ、ンな広範囲はズルだぜ」
「俺はお前を甘くみないぜ、出し惜しみはなしだ」
そう言うフルネウスは存外に疲労の色を見せていた。
流石の彼も周囲全域を門へと反転させるのは極度の消耗があった。
そこを突いて先のように全力でもって地上に這い上がるべきかとも考えたが、言ったようにそう甘くはないだろう。
阿沙賀は沈んでいくのに、フルネウスは浮かんでいる。
彼の世界なのだからそのくらいの匙加減がきくのに不思議はないが、これでは上に行くにはあいつをどうにかしないといけないことになる。
通せんぼうの形は単純ながら厄介。
「……」
「はっ、やっぱ冷静だなアサガ」
強行にはでず、むしろ『命短し恋せよ亡者』を抑えておく。その判断力にフルネウスは拍手を送る。
完全に地の利は相手にある。
水中で殴っても踏ん張りがきかないし水の抵抗があるしで威力半減は免れまい。
阿沙賀の最有力の攻撃手段が拳である以上、この場は不利すぎる。
せめて前者だけでもなんとか――
『辿り着きましたの、仮契約者様。わたくしとの縁を辿って来てくださいませ』
その時。
ようやっとニュギスの声が阿沙賀に届いた。
「っ、遅ェぞニュギス!」
『だって思ったよりも深いんですもの、この水たまり』
想定よりも時間がかかっている。
この世界の深度はそれほどまでかと驚くと同時に、ふくれっ面が目に浮かぶような不満の声に苦笑する。
遠く深く離れているはずなのに、いつものようにすぐ傍から聞こえてくるようだった。
「? なんだ、お前の契約悪魔か?」
フルネウスはそういえばいなくなっていたニュギスのことを今になって思い出す。矢面に立たない者に興味はないらしい。
だがその無関心がこちらに残るわずかな有利のひとつ。
「あぁ、ワガママなお姫様だが、やるこたァやってくれた」
にやりと笑うと、阿沙賀は身を翻して転進する。
今度もまた、底へと向かって自らこの世界の深みに嵌って沈んでいく。
全力で、全速力で、わき目もふらず。
「だからなんでお前はそう思い切りがいいんだっ」
沈み続け浮かび上がることのできない水中世界。
どうしてそんな世界でまるきり迷わず水没を選べるのだ。
理屈を理解できていないのか。頭が破綻しているのか。
この世界に飲まれ、なんら藻掻くこともせずにさっさと自ら落ちていく輩などはじめてだ。それも自棄になったわけでもなくなんらかの意図をもって、即決即断の上でだ。
先行き不明、どこまでも澄んでいるのに視界には水以外になにもない。
その全身は引力に絡めとられ、底なしの底へと引っ張り込まれている。逃れる術もなし。
その沈下速度は、自身の後押しもあってもはや自由落下にも等しいだろう。
恐ろしくはないのか。不安にならないのか。
嘆くことは、しないのか。
あぁまったく驚嘆だよ。
なんて強靭な――狂人な魂をしていやがる!
「いいぞ、どこまでも潜ってみろ、ここに底などありはしない!」
「ウソをつくなよ、海パン野郎」
「なにっ」
水を掻き分け底を目指す。
フルネウスは底なしを断ずるも、阿沙賀はそれを信じていない。
もっともっとと加速しながら落ちながら、阿沙賀はすぐ後ろで追ってくるフルネウスの嘘を看破する。
「底なしが事実なら、オメェは無限の世界を作り出したことになる。それはありえねェだろ、流石にフカシすぎだぜ、真っ赤っかじゃねェの」
ニュギスにも確認済みだ。
悪魔であっても無限なんてものを作り出すことなどできない。
フルネウスは歯牙にもかけない。
「はん! 嘘だと思うのは勝手だが、じゃあなんだよ、沈んでいけばその先に出口でもあるってのか?」
「ンな都合いいわけあるか、おれだってオメェを甘く見てねェ」
理性の色は健在で、適当な思い込みに全ベットをしているわけではない。
「無限じゃないが、底なし。これの答えはひとつだろ――この世界は球形だ。要は惑星と同じ構造だな? 言ってみれば水中惑星ってか」
「っ」
巨大な球状の水の塊。
球形でありその中心部に引き寄せる強い引力を持つ。まるで重力のように、なにもかもを球形の中心部へと引っ張り寄せる。
だからこそ沈み、だからこそ浮かばない。地上で空には飛べないのと同じ。
それこそがこの『溺れる藁は嘆くばかり』の正体だと阿沙賀は断ずる。
「たしかにこれなら底なしで、足場なんざどこにもないンだろうぜ」
