105 自他の境界線
猛然と走り寄る阿沙賀を前にして。
しかしザイシュグラは薄笑いのままで構えもとらない。ただ嫌がらせだけは忘れずに。
「いいのかい、この依り代、もうだいぶ弱ってみるみたいだけど?」
「だからとっととテメェを殴り飛ばすンだろうが!」
ニュギスの魔力のこもった一撃は破滅的な威力を誇る。凝縮して集約した拳はその破壊を余波なく一点に絞るだろう。
だが。
「そうかい、じゃあがんばって」
「っ!」
やはりなんてことなく受け止められる。
魔力量では大きな差はないはず。なのにどうしてこうもあっさりと防がれるのか。
それは出力と制御力の違い。
魔王――悪魔における最強とは、即ち永く生きて夥く戦う百戦錬磨、その究極。
実戦経験から来る技能において右に出る者はいない。
ほんの僅かな魔力で莫大な力とし、微かな無駄さえ漏らさず、どこまでも思い通りに操る。
以前、グウェレンとの戦いでも感じた魔力運用能力の差を、あの時以上に絶望的なまでに突き付けられた。
たとえ同量の魔力で相争っても、勝ち目など存在しえない。
「んなことわかってンだよ!」
最初のやり取りの時点で魔力操作での勝ち目はないと悟っていた。
だから今度は二倍だ――二対一だ。
細かい部分を無視して押し通す。
「たとえ魔王であっても、我が世界においては異物でしてよ」
瞬間、稲妻が迸った。
綺麗にザイシュグラに落雷し、直後にどこからともなく紅蓮の業火が熾り包む。
百万の刃が整列して降り注ぐ。山が降ってきて圧し潰す。
空間が破れて無明に放り込まれる。音も光も空気もない無の空間に封殺される。
普通の人間、いや中位の悪魔でさえ百回は死んでいるような自在なる猛攻。
しかし。
「痛いじゃないか」
多少の損害に嘆息をもらす程度で、ザイシュグラは封殺を食い破って帰還する。
アティスは頭痛を覚えたように額を押さえてぼやく。
「……やっぱりわたくし、さほど戦闘に向いていないのではないかしら」
「いやァオメェはマジで呆れるほど強ェよ。ただなんというか、相手が悪い」
上位次元に干渉可能な阿沙賀や、空間技能と魔力制御が極まっている魔王。
この二者でもない限りアティスの亜空間内にて生存できる者などほぼ存在しまい。例外ばかりが襲い掛かって来るのはもはや大江戸学園の慣例である。
「ともかくダメージはある! 攻めてけ! おれも行く!」
「優美さに欠けてしまいますが、致し方ありません」
コロコロと切り替わる世界からの攻撃に、ザイシュグラは対処し続けなければならない。たとえ片手で振り払える程度だとしても、連続して多種多様なる大規模な猛攻に釘付けにされる。
その間に阿沙賀が跳びかかる。アティスの支配は完璧、飛来する隕石もなだれ込む津波もなぜか阿沙賀を透けて阻害なし。
最短距離一直線で、間合いに踏み込む。
「オォォ――!」
「……やれやれ、粗暴だなぁ」
津波に飲まれて海中の底であっても、ザイシュグラは不変。ひょいと伸ばした片手で阿沙賀の拳など受け止め――
「っ」
「――ラァ!」
防御ごと撃ち抜いて殴り飛ばす。
急激な威力の上昇は当然に種がある――阿沙賀の顕能『それが故に自我』。
単純な強化は、単純な分だけ恐ろしいほどの出力でもって拳を押し出す。
ようやくのクリーンヒットに、しかしザイシュグラは笑う。
「ハハハハ! いいね、いいよ、やっぱりそれは最高だ! 欲しい、食べたい、ボクのものだ!」
「笑ってンじゃねェ!」
畳みかける。
吹っ飛ぶザイシュグラの背後に突如として大岩が生まれ衝突。受け身の間もなく阿沙賀の追撃が降りかかる。
殴る殴る、全力で。
いつかグウェレンを打倒した時に放った拳よりも、さらに破壊力を増した拳撃。顕能をものにした阿沙賀の加減なき乱打。並みの公爵悪魔でも粉砕できる攻撃を連続で叩き込む。
それでもザイシュグラの笑みは消えない。
「あーあ、このままじゃこの身体が先に壊れるね、魂も残りカスしかないしもう死んだよこの悪魔。キミが殺したんだ、阿沙賀・功刀」
「ちィ!」
さっきから死ぬほどウゼェことばかり言いやがって。
