103 機械仕掛けの誰そ彼
あまりにも。
そうあまりにも、だ。
――あまりにも都合がよすぎる。
こんなにも好都合な、ご都合的な展開であってよいのだろうか。
なにかの作為を覚えてしまう。甘い誘惑が恐ろしくなってしまう。長らく不都合ばかりを押し付けられてきた経験から、警戒心が先立ってくる。
機械仕掛けの誰かが、裏に潜んでいるような気のせいに陥りそうだ。
だが無論、そんなものは存在しない。ありえない。
奇跡と奇妙とが交錯し、長年の試行錯誤と積み重ねの成果がでただけ。
幸運ではあるが、それは地上で発生した無数の偶然のひとつに過ぎない。
なにも恐れることなどない。
なにを臆することなどない。
なによりも。
あぁそろそろ、腹が……減った。
◇
そして全ての戦いは終結し、それぞれがまたアティスの亜空間に帰還する。
大江戸学園屋上を模した空間に一堂に会する。
当初とは大きく違うのは、立ってその場にあることのできる者が随分と減っていること。
蝶雷のイリクレスは結界に封じられ。
樹領のズィンテは必死に酸素を取り込んでおり。
追截のネイレギアは深手を負って息を荒げ。
普炎のオデオットは気絶して目覚めそうもなく。
朱紅のパーリエーズは何故か半裸で満足そうに眠っている。
アティスの臣下たちは、戦闘に参加していないジュガーを除いて全滅の様相を呈していた。
一方で試胆会も無傷とは言えないが、それでも。
リアとドワは疲労困憊といった風情でなんとかこっちに無事と手を振っている。
シトリーとフルネウスは勝ち誇って胸を張っていて。
キルシュキンテは優雅に佇みつつも今も顕能を使って足止めをしている。
バルダ=ゴウドは真っ黒焦げでも勝鬨のごとく腕を突き上げてたまま気絶。
遠凪は強がって立ってはいるが風が吹くだけで今にも倒れそう。
そして阿沙賀は手を掴んだ遊紗を立たせてやる。
その背後にはズィンテとメリッサが満足げに腕を組んでいた。
状況を見れば勝敗は明らか。
試胆会の全勝――いや、まだひとり忘れてはいけない。
無言で、アティスはその場に現れた。
傍にはニュギスとジュガーもいるが無言で、ただアティスの動向をうかがっているようだった。
阿沙賀はずいとひとり前に出てふんぞり返る。
「おう、やっと出てきやがったな」
「…………」
「おうこら無視すんじゃねェ。もう元気なのはおれとオメェとニュギスくらいだ、ここでやりあうかよ」
「…………」
挑発するも、やはりきっぱり無視される。
あまりの手ごたえのなさに怪訝になっていると、アティスはようやく口を開く。ただしそれは、阿沙賀にではなく、その背後の少女へ。
「遊紗、もう……心残りはないかしら。納得はできた?」
「そう、だね……」
わずかに迷いを垣間見せるが、できるだけ素早く振り切って、遊紗は笑顔を形作る。
「うん。全部が全部じゃないし、やっぱり不満も残っちゃう、後悔もたくさんできたよ。
けど、やりきったと思う。
やっと、納得できたよ。ありがとう、アティス、あなたのお陰でアタシはアタシの魂に真っすぐでいられた」
「ふふ、お礼を言われるようなことはしておりませんわ。遊紗、貴方は貴方の心に従って走った。わたくしは、わたくしのなすべきをなした。それだけでしょう」
その言葉は穏やかで朗らかで。
様々なしがらみや葛藤、迷いに囚われていた遊紗が吹っ切れたことを、ただただ祝福している。
あまりに優しい声色に、遊紗はむしろ辛くなって吐き出すように。
「ごめんなさいアティス、たぶん聞こえてたと思うけど、嘘だから。あなたのことが嫌いだなんて、嘘だから。ほんとに、ごめんね」
兄姉をもたず従兄しか年頃近しい近縁がいなかった遊紗にとって、アティスはまさに姉のようだった。
前を行き後ろを気にしてくれて、強く優しく見守ってくれた。
嫌いになんて、なれるはずがない。一時の感情で口走ったことを、今は強く強く後悔していた。
「そんなこと」アティスは殊更肩を竦めて「言われずともわかっていましたわ」
あぁまったく、意地っ張りなくせに謝罪には素直なところ……そっくりだ。
アティスにとっても、遊紗は在りし日の妹たちの幻影。かつて今よりもさらに未熟であって、それゆえにほっとけなくって世話を焼きたくなる。