「ハハ、だったらどうする? この水中で俺とやり合うしかねぇぞ?」
それは御免被る。
フルネウスの作り出したフルネウスの世界――独壇場にして独占状態で戦うなど愚の骨頂だ。この底への逃避は戦闘回避の意味もある。
そしてもうひとつ最大の理由は――
「見つけた」
果たしてどれだけ深くにまで潜ったのだろう。
空から急降下とそう違わないはずだから、重力加速度を加味して計算できるのかもしれないが、この場でそんな細かいことを気にする者はいなかった。
ただ阿沙賀は、ようやく目的地についたことだけをわかって気を入れる。
ふわふわと水中でも一切濡れた様子もない輝かしいほど美しい銀髪の少女がそこにいる。
ニュギスは開口一番、自分を待たせた男に苦言を呈する。
「遅いですの」
「この無駄に深い水たまりのせいだ」
そこはこの水中惑星の中心部。
全方位から圧力のかかる水没の終着点。
無論、そこに足場などないし、一見して他のどことも変わらない。辿り着いてもわからない。
だからこそ先にニュギスに行かせて、ゴール地点に立ってもらっていた。
だがそれがなんだという。
フルネウスは牙を鳴らして笑う。
「こんな深くまで来た奴はお前がはじめてだぞアサガ……だけど、だからなんだって言うんだ? 中心部に来たところでなにも変わらない」
「そいつァどうかな……聞いたことがあるぜ、星の中心は引力の終着、全方位からの引力が均一になって無重力になるってな。つまりそれって、一歩踏み込めば下からの引力が反発してくれるってことだろ?」
阿沙賀はニュギスの傍にまで降り立つと、なにやらゆらゆらと脱力して周辺環境の把握に勤しむ。
身体中でこの世界に溶け込み、理解し、適応する。
そこはこの世界における中心地点であり、足の下では無重力がある微妙極まる境界線。本来の惑星においては辿り着くことはありえず、また水に満ちていることもないだろう星の中心部。
ほとんど空想でしかない不定にして未定のその場所は、阿沙賀程度の理解が及ぶようなものではない。
なぜ自らそんな不可解な場を目指し、そこにあるのか。
答えはひとつ。
「ん。掴んだ」
「……お前、まさか」
――阿沙賀はそこに直立した。
重い身体を律して、世界の中心の無重力のわずか下を足場にしている。
球形であり全方位からこの中心部めがけて引力が発生しているのならば、逆側の引力を斥力として利用できるということ。
「引力だって裏を返せば斥力だろ。全方位の力が集束する一点、それさえ特定できればまァ、陸じゃなくても立てるってもんさ」
「ありえねぇだろ! 理屈になってねぇよ!?」
一体それはどんな超絶なバランス感覚なのだろう。
言うなればそれは針の上に立っているようなもの。それも暴風に晒された状態でだ。
尋常ならざる自己の身体制御能力に、フルネウスは意味が分からず動揺してしまう。というかその理屈はおかしいだろう。
「うるせェ! できてンだからなんでもいいだろ!」
この水中世界においては存在しないはずの足場、それこそが阿沙賀の求めたものであり、こうでなくっちゃ腰の入ったパンチは打ち出せない。
阿沙賀はただ、思い切り気持ちよく殴りたいがためだけに自殺に等しい沈下領域での急降下を敢行したのだ。
阿沙賀はようやく手にした勝機を握りしめて拳を作り、凶悪に笑って見せる。
「来いよサメ野郎。まさかオメェ、自分の世界の中心を土足で踏みつけられてンのに捨て置くなんてできるわけがねェよなァ?」
「…………」
挑発に、だがフルネウスは乗ってこないでこちらを観察している。
わけがわからない。
どういう理屈で、どうしてそんな結果になる。
惑星の中心に立つ、無重力のわずか下の斥力を足場にする……いや無理だろう、なにを言っているのだ。滅茶苦茶だ。
無茶苦茶な行動のはずなのに、阿沙賀は確かに直立している。もはやフルネウスもドン引きだ。
だがわかることもある。
おそらくこのまま放っておけば、阿沙賀はいずれ耐えかねて自滅する。
『命短し恋せよ亡者』はさっきから目減りしているし、そうでなくても単純に体力も集中力も持続するはずがない。それほど過酷で消耗の激しい体勢のはずなのだ。
「――おれは嘆いたりしないぞ、フルネウス」
「……!」
わかっている。
だからこそ阿沙賀は言う。挑発をする。
