102 思我
特別なにかがあったわけではない。
決定的な出来事が起きたわけでもない。
ただ阿沙賀が当たり前に生きて育ち、真っすぐ歩いていただけで。
その様を、最も近くで見守っていた者から恐れられた。
不気味なほどに揺らがないその姿勢。物心ついた頃から確固たる自己を確立して譲らない。
それをはじまりから見届け、余すところなく理解できて。
あぁそれは、なんて――「気味が悪い」。
ある日、阿沙賀は実の両親にそのように告げられたのだった。
それから両親はふたりして阿沙賀を置き去りにして出て行ってしまった。
あとから知ったが、前から海外への転勤が希望していたらしい。以降、両親は一度たりとも日本に戻ってきていない。
阿沙賀は祖父母のもとに預けられたが、小学校卒業後には寮制度の整った大江戸学園に入学して寮暮らし。
祖父母との関係は悪くはなく、今でもこまめに連絡はくれるし、返している。
けれれどうにも、傍に居続けることが憚られた。
両親からは音沙汰もない。
誕生日だろうと正月だろうと、入学卒業の節目であろうと、昏睡して入院になったとしても――それらを祖父母に伝えられても、なにもない。
まぁなんなら阿沙賀のほうだって連絡先すら知らず、祖父母に聞こうとさえ思わなかったのだが。
――それは阿沙賀とその最初の不理解者。
生まれて初めて愛情を注いでくれるはずの者たちにそれをされなかった少年は――自らの命の大切さに気付くことができないでいた。
それを教えてくれたのは――
◇
ぼろぼろと、拘束が焼き崩れていく。
転移させようと全力を注いでもびくともしない。
この亜空間は遊紗のものであるはずなのに――いま世界の中心はここであると錯覚する。
思わず――遊紗はため息を吐きだしていた。
「はぁー、ほんとう、先輩ってズルいよねぇ」
「あぁ……オメェは悪魔どもを理不尽だって言うが、あいつらにとっちゃおれだってきっと理不尽なんだろうぜ」
「それは今すっごく理解できてるよ。というか、あーあ、そうなるって思ってたけど、実際にやられるとけっこう堪えるね。しかも魔女の茶々入れのせいとか、へこむなぁ」
「まァ迷亭のボケに関してはあとで殴っとくから勘弁してくれ」
とばっちりじゃないかなぁ!? とか聞こえた気がするが無視して。
空間による束縛を引きちぎって自由、斥力すら弾いて無意味。傷も高速で癒し、引力圏には踏み込まない。
遊紗はそれでもなんとか抵抗をするが徒労。瞬きの間に距離は拳の間合いに収まって、もはやなすすべはない。
それが発動された時点で、勝敗は決していた。
「加減はきっちりする。傷もすぐに治してもらえ――だから今この瞬間は、歯ァ食い縛れ」
「っ!」
力強く振りかぶられた拳はためらいもなく遊紗の顔面に突き刺さり、頬を歪めて打ち抜かれた。
それは紛うことなく暴力。乱暴極まる拒絶的な行為であり、これ以上ないほどの他者の否定。
そのはずが、殴るという接触の刹那、遊紗にはなにかが伝わった気がした。
その拳には、色んな感情が詰まっていた。
怒りとか、悲しみとか、辛さとか。
戸惑いに驚き、後悔。
罪悪感と晴れ晴れしさ、同情と愛情と友情。
そのくせ悪意や殺意、敵意なんかはすこしもなくて、本当に殴っている自覚があるのかと問いたいほどに清々しい。
それになによりも、一番強く強くこめられていたのは――元に戻ってくれという祈りであって、やはりそれはふつう殴打にこめるようなものではないだろう。
けれどそうであるからこそ鮮烈に、殴られた遊紗には阿沙賀の思いが、心が、魂が伝心された。
いつもと違った雑念の多さと、傷つける意志の欠如、そして祈り。
全部。
文字通り痛いほど、伝わった。
もしかしたらそれは、阿沙賀の魂が拳を通じて遊紗の魂に叩きつけられたということなのだろうか。
