109 大江戸学園試胆会再演・中
「――お? リア?」
次の舞台は学園の屋上だった。
青空が見える時間帯を模した、なんだかいつものたまり場だ。
そこで待ち受ける四番目の刺客はなぜだか甲斐田・リアとドボルグドワのふたり。
これまで試胆会の出席番号順――コワントが先を譲ったのは例外として――に待ち構えていたものだから、次は迷亭かアルルスタであろうと思っていたのだが。
リアは複雑な顔をして。
「あの四名の空間術の前には、わたしなんていてもいなくても変わりませんので、阿沙賀くんの引き留めのほうに参加させてもらってます」
「迷亭の代役か。似つかわしくねェなァ」
大嘘吐きの代わりに誠実で正直なリアを配するというのは、なんとも皮肉を感じる。
「というかリア、オメェこの急展開でしっちゃかめっちゃかな状況、ちゃんと踏まえた上でその選択なのか?」
唐突に現れた魔王。
崩壊した学園結界。
終わりまでのタイムリミット。
未だ大江戸・門一郎や試胆会という例外的な存在を咀嚼しきれていないであろうリアには、もう天地がひっくり返ったような心地ではないか。
だからこそ、リアは大まかな部分を一端脇に置くことにして、ただ目の前の友人を見ている。
「とりあえず阿沙賀くんがまた無茶を仕出かそうとしていることはわかってますよ」
「無茶は無茶でも勝ち筋くらいはあるぜ」
「それ、どれくらいの勝率なんですか?」
「んー。わかんねェけど、一割はある、と思う」
「低いですよ!」
「ギャンブルとしちゃ充分すぎねェ?」
「賭け事はよくありません」
しかしてそれはそれとして、とリアは冷や汗を流す。
「魔王相手に一割勝てるかもって言える時点で相当びっくりなんですが……」
遠凪はゼロだと言った。
魔界の住人だってありえないと言う。
リアだって、同じく不可能であろうと思っている。
どうしてこの人はそんな大言壮語を臆することなく語れるのか。
あの魔王を、欠片とはいえ直視した上でなお、変わることなくあるがままでいられるのか。
リアは魔界の王などと、そんなものは話の上でしか知らなかった。
先祖代々遡っても、魔王を目撃したことのある者は一人としていないだろう。いや人類史にすら、それはいない可能性があった。
だからこそその存在に感じるのは恐怖よりも距離感だ。
ひたすら遠く、無関係で、ちょうど銀河の果ての名のある星に抱くような無関心に近い。
それが一目見てひっくり返った。
あんなものが実在したなんて。
あんなものが存在し続けていたなんて。
なんという絶望、飛び切りの悪夢でしかない。
これまで恐怖だと思ってきたものが全てが勘違いだったと気づく。
これまで絶望だと思ってきたものが全部早とちりだったとわかる。
あれこそが本当に恐怖であり絶望。
死よりも恐ろしい最悪の魔――魔王。
「おいこら、落ち着けよ」
「っ」
すこし思い出しただけで、リアは顔を真っ青にして震えていた。阿沙賀が心配になるほど怯え切っていた。
なんとか気を取り直して。
「阿沙賀くん」
「おう」
「阿沙賀くんはわたしと友達、ですよね」
「あぁ。友達だ」
「では友達の言うことを聞いてください。死なないでください。お願いします」
低頭を伴った、それは純粋な願いだった。
力づくでは止まらないとわかっている、だから心に訴えかけるしかない。
無茶はやめて欲しい。危険なことはしないで欲しい。生きることを自ら投げ出さないで欲しい。
そこに抱く思いがないではない。迷いが生じなかったと言えば嘘になる。
リアの誠実と思い遣りは胸を衝く。
だから頷く。
「わかった死なねェ。勝ってくるからそこ退いてくれ」