すくなくとも彼女がこうしてわだかまりを吹っ切ることができたというのなら、今回の事件は無駄ではなかった。
とはいえ苦労をかけたのは事実。
アティスはわざわざこんな別の世界にまで呼び出してしまった臣下たちへねぎらうように、謝るように言葉をかける。
「貴方たちにも苦労をかけたわね。貴方たちの敗北はわたくしの敗北、悔しくは思いますが受け止めましょう」
「なに?」
アティスの言葉に反応したのは、というか反応できる元気があったのは阿沙賀だけであった。
「どういう意味だ」
「ニュギスちゃんと賭けたのよ」
こともなさげにアティスは言う。
「我が六の臣下が敗れた時には、ニュギスちゃんの言い分を飲みましょう、と」
「……じゃあ、オメェはやんねェのか」
「だから言ったでしょう。野蛮は臣下に任せましたの、それで敗れたのならわたくしの敗北でしょう。致し方ありませんわ」
部下の敗北を自己の敗北の言い切って断ずる様は上に立つ者としての矜持が垣間見える。
そこに自らが打って出ればという後悔も、不甲斐ない部下への怒りもない。
アティスにとって六の臣下は自らの片割れ。彼らが全力を尽くしたのならそれが最上だったのだ。もしもあれこれ、などと考えるのは愚弄である。これ以上の成果は存在しなかった、それがすべてだ。
「オメェは戦ってもいねェのに、負けを認めるってことかよ」
「ええ、臣下の敗北は主の敗北……いいようにすればいいわ。わたくしはそれに従いましょう」
「いやに素直じゃねェか……」
しおらしい言いように、阿沙賀はすこし困ってしまってなんとなくニュギスに視線を送る。
受け取ったわけでもないだろうが、ニュギスのほうも憂うように姉の名を呼ぶ。
「……お姉さま」
「あぁニュギスちゃん、ごめんなさいね待たせてしまって。それとも遊紗に嫉妬でもしちゃったかしら」
「本当に、いいのですかお姉さま。お姉さまは、決して契約者様を信じているわけでは、ありませんよね。それなのに、そんな」
「いいのよ、いいの」
勝利したはずなのに泣きそうな妹に、アティスは笑った。
優しく頭を撫でてやりながらも、同時に怜悧に腹に抱えた計算もある。
「悪魔は約定を守るもの……というだけではないことは見抜いておりますわね?」
「あぁ」
もう一押しで泣き出しそうなニュギスに代わって、阿沙賀が答える。
「だったらハナから約束なんざしなければよかったンだ。わざわざそれをしたってことは、なんか考えがあったからだろ」
「えぇ。忌々しいことに貴様の言葉を肯定せねばなりませんわ――考え方を変えましたの。阿沙賀・功刀、貴様はニュギスちゃんのために魔界に来るのでしたわね?」
「あー、おう。いくいく」
「おい!」
流石にそれには遠凪が割って入る。
困憊ではあるが、そこは無視して通り過ぎることのできない部分。
「待て阿沙賀、ノリが軽すぎるだろ、隣町に日帰り旅行じゃないんだぞ!」
「うるせェな。軽かろうと重かろうと行くのは決まってンだからどっちでもいいだろ」
「本気か? 魔界だぞ、別の世界だぞ。生きて帰れる保証なんて――」
「オメェ今更おれがそんな脅しに引き下がるとでも思ってンのか?」
「思わないけど誰かが言わないと駄目だろうが!」
「あー、たしかに。じゃあちゃんと聞いたぞ、行ってくらァ」
「だから適当すぎるんだって!」
今立ち上がれるなら絶対に殴ってやるのに、と遠凪は非常に悔し気に叫んだ。
もう行くのは仕方がない。止めようがない。
けれどどうかもう少し重く受け取り、厳かに危機感を抱いて欲しい。
――阿沙賀には、死んで欲しくない。
装飾をはぎ取って言ってしまえばそれだけのこと。
遠回りなその心配にやれやれと思いながら、阿沙賀はしっかりと受け止める。心配無用と笑ってみせる。
「まァまたしばらく学園を空けるがよ、できるだけ早く帰ってくるさ。おれだって留年は御免だしな」
「じゃあ次のテストまでには帰ってこいよ、約束だぞ」
「はっ、指切りでもしてやろうか?」
「それはしなくていい」
とりあえず遠凪を納得させると、阿沙賀は再びアティスへと向き直る。
話の途中である。
「んで、アティス、それがどうしたよ」
