104 決壊
――はじめまして諸君、ボクの名はザイシュグラ。
――魂喰魔王ザイシュグラ。
ただの名乗り上げで時が凍り付いた。
現れたその瞬間から圧倒的な存在感が世界を満たして埋め尽くしている。
他者の亜空間だろうと異世界だろうと、それは在るだけでなにもかも塗り潰して頂に君臨する。
なんの前触れもなく。
伏線らしい伏線も、布石さえあったか定かではない。
真実誰もが予想しえない、ありえざると思考の隅にもよぎらない。
まさしくまさしく、想定外から来たる不条理。
支離滅裂にして荒唐無稽、歩き思考し叫ぶ理不尽の権化。
こんな人間界に近いところに魔王が現れるなんて!
その場の全員身動きできない。呼吸さえ忘れ、このままでいれば窒息していたかもしれない。
なのに汗は滝のように吹き出し、涙さえ溢れてくる。膝をつき、立ち上がれず、平伏の意志もないのに跪く。
周囲の誰もの命を翳らせ、心を砕き、魂をくすませる。
なにかするでもなく、なにかしようでもなく、存在そのものが原因として恐怖を振りまく、それこそが魔王なのか。
――例外がひとり。
「テメェなにしてやがる!!」
唯一この場で激高して叫び動き出したのは誰あろう阿沙賀・功刀。
凍り付いた時の中を、ただひとり怒りの炎に任せて跳びかかる。
恐るべき畏れ多い蛮行に全員が驚愕して――阿沙賀の拳は振り下ろされる。
「へぇ」
いとも容易く受け止められ、ザイシュグラと名乗る男と阿沙賀は拳の間合いで視線を交わす。
掴み取られた拳がびくともしない。ニュギスから膨大な魔力を借り受けているのに、退くも進むも阻まれている。
しかし阿沙賀はそんなことより怒りに吼える。
「テメェ! アルルスタを奪いやがったな!!」
――既に阿沙賀は怒りの頂点に達していた。
どこのどいつか知りはしない。
魔王がなんだとどうでもいい。
だがこいつはアルルスタの身体を乗っ取っている、その事実だけで唾棄すべき敵で間違いない。
アルルスタは無事なのか? 魂はどうなっている? 発する魔力はこいつのもので、まさか塗り潰されてはいないだろうな。
そもそも乗っ取りとはなんだ、顕能か? 『相克する合わせ鏡』を使ったということは魂は無事と考えていいのか?
――アルルスタは元に戻るのか?
わからない!
巡る思考、定まらない結論。
感情が乱れて荒れて冷静に判断ができていない。
対するザイシュグラはなんの感慨もなく、泰然とした眼差しで阿沙賀を見つめる。内部まで抉るように。
そして、ただ自分の語りたいことだけを語る。
「――都合いい幸運は四つあった」
「うるせェ黙って死んでろボケェ!」
聞く耳など持ちやしない。
強い奴は総じて身勝手で傲慢だ。
「ひとつはボクの依り代になりうる悪魔が人界と魔界の狭間に漂っていたこと」
「! テメェ、やっぱりアルルスタの身体を!! 許さねェぞ!!」
左拳でも殴りかかるが、やはり同じように片手で受け止められる。
得意げな自分語りを止めることもできない。
「ふたつは大江戸・門一郎は死に、その後継が情けなくも継承後の事変を収めることすらできていなかったこと」
「今度は遠凪の悪口か、どんだけ人の逆鱗毟りゃ気が済むんだボケェ!」
というか、なんだと?
こいつは大江戸・門一郎を知っているのか。その死後の、これまでのあれこれを把握している?