「…………阿沙賀くん、あなたという人は本当に――分からず屋!」
――『装成』。
「お、まだ武器作れたかよ」
「しゃーからそれが最後の一振りやで」
既にリアは生命力を使い果たし、ドワもまた魔力がほとんど残っていない。
阿沙賀の指摘は正しく、けれどドワにも意地がある。なんとか『装成』を起動させてリアの手に刀を託す。
屋上の床を蹴ってリアが刃を振るう。
生命力や啓術のない、それは単なる武芸による一閃。けれど真面目な鍛錬が如実に表れた太刀は鋭く速い。
スウェーバックで避けてなければ胸から裂かれていただろう。
「いやちょっとリアさん、思い切り過ぎじゃね。今の死ぬ奴だろ」
「阿沙賀くんならこの程度で死にませんので」
「信頼は免罪符じゃないんだぜ」
「それはこちらの台詞です!」
ひゅんひゅん、と軽やかに刀が空を斬る。
割と容赦なく斬撃は連続し、その一刀ごとに命を刈り取る精妙さを誇っている。
常のリアならもう少し遠慮がありそうなものだが、ちょっとキレているみたいである。
「…………」
珍しい激した姿に、阿沙賀はすこしだけ気落ちする。
リアのような善人を怒らせるということは、やっぱり自分の選択はある意味での間違いを踏んでいるのだろうと思う。しかもその善性を蹴っ飛ばすともなれば、結構な精神力を要する。
友誼を結んだ沢山の友人に揃いも揃って非難をぶつけられる。
それは、とても。
「ツレェな……」
「え」
「なんでもねェ――やる気だってンならこっちもやるぞ。歯ァ食い縛れよリア」
「っ」
回避一辺倒だった阿沙賀の動きが変わる。
振り切った刃に向かって拳を振り下ろし武器破壊。もう鋼の刃ですら生身で容易く砕くのはツッコみどころにすらならない。
いや。
リアは咄嗟に後ろに下がって折れた刀をなお構え。
「阿沙賀くん、なんだか魂の器がだいぶ大きくなってませんか?」
「顕能で小さくしてただけで、今のが本来のらしいぞ」
「あなたという人は……」
偽装で生命力を低く見せるくらいは可能だし、啓術で感知から逃れることもできるだろう。
しかし魂そのものを縮小させるだなんて聞いたこともない、それは臓器を随意に小さくするような無茶であろう。
事あるごとに驚きを提供してくれて、本当にこの人はとリアは呆れかえる。
有り余る生命力で自己強化を施していて、ほぼ万全。こんなの勝てるはずがない。
それでも諦められないのは、今の阿沙賀とリア以上の差が、阿沙賀と魔王にはあるはずだから。
「阿沙賀くん、力を得て慢心してはいませんか?」
「あー。ないとは言えねェけど」
「今のあなたは契約悪魔に助力を得られれば、きっと公爵の悪魔さえ問答無用で倒せてしまうのでしょう。人間として、いえ、悪魔さえ含めても破格の強さです。それは間違いありません。
ですが」
本当に冗談みたいに、阿沙賀は強くなった。
はじめて出逢ったあの日から、まだ数か月と経っていないというのに。
それを踏まえた上で断ぜられる。
「魔王は駄目です。魔王は今のあなたが百人いても敵わないくらいの隔絶です」
「ってもそりゃ知識での話だろ。さっきの欠片を一パーセント未満として、だから百倍以上は強いはずって、そんな理屈だけで語れるほど喧嘩は単純じゃねェだろ」
「だとしても、です。だとしてもやっぱりその差はどう足掻いても埋まるものではないはずです」
「まだ足掻いてないのに言い切るのは思考が逃げてるだけじゃねェか」
「逃げずに対面してしまえば!」悲鳴のように「それであなたが死んでしまうじゃないですか!」
折れた刀を抱えてリアは行く。