だったらいいな、と遊紗は思った。
「痛い……痛いなぁ」
殴られた頬をおさえながら、遊紗はぼんやりと言う。
押し込まれて吹っ飛ぶようなことにはならず、数歩下がって尻もちをついた程度。威力が遊紗の内部で弾けた浸透勁。
そのくせ痛みは大したこともなくて、ただ頬の熱だけが燃える様に強烈だった。
阿沙賀は構えを解いて、ちょっとバツが悪そうに。
「あぁわりィ、女子供を本気で殴る最悪な先輩で悪かった。遂にマジで手を出したわけで、流石にそろそろ見限ってくれていいぞ」
「しないよぉ、先輩はアタシに本気で向き合ってぶつかってくれただけじゃない」
本気だから恐ろしく。
本気だから真摯で。
恐ろしいほど真摯に真っすぐ、遊紗を見てくれた。
「そうやってがんばっていいほうに捉えるの、すっごい騙されやすそうで心配になる」
「先輩だけだよ。先輩だからだよ」
阿沙賀だけ。
あぁそうなのかと腑に落ちたのは、きっと阿沙賀もまた同じことを思っていたから。
そうだ言い忘れていたことがあるんだ。
阿沙賀は膝を折り、座ったような姿勢の遊紗と視線を合わせる。
「――遊紗、ありがとう」
「え」
何度も何度も肯定をくれたこと。
命も魂も懸けて、真っ直ぐに向き合って好意を伝えてくれたこと。
それが阿沙賀にとって、最後の一押しになったのは間違いないだろう。
「おれっていう命が、大事なもんだって気づかせてくれてありがとう。オメェが懸命に伝えてくれたお陰で、おれはオメェに勝てた」
「……もしかして、アタシも先輩の開かずの扉ひらいちゃってた感じなのかな」
肯定し続けたのは遊紗であり、その結果として阿沙賀の成長を促進してしまったのは先ほどと構図の逆転であった。後の祭り過ぎてどうしようもない。
いや。それならそれで。
「ちょっとでも先輩に、アタシの言葉と行動が影響してるっていうのは、うん。うれしいな……」
この期に及んでそんなことを言う。
参ったもんだと、阿沙賀は苦笑した。
ふと遊紗は思い立ったように。
「それで先輩、けっきょく先輩の顕能? は、どういう力だったの?」
「ん。あぁ」
ちょっと言葉を探して選んで。
「『それが故に自我』……自己の自在化がその能力、だな」
「エルゴ……エゴ……ふふ」
笑われた。
いや自分で言っててみょうちきりんな力だとは思うが、笑うことはないだろう。
不服そうな阿沙賀に、けれど遊紗は朗らかだった。笑みはうれしくてこぼれたものだからと。
「先輩にぴったりだね」
「……そうかァ?」
「うん、言われてみればこれしかないって感じ」
自己の自在化。
自分というものを自分であるということを喪失しない限りにいかようにも変質できる。それはつまり規模の小さな法則の設定、自己という世界の構築ということ。
たとえば自己の身体強化――阿沙賀が理屈不明に強くなるのはそれで。
たとえば自己の存在維持――他の魔力を受け入れつつも自己を失わずにいられる理由でもあり。
たとえば自己の性質偽装――魂の総量が一般啓術使いより低い程度だったのもこれだった。
細かに言えば自己を増やしてオモワレという管理人格を作ったり、自己を高位次元に押し上げて馴染ませたり、本当にやりたい放題。なんでもありだ。
自分を失わずに自分のできる限りをできるようになる、そういう顕能。
「まァ手っ取り早く言えば、百回に一回しか成功しないような行為をしたとしても、おれができると思ってやれば百発百中にできる。反面、絶対にできないことは一生できない……啓術とかな。そういう感じ」
「絶対ヤバいよそれ……」
「ちなみに二つ名は思我……思我阿沙賀ってところか」
「……」
ふとなにか遊紗は不満そうにする。
流石に異名まで用意したのは調子に乗りすぎて滑ったか?