困惑が滲み出てきた阿沙賀に、さらに追撃のようにザイシュグラは言う。
「そしてみっつ――キミだ、阿沙賀・功刀」
「気安く名前呼んでンじゃねェっ!?」
「ずっと探していた能力、まさかそれが人の子に顕れるとは思ってもみなかったが、それはそれで好都合――キミの顕能を頂きたい」
「――」
一瞬、意味を読み取れずに空白を吐いて、だが即座に勢い任せで叫び散らす。
「誰がテメェの思い通りにさせるかよ、ないものねだりで渇いてろボケ!」
捕まれた両手を支点に体重を預け、両足を振り上げる。そのままドロップキックの要領で両足揃えてザイシュグラの顔面を踏みつけにする。
のけ反りもしないで不動。笑みすら浮かべるザイシュグラにはまるで効いていない。
そのままの状態でザイシュグラは口を開く。てらてらと唾液で艶めく白い歯を見せつけるように。
「――!」
ただそれだけで死ぬほどおぞましい悪寒が走る。
なにが。なにか。とても。
――ヤバい。
阿沙賀が、恐怖していた。
恐ろしさのあまり全力で逃避を選択したが、両拳を掴まれていて離脱できない。藻掻いても足掻いても、魔王から逃れられない。
「――おばか」
空間転移。
気づけば阿沙賀はザイシュグラから離れた位置、アティスの傍にまで転移していた。
「短慮はやめなさい粗暴者、あれがどれだけ恐ろしい存在か見てわかりませんの?」
どうやら彼女に救われたようだ。ただそのアティスもまた、恐怖に震えているようだった。
公爵の悪魔が、人界における魔王が、怯えている。
なぜなら敵は真なる魔王。他全ての枕詞を必要としない――最強、である。
「けどあいつ、公爵ていどにしか魔力ねェぞ。勝てない相手じゃねェだろ」
「現状、流石に自分自身ではこんなところまでは来れないでしょうからね。とはいえ、短慮はやめなさいな」
魔王が人間界に訪れれば、それだけで世界が滅ぶ。
それは実際に試したわけでもないのに誰もが知る共通認識。
無論、魔王自身が知らぬはずはなく、この亜空間とて人間界には近すぎる。
魔王本体が訪れるわけにはいかないだろう。
だから適当な悪魔を依り代にして間接的に顕現している。
「アルルスタの身体を勝手に使いやがって!」
「抜け殻をどう使おうと自由じゃないかな」
抜け殻――おそらくアルルスタは自己の顕能『相克する合わせ鏡』の過剰使用により自我を崩壊させていた。
とはいえ完全に崩壊する寸前で能力は解除され、微かに残った残滓を元にまた新たなアルルスタを模倣して再現していた――はずだった。
その合間に魔王の魔の手が滑り込んできた。
その結果が今目の前にいる魔王であって魔王でない者、アルルスタであってアルルスタでない者。
模倣魔王ザイシュグラ。
「――待て」
その時、遠凪は滝のように汗をかいていた。
それは恐るべき魔王のプレッシャーによるものか、色濃い死の予感によるものか。
違う。
遠凪・多々一は――試胆会会長として、それを誰より早く感じ取っていた。
死の恐怖などよりもおぞましき全ての終わり、決壊の予感。
「アルルスタが失われ、縁故が切れた。これは、こんな……!」
「その通り、それが四つ目。期せずして試胆会の悪魔を抹消できた。つまり」
「――今ここに境界門は開通した!!」
ただ在るだけでなにもかも台無しにして、誰もの尽力も覚悟も才覚も無と帰す。
災厄そのもの。
最悪そのもの。
それこそが魔王であった。
「やっとだ、やっとだよ! やっと終わったね迷亭、そして大江戸・門一郎! ボクの勝ちだ、あの世で精々悔しがるといい!!」
感無量とばかり突き抜けるように笑い、ザイシュグラは叫ぶ。断ずる。
「契約だ――これでボクは人間界を食い尽くせる!」
事態はもはや収拾もつかないほどに大惨事。
大江戸・門一郎がはじめて数十年。
大江戸・門一郎が没し、遠凪が引き継ぐための試胆会。
遠凪が引き継ぎ幾度もの危機を乗り切り数か月。
阿沙賀たちがずっとずっと頑張ってきた全てが台無し。最悪の事態を迎えてしまった。
試胆会契約が破綻し境界門が開通――それは人類にとって終末を意味する。
だけではない。
ザイシュグラはなんと言った。
魔王たる怪物はなにを仕出かすのか。
「人間界を……なんだって?」
もはや巻き起こった様々な展開についていけず、遠凪は亡羊とただ問いを向けていた。
ただその声はもはや掠れ、喉が引きつり、震える呼気に邪魔され、問う相手に届いていない。
この世界の主であるアティスにはどんな小さな声でも届いている。
代わってアティスが必死に恐怖を抑え込んでザイシュグラを睨みつける。彼女はこの状況下でも、他の誰よりも冷静さを残しておけた。
「本気ですの、魂喰魔王」
「キミは……たしか戴欲のところの娘、だったっけ?」
「覚えていただき光栄ですわ」
「そうか、キミなら結界くらい読めるか。ボクと大江戸・門一郎の契約を、知っているね?」
――契約?