それが本当かどうかわからない。ブラフかもしれないし、真実かもしれない。
どっちにせよ心を削られる。悲劇の予感に気力が奪われる。
その僅かな間隙に、蛇のごとく手が伸びる。阿沙賀の腹に、ザイシュグラの手のひらが触れた。
瞬間。
「か――は……っ!?」
全身に衝撃が走った。
恐ろしく静かな打撃は内部から身を破壊していくが、それをさせまいと阿沙賀は咄嗟に自ら後ろに跳び退く。
すると巨大なシャボン玉に柔らかに受け止められる。内部破壊を大きく外へと分散してくれる。
アティスのフォロー。それを込みでなお激甚なる激痛。我慢強い阿沙賀をして蹲ってしまうほど。
口からは夥しいほどの血が吐き出され、内臓をやられたことを実感する。
すぐに魔力による自己治癒を全身に送り込み、また『それが故に自我』による自己保全で再生していく。
その間、二秒。
二秒で阿沙賀は立ち上がって、再び殴り込みを仕掛けようとして。
「なっ」
その二秒間で、ザイシュグラはアティスの世界を半壊させていた。
雷が、炎が、嵐が、山が、雪崩が、刃が。
世界によるあらゆる撃滅の顕現がザイシュグラに届く前に煙のように掻き消える。そこら中に罅が走って歪んでいる。
「なにを――」
「空間制御だって、別にできるさ。もちろん、魔界最高の空間使いには劣るけどね。亜空間の支配は揺るがないなぁ、奪い取れない。厄介だよ、ベイロンの子」
「よくも白々しく!」
どうやらアティスとザイシュグラの間で綱引き状態のようだ。亜空間の支配をめぐって目に見えない戦いの真っ最中。
一応はアティスのほうが優勢のようだが、長引けばどうなるかわからない。アティスと比較しても、やはり魔力運用効率では圧倒的に魔王が勝る。ジリ貧と言えるかもしれない。
とはいえ、先ほどのように一方的な攻めではないにしても、アティスは確かにザイシュグラから集中力を削いでくれている。
ならば阿沙賀だってやらねば。痛みに臆している暇などない。
心を決めろ。
敵の言動に惑わされるな。
助けてみせる。救ってやるとも。必ず。
「いくぞオラァ!」
決意を固めて再び殴りかかる。
『それが故に自我』による強化は全身全霊を巡っている。阿沙賀が認める阿沙賀という範囲内全てを底上げして魔王に突っ込む。
「ふん」
ザイシュグラはアティスへの干渉を緩めないまま、阿沙賀に相対。また手のひらを開いて向かい来る拳に応ずる構え。
魔力量はほぼ同じ。
制御力と出力は圧倒的にザイシュグラが上。
じゃんけんならグーはパーに勝てない。
それらすべての道理をぶち壊すのが阿沙賀・功刀。
殴る拳と平手がぶつかる。
壮絶なエネルギーを乗せた衝突は激しく余波を生み、ここが亜空間でなければ周辺数キロは消し飛んでいた。
アティスの亜空間でさえ悲鳴をあげて維持と防御に専念しなければならないほど。
「おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉォォォォオォ――!!」
「ち」
そして打ち勝ったのは阿沙賀の拳。
ザイシュグラの掌をぶち抜いて頬へと拳をめりこませる。
そのまま再び連撃。
今度こそこのまま殴り倒すと言わんばかりに猛烈な勢いで拳を乱打する。
だがわかっている。
このままでは勝てない。救えない。
阿沙賀だけでは、アルルスタを助け出せない。
だから。
(――メリッサ!)
殴る手を止めず、阿沙賀は繋がった縁故を手繰りよせて声をかける。
繋ぐ悪魔に、自らの従者に、縋るように。
(気張れ踏ん張れ! オメェだけが頼りだ! オメェの力さえあればアルルスタを救えるんだ!)
当然、メリッサごとき低位の悪魔は魔王を前にしてまともな活動などできない。呼吸も鼓動も、思考すらできずにくずおれるのみ。糸の切れた人形のように。
この場で最も死に瀕していると言っていい彼女は、しかしこの場で最も阿沙賀の必要している存在。
(おれの従者だろうが! 魔王なんかに敗けンじゃねェ! 立て! 立って振り絞れ、おれとアルルスタを――繋げてくれ!)