刀身は半分、それでもリーチではまだ勝る。阿沙賀の拳の間合いに入らないように立ち回り、切っ先で牽制して踏み込ませない。
技術として、それは成立していた。
けれど。
「悪ィなリア、おれは行く。オメェの善意を踏みつけても、行きたいんだ」
「……せめて踏み越えて糧にしていただけると助かります」
いくら武芸に優れ技術を研いでも、やはり根本的なスペックが違い過ぎる。
生命力を開放して強化した阿沙賀には、その刃は遅すぎた。
容易くいなし、間合いに入り、柔らかに拳を腹に押し当て――
「――――」
「オメェも忘れてねェぞ」
予測通りに弾丸が飛来してきたので首の動きだけで回避。
見遣ればサイレンサー付きの拳銃を持ったドワが、苦く笑っていた。
「忘れてくれてよかったんやけど」
先の刀が最後の『装成』――だが事前に用意しておいた拳銃は忍ばせてあった。サイレンサー付きで。
誠実なリアを陰で支える不誠実なドワの、嘘ではないが本当でもない不意打ちである。
とはいえそのコンビを正しく理解して相対していた阿沙賀には、あまり効き目はない。
そのまま阿沙賀は阻害なく攻撃に移る。
触れた状態の拳を作用点とし、体重移動の要領で全身からくみ取ったエネルギーを押し込む、ぶつける――寸勁。
「かはっ……」
それは全身で勢いよく体当たりをする威力を、拳ひとつに収めたようなもの。
リアは腹を押さえて倒れ込む。
即座に二度目の銃撃が撃ち込まれるも、阿沙賀はやはり最小の動作だけで避けつつ、さらに近寄っている。
ドワには抵抗の術もなく。
「あー、なんやその……加減したってな」
「オメェはいつか一発殴りたかったんだよな――却下だ」
「いけず――ごべばァ!?」
気持ちの良い右ストレートで殴り、そのまま地面に叩きつける。
というかこいつ、人の眉間に鉛玉撃ち込んどいて手加減求めるの、図々しいにもほどがあんだろ。
蹲るリアと床にめり込むドワを一瞥し、邪魔立て不能を確認。阿沙賀は踵を返す。
「リア、ドワ。わりィな。おれは行くぜ――ニュギス」
「はいですの」
転移し消え去ったふたりの背中を、リアは歯痒い思いで見ていることしかできなかった。
「あさ……が、くん……っ。しなないで……」
◇
「ヤ、アサガ。久しぶりだネ」
「おーう、そうか。オメェとは冬休み初日が最後か。久しぶりだ、アルルスタ」
次なる舞台は二年二組の教室。
空き教室と構造自体は変わらないが、そこかしこで使用の形跡や持ち込んだ荷物が見受けられてなじみ深い。
無論、全ては異相空間による模倣であり、実際的にはただの外装でしかない。
まるで目の前の少女、鏡相のアルルスタのように。
「…………」
「そんな辛そうな顔しないでヨー」
「あーいや、わかってンだ。わかってンだよ。わり」
わかっていても、割り切れていない。
今、目の前にいるアルルスタは、以前のアルルスタと寸分違わない生き写しそのもの、限りなく等しい存在だ。
それは人格、記憶、そして魂でさえも見分ける方法など存在しえないほどに、同じなのである。
しかしどうしても情動だけがついてこない。
一度失われたという事実が、目の前の彼女をこれまでの彼女とは別物であると意識してしまう。
とはいえ、それは一時的な感傷に過ぎないだろう。
スワンプマンを同一人物と見なすことに抵抗がある、それは当然だろう。しかしそんな理性の抵抗はいずれこぼれ落ちていく。
どんどん記憶は薄れていく。その分だけ対面する彼女は彩りを輝かせていく。過去を塗り潰すように。
なにせ記憶という曖昧な脳内情報に比して、実在して喋り笑うリアルタイムの彼女はあまりにもアルルスタなのだ。