と、会話するふたりを除く全員が疑問符を抱く。
その解答が示されることもなく話は続く。
「じゃあいいじゃないか。キミに危害を加えるつもりはないよ。さっさと帰りな」
「ふざけたことを! 見過ごせるはずがないでしょう! 人間界の崩壊は、魔界にどんな影響を及ぼすか――最悪、諸共滅び去ると知っておいででしょう!?」
それは初耳であった。すくなくとも阿沙賀にとっては。
人間界に魔王が来れば世界が滅ぶ――その世界とは、人間界だけでなく、魔界をも含めていたということなのか。
「だから、大江戸・門一郎らと契約したんだよ」
「成功の保証がありませんわ。リスクが大きすぎるでしょう」
「いやぁ? ボクは大江戸・門一郎を信じているよ。彼ならできる、やってくれるってね」
「都合いいことばかり仰いますわね」
ふわふわと軽く、随分楽観的に言う。
それは信頼なのか。否である。これは単なる思考の放棄。
そのほうが都合がいいから信じるという言葉で終わらせて、それ以外を考えない。
ザイシュグラという男は、ただ自らの楽と楽しいだけを優先する。
だからこそ、無神経にもこんなことを言える。
「それに丁度いい。キミがいるじゃないか」
「なんですって?」
「魔界最高の空間術使いがいる。大江戸・門一郎の血筋がふたりもいる。ボクはやっぱり運がいい――それに、もうひとり」
ふと会話するアティスから視線を外し、どこともない場所に視線を送る。確信をもって、その名を呼ぶ。
「そろそろ姿を現わしたらどうだい――魔女」
『相も変わらず、君の笑顔は受け付けないよ、ザイシュグラくん』
それに声だけで応えたのは迷亭、大嘘吐きの迷亭・鈴鳴。
悪魔との契約の果てにその魂すべてを絞りつくして頂戴したことで魔力を得た稀有なる人間――魔女である。
彼女の無事に関しては先の介入により把握していたが、その会話の内容には驚く。
知り合いなのか。学園の魔女と魔界の魔王が……どうして?
いや話の流れから察するに、こいつ大江戸・門一郎ともなんらかの関係があるようだ。
魔王ザイシュグラ。
突如として現れ、訳知り顔でべらべらと好き勝手を語る。まるで黒幕がごとく。
――こいつは一体なんなんだ?
阿沙賀らが疑惑に埋もれ静観している内に、ザイシュグラは迷亭に向けて怨嗟を放つ。
「忌々しい魔女めが、積年のお預けをボクは決して忘れないぞ。顔すら見たことのない誰かをこんなにも憎々しく思うのは生まれてはじめてだよ」
『おやおや、貪り食らうばかりの暴食が憎々しくとは、笑っちゃうね。ちゃんと意味わかってるのかな? 憎々しいって、お肉のことじゃあないんだぜ?』
「なにを言うんだい。もちろんキミのことはその肉体から魂まで食い散らかして腹に収めてあげるから安心しなよ。永い熟成期間もお仕舞い、舌なめずりが止まらないよ」
『ははは、それは三下ご用達の雑魚仕草だよ。君の性根には似合いだから、止めはしないけれどね』
少なくとも仲良しこよしではなさそうである。
阿沙賀は駄弁ってるうちに殴りかかったろうかと構えていたが、アティスに抑えられていてできなかった。服を引っ張るな服を。
代わりに頭に上った血を下げることができて、なんとか落ち着いたふりで疑問。会話をぶった切る。
「――で、和気藹々としてるところ悪いが、迷亭なんだよ、そいつとどんな関係だ」
迷亭がここまで明白に嫌悪と敵視をしているのは珍しい。
直情的な感情は秘して隠して誤魔化すことが嘘吐きの作法だろうに。
迷亭はやはり露骨に厭悪の感情を乗せて。
『当然、敵さ。不倶戴天のね――彼の存在から大江戸学園を設立することになったくらいのね』
「なんだと」
『そして今先ほど彼によって結界は砕かれた、因果なものだよ』
「……結界は、マジで」
『うん、アルルスタくんが欠けて条件が崩れたからね。現在、境界門は誰でも素通り可能な状態さ』
「やべェじゃねェか」
『とてもね。早くなんとかしないとさ』
なんとか……と阿沙賀は繰り返し、ひとつ思いつきを提言してみる。
「迷亭。もしもここでアルルスタを取り返すことができれば、結界は元に戻るのか?」
「それは無理だよ、阿沙賀・功刀」
問いに答えたのはザイシュグラであった。