「っ」
声をかけられ、願いを受け取り、それでようやくメリッサは呼吸を思い出す。
しゃかりきに心臓が鼓動して、痛いほどに全身が生存すべく活動を再開する。
だが無論、それは魔王の威圧に直接的にさらされるということ。
死んだ心は麻酔を受けていたように真実の恐怖を鈍化させていた。しかし息を吹き返せば直視する他なくなる――絶対の絶望を。
「あっ、ぁぁ……」
震える。
震える。
熱を失ったように震えて凍えて仕方がない。
力の差は歴然、眼差しひとつで殺される。殺意なくとも偶然触れただけで殺される。
殺される。殺される。殺される。
今生きているだけで奇跡的で、しかしほんの少し身じろぎして存在を認知されれば泡沫と消える奇跡。
そんな死の淵に追いやられ、生存の見込みがない状況下で――声をかけないでくれ。
そんな真摯に願い、こちらを信じないでくれ。
どうしてあなたはあの絶望に挑みかかれるのだ。いつもと変わらず怒り任せて殴りかかってしまえるのだ。
――オメェだけが頼りだ!
「ぐ」
唇を噛みしめる。血が流れるほど。
拳を握りしめる。血が流れるほど。
わかっている。そういうお人だから仕えたいと願ったのだ。
魔王にすら喧嘩を売れる男だと、わかっていたはずだろう。
いつも劣等感を抱え、なにもかも諦めていた自分とは真逆の存在。低位に不貞腐れていたメリッサに、そんな程度で俯くなと教えてくれた我が主。
そんな彼に仕えたいと思い、実際にそれを許され、誇りを抱いて傅いた。
――ではどうして阿沙賀の要請に応えず項垂れている。
魔王は恐ろしい。当たり前だ。きっと人界の者には生涯わからないほどにメリッサは恐怖している。
存在の格が違う。存在の規模が違う。存在の領域が違う。
なにもかもが違い過ぎる。
でもそれは……阿沙賀だって同じはずなのだ。
存在の違いを痛感し、恐怖に粟立って、それでも立ち向かっている。
なんて強いひとだ!
その反逆の魂にこそ惹かれてしもべとなったメリッサが、ここで折れるというのは主への裏切りそのものではないか。
――オメェだけが頼りだ!
そこまで言われて助力できないなどと、そんな不様は許されない。
糸々のメリッサは、阿沙賀・功刀のメイドなのだから!
「あ……」
震え続ける手を伸ばす。
何度も折れたが諦めず繰り返し。
「あさ……」
霞む目をなんとか阿沙賀に定めて見つめる。
後から後から溢れる涙が邪魔だ、まばたきで押し流す。
「あさが、さま……」
極大の恐怖を忘れるほどの狂信を胸に宿して、メリッサは叫ぶ。
主の名を。発すべき言葉を。為すべきことを。
「畏まりました、ご主人様……!」
――『糸おしく糸わしく』。
瞬間、顕能はその効果を発揮する。
主命に従い、阿沙賀とアルルスタの魂を疑似的縁故で繋ぐことに成功する。
魔王にレジストはされなかった。
それはザイシュグラが阿沙賀とアティス以外を完全に蚊帳の外として無視しきっていたがためか。それとも、アルルスタが許可してくれたお陰か。
だからと焦ったりも驚いたりもしない。ただただ疑問をこぼすだけ。
「なんだこれ……縁故? ボクと繋がってなにがしたいのさ」
「ふざけろ、誰がテメェとなんざ繋がるかよ! おれはアルルスタと結んだんだ!」
ありがとう、メリッサ。本当に、本当に……恩に着る。
従者の力添えを無駄にはできない。受け取った祈りに相応しいだけの己を示さねばならない。
目を見開き、阿沙賀は叫ぶ。
「アルルスタ聞こえるか! 今すぐ助けてやるからな、オメェも助かる用意をしとけ! こんなクソ野郎なんざ蹴り飛ばして――帰って来いよ!!」
なにかをする気だと理解できればザイシュグラはともかく繋がった縁を断とうとした。
魔力を宿して手をかざし――止まる。
「?」
「なにかするなら早くしなさいな、長くはもちませんわよ!」
ここにきてアティスによる援護、ザイシュグラの肉体の時間を停止したのだ。
無茶の代償――おそらくこれを破られれば同時にこの亜空間ごと崩壊する。一か八かの賭けだ。
流石に時間ごと止められては魔王といえど数秒はなにもできない。しかしその魂までは止まっていない。可能な限りのレジストで魂を防護にかかる。
何をする気か知らないが、耐えればそれでお仕舞いだ。
阿沙賀はザイシュグラになんか目もくれない。
「ニュギス! オメェもだ、呆けてンなよよく見てろ!」
「!」