きっといずれは違和感の痕跡すらも失せてしまうのだろう。それがが恐ろしかった。
だからこの感傷を忘れないようにしておくべきだと思う。
阿沙賀のために消えた二番目のアルルスタへの、せめてもの手向けとして。
「…………」
複雑な思いがあるのはアルルスタとて同じ。
同一人物でありながら他人であるという奇妙な矛盾が常に腹の中で犇めいている。語らう相手は自分ではない自分を見ている。目の合わせ方すらわからない。
けれどここでそんなことをグチグチと言い募っても仕方がない。もっと大事な目的をもって阿沙賀と一室にて相対している。
彼女の今の目的は、きっとかつての彼女と同じもの。
「アサガ。一度だけお願いするネ――いかないで」
「断る。おれは魔王をぶっ飛ばす」
「でも、でも死んじゃうヨ? アサガが、死んじゃうんだヨ? それだけじゃない」
自分のように自我の死ではなく、魂の死。
蘇りも転生もありえないほど徹底した終わり。
なにせ。
「魂喰魔王ザイシュグラに食われた魂は彼に消化されて輪廻の輪にすら還れない」
「やっぱりそうなのか」
悪魔が人の魂を全て喰らうと輪廻から外される。
それは迷亭が以前に説明していたこと。
ならば、人も悪魔も問わず魂を喰らうことを楽しみとするザイシュグラに食われれば、当然同じ帰結に至るのは予測できていた。
だからこそ彼は最悪の魔王なのである。
色も熱もないアルルスタは言う。
「あれはアサガを欲しがっていたね? おそらくは、アサガの魂を欲していたのだろう。彼は喰らった魂を消化せず残し顕能を使用できるそうだから」
「今更、魔王サマがおれの顕能なんて欲しがるもんかね」
「彼の言いようはそうであったと思うけどね。まぁ、単純に人の魂を食べたかったというのもあるだろうけど」
「マジでクソカス」
趣味と実益を兼ねてんじゃねェよ。
しかし実益――阿沙賀の顕能などなにに使うつもりだ? もはや強さや格、できることなど頭打ちのはずだろう。
この期に及んで一体なにを求めるという。
不明に引きずられないでいられるのは阿沙賀の長所、脇に置いて会話を続ける。
「けどよアルルスタ」
アルルスタと、その名を彼女に向けることにかすかにざわめくものがある。
しかし確かに彼女もまたアルルスタであることは間違いないのだ。
呼ぶことを躊躇うことは、今の彼女を傷つける。
「おれは別に輪廻転生とか、そういうの信じてるわけじゃねェぞ。死ねば終わり、終われば先はない。その脅し文句はあんまし響かねェな」
「……やっぱり、じゃあ敗けるって言われること自体は、辛いんだ」
「…………」
その脅し文句に意味がないと言うのなら、逆を言えば別の言葉には確かに意味があったという理屈。
すこし、言葉を誤ったか、と阿沙賀はバツが悪そうに片手で顔を隠す。隠しきれずに指の間から臥せった目が見えて、アルルスタは図星を突いたことを確信した。
薄々とそのことを勘付いていたからこそ、次の言葉も決めていて。
「ごめんネ、アサガ。辛いよネ、みんなから勝ちを疑われるのは。友達に、否定されるのは」
「おれは。おれで完結してる。外野にどうこう言われてもやることは変わらねェよ」
「うん、そうだよネ。でも、だからって心が傷つかないワケじゃないでショ?」
「…………」
やると決めたことはやる。
そこに他者の意見は無関係であり、どれだけ否定をされようとも道行きは自分で決める。
とはいえ、誰かに否定されること自体に無傷でいられるわけでもない。
それは肉体的なダメージと同じだ。
怪我をすれば痛い。血を流せば辛い。いくら巻き戻ったとしても苦しいという思いまではなくならない。