「おれは水底に沈んだっておれのままだ。嘆かないし折れない、譲らない。阿沙賀・功刀は絶対だ!」
「だったら……!」
堪えきれずに大笑い。
牙が鳴り、身を捩り、目は爛々と輝いている。
フルネウスにとって捨て置けないその啖呵に、笑って突撃をかます。
「だったら見せてみやがれ! アサガァァァァァァァァァァァァァアアア――!!」
まるで魚雷の発射。いや鮫の突貫か。
全身を使ってただ阿沙賀に向かって一直線。重力による加速まで存分に活かして、世界の主はその中心へと高速で疾走する。落下する。
開いた口腔には獰猛な牙、一食いで大地も空間も魂も粉々にしてしまう理外魔性の粉砕機。まさに空想上の鮫が如き荒唐無稽な破壊力がそこにはある。
――交錯は一瞬。
一切を顧みない、文字通り捨て身の突貫。
断じて人間ごときに敢行するような暴挙ではなく、ではそれは阿沙賀を対等であり打倒すべき好敵手と認めている証左。
宣言通り、フルネウスは決して阿沙賀を甘く見ないし舐めたりしない。全身全霊を尽くしている。
――激突は刹那。
「はッ」
だが音速魚雷の如き加速であっても真っ直ぐがすぎる。強力無比の鮫の一撃であろうと単調がすぎる。
そしてそれは阿沙賀の待ち望んでいた展開である。
コンマ以下、瞬きひとつより尚ずっと短い寸毫のタイミングだけを見据え見つめて見極めて――
「ニュギス――」
そっと手のひらを開く。
そこに握り締めていた秘密兵器を開帳する。
「点火」
「はいですの」
――破滅的な大爆音が轟いた。
「が……っ!?」
それは爆竹の弾けた音である。
――阿沙賀がニュギスに頼んでいたことはふたつ。
ひとつはこの水中世界の中心部の発見と移動。
そしてもうひとつは阿沙賀の握っていた爆竹に、火を点けてもらうこと。
「八木と志倉の奴には礼を言っとかねェとな……サメを殺すなら爆発ってな」
爆発と言っても殺傷力などあってなきようなもの。むしろ握っていた阿沙賀の手のひらのほうが火傷している。フルネウスに爆熱によるダメージはない。
だが大きな音はこの世界中を駆け巡った。衝撃がどこまでも波及し貫いたのだ。
水中での音の伝達は空気中よりも遥かに速く明確。
その上で魔力で強化した――爆熱は弱くとも爆音の伝播は凶悪なまでに鮫の悪魔に襲い掛かった。
鼓膜を揺らし、全身を劈き、意識をかき乱す。
突進の姿勢が維持できず、フルネウスは激突の直前で身を痙攣させて止まってしまう。
それは捨て身ゆえの手薄さを衝く悪辣なる所業。
――悪魔相手に人間のする行いはすべて生きるための正当な手段となる、だ。
当然、そうして作り出した絶好の隙を逃すわけがない。
水中抵抗で挙動の遅れることも踏まえ、足場の脆さや環境の悪さも理解した上、この世界に適応したスイングを構築する。
身を捩じり腰を捻って体中で回転をイメージ。
汲み上げた力を全て右の拳に集約して装填。
あとはただ思い切り――拳をぶち込む。
「オラァ――!!」
フルネウスのどてっ腹に阿沙賀の拳が突き刺さる。
絶妙の機、会心の手応え――思わず口端が笑みに歪むほど。
それは衝撃を外に逃さぬ浸透勁。殴り飛ばすのではなく殴って内部に衝撃を弾けさせる技法。筋肉通しの技芸である。
練り上げた全てを存分に叩き込み、僅かも漏らさず撃ち込んだ。悪魔と言えどただでは済まない。
「おれの残る魔力を全部まとめてぶちこんだ……流石に効いたろ、サメ野郎」
『命短し恋せよ亡者』の全ても費やした最後の一撃。これを耐えるのであれば阿沙賀は敗けだろう。
果たしてフルネウスは、にやりと笑った。
「あぁ……まったく、溺れるほどにたらふくだ。悔いはねぇよ」
気ままにふるまって、だからこそ負けたのだとしても。
阿沙賀の一挙手一投足すべてが愉快で意外で、想定外の負け方には感心もした。
なによりも、あの全部を乗せた突撃が破られた時点で、この男の魂にこそフルネウスは屈服したのだ。
『大江戸学園七不思議試胆会、第三戦目――勝者は阿沙賀』
□
「仮契約者様は耳、大丈夫なんですの?」
「耳栓してンだよ、当たり前だろ」
「えっ。どうして耳栓など持っていたのです?」
「爆竹と一緒にもらった」
「ふぅん……いえ、でもおそらく魔力で強化された爆音でしたらそれも貫くのでは?」
「大丈夫だったンだから大丈夫なんだろ」
「えぇ……」