「これが、オメェを救う方法だ!」
「――『それが故に自我・縁故融通――相克する合わせ鏡』」
それは『それが故に自我』の応用。
縁故を結んだ相手を自己と認識することで、『それが故に自我』の自己自在化を相手にも適用させる荒業。
それは他人を自分のごとく自在にするという矛盾。その矛盾を踏み倒すのが縁故であり、阿沙賀である。
すなわち縁が結ばれている間、アルルスタの顕能『相克する合わせ鏡』は阿沙賀の顕能でもあるということになる。
いつか行った顕能の貸与などとは大きく異なる、本当に自分のものとして他人の顕能を行使するということ。
いや、『それが故に自我』で強化を施せば阿沙賀の解釈を含み、さらには当人以上の効力にすらなる型破り。
それが阿沙賀の考案した顕能応用『それが故に自我・縁故融通』。
そしてそのまま発動――ザイシュグラが主導権を握る肉体に、そして魂に変化をもたらす。
「っ!? これは、なんだ……? ボクを消そうとしている? いや上書きか、魂ごとの変質で!」
「テメェはアルルスタに変わる。その肉体にかすかに残る残滓を元に、その肉体と魂をもう一度アルルスタに変身させる!」
『相克する合わせ鏡』は肉体だけでなく魂すらも変化させる顕能。
そこに相乗りしているザイシュグラの魂さえ、諸共に変化に巻き込んでしまえる。
反撃の奇手にも、ザイシュグラはどこまでも嘲る。
「なんて浅ましい。消えた存在を偽物で誤魔化すつもりか、身勝手で情けない。こんなのキミの自己満足じゃないか」
本当に、こちらの言って欲しくないことばかりを言ってくる奴だ。
そうだ、既にアルルスタの意識は消滅している。
自我を崩壊し、ただの伽藍洞の魂だけしか残ってはいない。
その空白部分に付け込んで乗っ取ったザイシュグラを、『相克する合わせ鏡』が空白に着色することで引っぺがす。そうすればザイシュグラは消え、アルルスタが舞い戻る。
しかしそれでアルルスタが生き返ったわけではない。ただ、その模倣が新たに生まれるだけ。わかっている。
それはきっとかつてと同じ。
完璧に模倣された本物と遜色ない、けれど偽物。
オリジナルは消え、そのコピーさえ消え、ここで生まれるのはコピーのコピーという酷く曖昧な人格でしかない。
それでも。
「それでもオメェには消えて欲しくない。ここにいろ――友達じゃねェか」
失ったものは取り戻せない。その代わりになるなにがしかで埋め合わせるしかない。
これは言うまでもなく、阿沙賀の自己満足に過ぎないだろう。
失い救えなかった事実を慰めているだけ。救った気になっただけの欺瞞でしかなくて。
生き残った者が勝手に満足するためだけのエゴである。
しかし阿沙賀はエゴの男。
自己満足を自覚した上で思うのだ。
偽物であってもアルルスタには生きて欲しいと。
魂という根が同じなら、きっとまた友達になれるから。
「だからテメェは消えろ、ザイシュグラ!」
「……ち、仕方ないな」
ぱん、と。
なにか破裂したような音ともに、ザイシュグラの姿かたちは掻き消えていつもアルルスタのそれへと変身する。
それはザイシュグラを完全に上書きして消すことができたということか。違う。
「っ、分裂……!」
「『相克する合わせ鏡』は、身を分けて複数人に変身することも可能……知っていたはずだよね?」
――大きな鏡は何人でも映すものでショー?
かつての彼女の声が聞こえた気がした。
アルルスタの背中からにょきりと生えて剥がれ落ちた小さな肉塊。白い歯を並べた口だけが笑みをかたどっている。
「またすぐに会おう、阿沙賀・功刀。その時まで少しの間さようなら」
「っ!」
握りつぶすべく手を伸ばすが、消える。空間転移の感覚。逃したか。
「アティス、追えるか!?」
「無理でしょう。仮に追えたとしても無意味ですわ」
「ていうかあれなんだったんだよ!」
「おそらく魔王の魂、その欠片に過ぎませんわ。多く見積もっても一パーセントにも満たない程度の、ですが」
「っ」
あれで一パーセント未満。
そんな状態でも公爵悪魔に匹敵する魔力を有し、あの練度で行使して、そして顕能を使ってすらいない。
魔王――本当に想像を絶するほど桁外れの化け物だ。
「……アサ、ガ?」
それでも。
そんな魔王から大事な者を取り返すことができた。
それだけを、今はただよろこぼう。
「おかえりだ、アルルスタ」
「エト……うん、ただいまアサガ」