損害覚悟で立ち回っているから怪我も血も無視して殴れるし、巻き戻しを頼りに死ぬような思いもする。
それでもやっぱり、苦痛も恐怖も感情として確かに阿沙賀に刻みつけられている。
それと、同じ。
仲間たちに信頼されずに勝ちを信じてもらえないことは――悲しい。
馬鹿なことを言っているのは承知しているつもりだ。
まず間違いなく無為に死んで不様を晒す羽目になると知っていた。
みんなの制止が正しいことは、阿沙賀だってわかっている。
それでも。
それでも阿沙賀は、信じて欲しかった。
お前なら勝てると言って欲しかったし、託して背中を押して欲しかった。
敵の強大さも不可能性も全部踏まえた上でがんばれと、言って欲しかったのだ。
都合のいい我が儘だ。
分別のつかないガキのお目出度い妄言だ。
魔王という本当の理不尽を知らないから言えるだけの無知蒙昧。
誰も共感できない孤絶こそが、阿沙賀にとっては一番辛いのかもしれない。
「だから、ごめんネ、信じてあげられなくて」
そのことを察しておきながら、アルルスタには否定しかだせなかった。
信頼も友誼も熱情も、彼女に写された燃え上がるような感情を総動員しても――魔王には敵わないという判断は覆らない。
彼女が所詮はコピーのコピーにすぎないから阿沙賀を信じ切れていないのか。
否であろう。
たとえ彼女が以前のアルルスタであったとしても結論は変わらない。
それほどに、悪魔にとって魔王という存在は絶対的なのだ。
全員がそれを嫌と言うほど刻み込まれていて、だからこそ本気。
本気で、阿沙賀を心配している。
悪意などなく、ただただ死んで欲しくないからともう魔力も尽きた困憊の体で止めようとする。
阿沙賀はなんとか笑顔を取り繕って。
「いいよ。謝ンな。たぶん正しいのはオメェらだ」
正しいだけに妄信せず自己を貫くことの、なんと難しいことか。
「けど、間違ってたっておれは行く。おれ自身が納得してねェからだ」
「ワタシは、止めるすべがないネ」
魔王に乗っ取られた影響か、未だ魂が不安定すぎて顕能の発動すらできない。
ここで無理をして救ってもらった魂を無駄にするなんてできるはずもなく、アルルスタにできるのはただ言葉に訴えかけることだけだった。
それすら振り切られたら、もうなにもない。
「たく、ただ会話しただけなのに一番しんどかったぜ」
「ごめんネ。ウソは言いたくなかったから、余計にイヤな気分にさせちゃった」
「このしんどい思いも、オメェの思い遣りだろ? なんとか拳につぎ込んでやるさ――ニュギス、頼む」
「ええ契約者様」
名を呼ばれてすぐに阿沙賀の傍に現れたニュギスは、なにか思案げな表情だった。
どうかしたかと問う前に、ニュギスはそっと阿沙賀の肩に触れて見上げるように目を見つめる。
「……わたくしは、信じておりますからね?」
「あぁ、うん、ありがとうよ」
そうしてふたりは消えて、残ったアルルスタは、手を振ってふたりを見送った。
完全にひとりきりになったことを確認してから、ぽつりと漏らす。
「ちェ、敵わないなァ」
◇
連続する転移による脱出も、もう終わりが見えて来た。
あと残る異空間はここを含めてふたつ、そして二柱だ。
広がるグラウンドを見渡して、阿沙賀はそれを実感していた。
そこで待ち受けるは鬼のような大男、殴我のバルダ=ゴウド。
常よりも威圧感の減退した様に、阿沙賀は肩を竦めて声をかける。
「オメェも魔力は空っけつか、バルダ=ゴウド」
「応とも。むしろもう数分キルシュキンテの巻き戻しが遅れておれば間違いなく死んでいた」
「また瀬戸際な……そんな病み上がりがなんの用だよ」