「気安く呼ぶな。
……どちらにせよニュギスちゃんは帰ってくるということですわ。であれば木っ端なおまけごときどうでもいい。ともかく帰ってくれるなら、それでいいのですわ」
「ふゥん?」
思考の切り替え方が上手いというか、鮮やかである。
どう転んでも最低限の用はなすよう取り仕切っていたわけだ。
確かに阿沙賀の発案が上手くいけばそれでよし。上手くいかずともそれを試すところまでが今回の約束であるなら、その後はまだ未定。
ともかく魔界の父のもとへニュギスが赴くという部分までは一致しているのだから、その結果はどうでもいい。
完全にマイホームだということを踏まえれば、阿沙賀が混ざりこむ程度どうとでもなるという判断も頷ける。
「ニュギスちゃんも、それで構いませんわね?」
「お姉さま、お姉さまはもしかしてはじめから敗けるつもりでわたくしの口車に乗ったのではありませんの……?」
自らの迷いによって臣下たちの動きに精彩が欠いていることも承知の上であったのではないか。それで敗北する可能性が高いこともわかっていて勝負に乗ったのでは、ないのか。
ニュギスの満足する形をとった上で自分の役割も果たすには、それが最善であったから。
ふっと、アティスは深く笑む。そして人差し指をぴんと立て、その甘い唇に寄せて片目を閉じる。
「ニュギスちゃん、あなたもまだまだね。淑女として、そういうことはみだりに口にするものではありませんわ」
「っ、ですが」
「こうして結果はでましたわ。どのような思惑があってもなくても、それは不変でしょう。後は約定を果たしましょう、ね?」
「…………ええ、わかりましたの。お姉さま、共に魔界へ参りましょう」
姉の思惑はともあれ、ニュギスとしては阿沙賀とともにあることができるならそれでいい。
彼女を縛る咎と呪いは、阿沙賀がなんとかしてくれると言ってくれたのだから。ならばむしろ一刻も早くすべきだ。
勝ちを譲ってもらったような心地ではあれ、ともかくこれにて一件落着、八方丸く収まった。
敵意で満ちていた空間も凪いでいき、殺伐とした風情も収まってきた。
終戦の講和も荒れることなく済んだと見て、安堵とともに遠凪はちょっと確認しておきたいことがあった。
前々から、喉の奥で小骨のように引っかかっていたこと。この際に聞いておきたい。
「オレからもひとつ、世姫アティス、あんたに聞きたいことがある」
「あら、貴方とはあまり接点もないでしょうに、わたくしになにか?」
「……あぁうん、だけどその前にキルシュキンテの顕能を使ってもいいか? そちらの臣下ら含めて、傷の巻き戻しをしたい」
「ええ、願ってもないことですが、よろしいのですか?」
意外そうに目を広げる。
こちらに情けをかける必要はないだろうに。
遠凪はこともなさげに。
「戦いは終わって、話もついた。もう争う理由はないだろう?」
「……ふふ、そうですわね」
同意を得られれば、遠凪は目配せでキルシュキンテに頼み――『け掛仕桜し廻逆』。
この場全員の肉体的な状態が時を巻き戻され、戦闘前のそれに返る。疑似的な怪我の治癒となって、痛みと流血から解放される。
アティスは自らの臣下たちの回復を見届け、ほんのかすかに安堵を浮かべる。すぐに引き締めて遠凪に視線を戻す。
「それで? 尋ね事とはなにかしら」
幾分か先ほどより柔らかに、アティスは問いをし直す。
遠凪はそれに、すこしだけ躊躇いを置いてから。
「竜木・竜という人間を知っているか?」
「……もちろん。記録で見ましたわ」
「奴は誰か悪魔から告げ口を受けてこの学園のことを知った。どこかにこの学園のことを知り、攻め込ませた悪魔がいるはずだ――それはあんたか?」
「いいえ」
否定は随分とあっさりしたものだった。
たしかに彼女の能力ならそれもできただろう。
しかし時系列的に成立しない。
彼女がこの学園に興味をもったのはニュギスを探してそこにいたからに過ぎない。
大江戸学園も、大江戸・門一郎も、境界門も、全てこちらにやって来た後に詳しく知りえたこと。竜木の行動を起こした頃には、まだニュギスの居所すら突き止められてはいなかった。
「そう、か」
となると、では誰だ?