勝手に割って入ったことに腹を立てつつも阿沙賀は無言で睨み、ザイシュグラは薄笑い。
「一度壊れた結界は直らない。一度破れた契約は戻らない。なにせ、続きがあるからね」
「続き? どういう意味だコラ」
「契約の続きさ。もしも学園結界が失われた場合、別の結界を敷くことになっているのさ。ボクと大江戸・門一郎、そして迷亭との契約でね」
『ストップ』
興味を引く言葉をひけらかすよう語るザイシュグラに、迷亭はやれやれとばかりに切り捨てる。
『無駄話はやめなよ、ザイシュグラくん。その話はあとでいい。
阿沙賀くん、気になるワードが幾らかあるかもしれないけどね、彼は今時間稼ぎをしているのさ、とりあっちゃ駄目だよ』
そもそもこうして棒立ちで会話をしている時点で相手の思うつぼ。
現状は既にこちらが不利であり、ザイシュグラにとっては時の経過が目的の達成に繋がっている。
いや迷亭も結構しゃべってた気がするが彼女的にはこれでも抑えたほうなのだろう。
『彼はアルルスタくんの身体を奪うことで結界を崩壊させた。そしてあとはもうアルルスタくんに価値を見出していない。せいぜい時間稼ぎに使えれば上等くらいだろうね――本体の彼が境界門を通過するために』
「!」
『だからいま君がやるべきはさっさとそのうるさいのを片して学園に戻ることだよ。諸々の説明は、そっちでするからさ』
珍しく急いた姿勢で促すのは、嫌悪か警戒か。いやその両方だろう。
こいつのことが大嫌いであるがために、彼女は今日までその嫌がらせに腐心していた。
迷亭という女が、その長きに渡る生の間に最も憎悪すべしと決めている――そういう宿敵であった。
阿沙賀は縁故もなしになんとなく感じ入るものが伝わってきて、だが問うまい。
猶予がないのも事実だろうし、なによりそんなことよりとっととあいつをぶちのめしたい。
「そうだな今はそいつを殴り飛ばしてアルルスタを――」
「だからお待ちなさいな、野蛮人」
やはり、アティスが服を引っ張り止めに入る。
無謀に身を投げるなど、させるわけにはいかないと。
「貴様はニュギスちゃんとともに父の御前に立つと約束しましたわ。こんなところで死んでいる暇はないでしょう」
「だからって放っておけってのか!?」
「まさか。そうではなく――協力致しましょうと言っているのです」
半瞬の空白。
「……どういう風の吹き回しだ?」
「これは貴様だけの問題ではないということですわ」
確かにアティスは阿沙賀が嫌いである。
けれどそういう感情的で些少な理由を言っていられる状況ではもはやない。
敵は仮にも魔王なのだ。それもその目的が世界を滅ぼしかねないものと来れば、大嫌いな相手とだって手を組む。
アティスはお姉ちゃんだからだ。
「この場で戦う余力があるのはわたくしと貴様だけ。慎重にいかねばなりませんわ」
ニュギスはハナから矢面に立たせる気のないお姉ちゃんである。
まあ阿沙賀に補助しながら自分も戦えるほど器用でも慣れてもいないので、それが最善ではある。
ニュギスは魔王への恐怖に震えあがって立ち上がれていない。
公爵悪魔と言えど、アティスほど場慣れしていない。勝ち目のない敵と遭遇した経験が、ない。
無論、それ以下の試胆会に六の臣下も同じく、戦闘直後の疲労も相まって誰一人として声すら上げられない。もしかしたらこのままにしておけば威圧だけで死んでしまいかねない。
むしろなんで阿沙賀は当たり前みたいに普段通りなのか。ニュギスから魔力を奪って立ち向かえているのか。
意味が分からないアティスである。
「敵は中位悪魔の肉体を依り代にしただけ、魔力量も公爵程度。ロクに顕能さえ使えませんでしょう。
それでも……魔王ですわ」
「わかった、手ェ貸すから手ェ貸してくれ」
素直に阿沙賀はアティスの提案に乗ることにした。
至極あっさりとさっきまでの敵を信じ、協力しようと頷いた。
それだけ敵が強大だからだろうか。いいやきっと、単純にニュギスの姉であるからと、それくらいの理由なのだろう。
そのことがなぜだかアティスにはわかってしまい、そのシンプルさに呆れるやら苛立たしいやら。
抱く思いは多々あれど、やるべきことはひとつである。
アティスの細指が離れた途端、阿沙賀は一直線に駆け出していた。