「無論、これだ」
ぎゅっと握った大きな拳を突き付ける。
巌のように硬く、炎のように熱い――バルダ=ゴウドの魂の具現。
それ以上の言葉は不用とばかりバルダ=ゴウドはなにも言わない。
引き留める言葉も、無茶への苦言も、先刻まで抱いていた感情の全てが今はもうどうでもいい。
ただこの身、この魂より沸き立つ衝動に狂うのみ。
「殴り合おう、阿沙賀!」
「しゃーねェなァ」
馬鹿馬鹿しいほど自己の欲求に忠実な殴り合い馬鹿。
コワントよりもなお大馬鹿野郎で、開き直っている。余念なく楽しむことを優先する。
そういう真っ直ぐさは阿沙賀の好むところ。またこの悲壮な顔つきばかりの二度目の試胆会において唯一純粋に笑っていることこそ救いであった。
阿沙賀もまた、笑って構える。
一挙手一投足の間合いで拳を差し向け合う。
「オメェにもまた、脱帽だな……帽子も仮面もねェけどな!」
言葉尻とともに震脚が響く。それもふたつ。
同時に踏み込み、また同時に拳が振り下ろされる。
互いに頬を打ち合って、同極の磁石のように弾かれ合う。
ただの一撃でバルダ=ゴウドは倒れ伏し、阿沙賀は倒れず二の太刀を警戒している。
程よく残心を残してから、阿沙賀は軽く息を吐く。
「流石に魔力がねェとこうなるわな」
「そもそも、オレは先ほどまで全身火傷どころが炭化寸前だったのだぞ、奮い立って一撃見舞えただけでも上等だろうに」
「オメェほんとにすげェよな」
損傷、外傷は巻き戻っても、精神的なものやエネルギーは戻らない。
一度死んだくらいに気力体力が損なわれているはずなのだ。
それを飲み込んで立ち向かい、笑って拳を打ち込めた――その魂の強さはいかほどのものなのか。
「魂だけでは強くない。しかし、肉体だけでも強くない。その両方を併せ持ってこそ、だろう?」
「あぁ、そうだな。オメェは強くなったよ、感心しちまうよ」
かつて阿沙賀に拳とともに叩きつけられた理を、バルダ=ゴウドはしっかりと身に刻み、考え続け、こうして納得に至った。
だからこそ、阿沙賀の背中を押せるのだろう。
「魔王は確かに強いだろう、比類なくな。だが、それは肉体の強さだけのもの。魂の強さであれば、阿沙賀に軍配が上がるとオレは思う。
そしてならば、肉と魂とその混成でこそ勝負が決するのなら――まだわかるまい」
「なんつぅか。ヘンな気分だなァ」
理屈を立てて阿沙賀の勝てる可能性を肯定してくれたのが、まさか喧嘩狂いのバルダ=ゴウドになるとは。
ふつふつと湧きあがる思いは燃え上がろうとする種火、そこに追い風をくれたことには感謝しかない。
阿沙賀は胸に抱いた炎を確かめるようにぎゅっと手を握りしめ、かすかに笑う。
「けど、恩に着る。マジで。助かった」
「ふ、馬鹿を言うな。それをオレに教えてくれたのは貴様だろう――貴様を救ったのは貴様自身だ」
「いやァ、はじまりがどこにあっても、結果として助けてくれたのはオメェだよ、バルダ=ゴウド」
「……あぁそうか」またひとつ気づく。「これもまた、相対だな。肉と魂のように、我らもまた単独であるよりも共にあるほうが高め合うことができるのだろう」
阿沙賀が起因となってバルダ=ゴウドが成長し。
成長したバルダ=ゴウドの言葉が阿沙賀を前に押し出してくれた。
相互に高め合って助け合い、よりよく先へと共に行く。
「行け、阿沙賀。我らの導き出した答えを――我らが共にあった甲斐を、証明して来い」
「あぁ――勝って来るぜ、任せておけ!」
そしてきっとこの約束が、また阿沙賀を押し上げてくれるのだろう。
どこまでもどこまでも。
きっと魔王さえも突き抜けて。