誰が竜木・竜を唆して、誰がこの学園の秘密を知っている?
アティスとの一件は落着を見ても、この学園に火種は残る。
どこかでなにかが終わっていないのだろう。
やはり境界門が存在する限りは、この学園に平穏は訪れないということなのか。
そんな場所を、これまで守ってこれたのは間違いなく阿沙賀のお陰。
その阿沙賀が一時的にとはいえ離れて簡単には戻れない場所へと旅立ってしまう。それは、情けない話だがとても不安になる事実であった。
とはいえ、だからと彼を止めるような真似はすまい。
むしろ背を押してやるべきだろう。ここは大丈夫だからと、試胆会会長の遠凪こそが言わねばならない。
「阿沙賀は、その……魔界にいつ行くんだ?」
「そりゃすぐにだろ。さっさと済ませてェんだか――」
ふと、そこで阿沙賀の言葉が止まる。
口を閉ざし、俯いて、厳しい顔つきで次の言葉を選ぶ。
「その前に、一コだけやり残したことがある、先にそれだけ済ませたい」
「え」
遠凪は一瞬、その随分と険しい顔つきに虚を突かれるが、すぐに思い出す。
気づけばその場の試胆会メンバーが集まり、それをなすべしと等しく意志を統一している。
忘れてはいけない、今回の戦いの功労者。
自らを犠牲にしてまで阿沙賀に尽くして亜空間に埋もれてしまった少女のことを。
だから阿沙賀はまず彼女を救い出すためにアティスへ申し入れを――
「――――」
再びの硬直。
阿沙賀・功刀をして非常に珍しい、言葉をなくすほどの衝撃がそこに出現した。
阿沙賀のその強い驚愕と疑問に、繋がるニュギスに動揺が伝わり、また繋がっていなくても周囲全員も緊迫感が伝播する。
それはありえざる光景。
それはありえざる気配。
否、あってはならない存在である。
暴力的なまでの魔力が満ち溢れ、冒涜的なまでの破滅が充溢していく。
先刻まであった落着の風情を残らず塗り潰して、終了の鐘の音を大音声の警鐘でもってかき消す最悪の到来。
なんの前触れもなくそこに顕れ出でたる存在は――
「――――アルルスタ?」
違う。違う。絶対に違う。
彼女と間違えるだなんてとんだ侮辱だ。一瞬でも勘違いした自分をぶち殺してやりたい。
たとえその人型が彼女の姿をしていても、その依り代が彼女そのものであったとしても。
それは違う。違い過ぎる。
「…………」
声をかけた途端、アルルスタの姿をしていたそれは粘土細工のように崩れ落ちた。
まるで偽装が剥がれるように。まるで本質を拭い去るように。
変わる。代わる。入れ替わる。
――『相克する合わせ鏡』。
完全に姿かたちを変形させて現れたのは、随分と風格のない男であった。
手足は細く、筋肉どころか肉付きが悪い。ひょろりとした細面で、それでも不健康そうと思えないほど血色はいい。
ただただ飢えている。
食らう元気は充分備えており、むしろ健啖であろうことがその真っ白に整然と並ぶ歯の輝きで推測できる。
食前に垂涎しているような、減量を終えた直後のような、ただ腹を減らしているから細いのだと。
そうこいつは、これから馳走にあずかることを決めた肉食獣である。
「はじめまして諸君、ボクの名はザイシュグラ」
唾液にまみれた白い歯を覗かせ、頬が裂けたように笑う。
赤子のような、笑い方で。
「――魂喰魔王ザイシュグラ」
そうして、世界の終わりははじまった。
第四幕・了