いや顕能の名称は思い出したというか、そこにあった感じであって阿沙賀が考えたつもりでもないが、異名のほうはさっき思いついて名付けたわけで、指摘されるとだいぶ恥ずかしい。
そうではない。
「それってニュギスちゃんの恣姫と似せた感じなの?」
「……いや」
不満点はそこかと肩をすくめて。
「そっちは結果的にってぐらいだな。オモワレっていうおれの能力管理人格からとったのが本当だ」
「思う……我……」
我レ思う――それが阿沙賀のはじまりだから。
消えて統合していったオモワレの存在の証として、その名を名乗ろうと、そう思った。
あいつも魂のどこかで笑っているだろう。それはきっとよろこびというよりも苦笑だろうが、笑みは笑みだ。
決めつける阿沙賀をよそに、遊紗はひとり納得を抱く。
「そっか、思った我を、伝えることもできるんだ」
「おー、ぶっつけ本番だったが、うまくできたかよ」
「うん、伝わって来た、先輩が」
阿沙賀はいかにもふんぞり返って。
「どうだよ、嘘なんかじゃなかったろうが。おれは本音しか言ってねェってやっとわかったか」
「うーん。でも先輩って本音でも見栄をかぶせてそうだしなぁ」
「それはありえねェだろ、疑り深いにも程がある」
「冗談だよ。うん、間違ってたのは、アタシだね。ごめんなさい」
ぺこりと、遊紗は素直に頭を下げる。
これまでの強行暴走は遊紗の勘違いであったと認める。
そうであれば一体どれだけの迷惑をかけ、面倒をかけさせただろう。申し訳なくって泣きそうだ。
「いいさ」
阿沙賀はそんな遊紗の頭を乱暴に撫でて笑う。
「もういい。全部終わった。そう謝らんくっても、伝わってる――嫌いになったりしねェから」
「っ」
あぁもう。
本当にこのひとは。
一番気にしていたことを間違いなく言葉にして伝えてくれて、とろけそうだ。泣きそうだ。
けれど阿沙賀が涙を苦手としていることくらいわかってる。切なそうに萎れた姿を見せても困らせてしまうだけ。
だから、強気に。笑って。いつものように。
「ね……先輩」
「ん?」
「今回は、アタシの敗けだよ」
言葉でなにを言い合っても決着にならない――だから力尽くで。
そして遊紗にはもう戦う力が……いや、その意志が残っていない。パンチ一発で、根こそぎ吹き飛ばされてしまったようだ。
遊紗はもう立ち上がることもできそうにない。
その影響か、周囲では扉が徐々に消えていき、亜空間自体もゆっくりと綻んでいる。滅んでいる。
でも、と遊紗は言う。
「でももうひとつごめんなさいだけど、アタシまだ先輩を止めるの、諦めてないよ」
「あ?」
「これからも何度でも、先輩にもうやめようって言い続ける」
「いやなんでだよ」
困ったように緩く息を吐く阿沙賀に、遊紗は揺るぎなく、瞳を合わせていう。
「だって今が本当でも、明日には嘘になっちゃうかもしれないじゃん」
「…………」
「今日が楽しくても、これからまたイヤなことがたくさんあって、辛い目にたくさんあって、それで全部がイヤになっちゃうかもしれない。きっとそれでも、先輩は笑うんだろうけど」
未来はいつでも未確定。
悪魔に対する感情もどう動くかなんてわからない。これまでの理不尽に対して心折れる日がいずれやって来るのかもしれない。
阿沙賀だって人の子だ、その魂が永遠不滅なわけがない。
今の意見が明日の意見と必ずしも一致しない。
「そうなった時に気づけないなんてイヤだから。だからアタシは、先輩を止めるこの役目を降りない」
今日の結末は今日の結末に過ぎない。
明日にはまた、新たな結末が待ち受けていないとも限らない。
「でもね。先輩がね。それでもやめないって言うのなら、アタシはちょっと我慢するよ」
「我慢?」
「うん。我慢。
でね、また我慢できなくなったら同じことを言うの。一生、先輩を止めるよ。だってそれが一番の幸いだって、思うから」
「……」
遊紗は負けを認めはしても、持論を曲げたりはしない。
阿沙賀の幸せは、悪魔たちを取り除いて得られるものだと信じている。たとえそれが全てじゃないとしても、そういう幸せがあることを訴え続ける。
それは、阿沙賀にとって鬱陶しいだけかもしれない。
ウザくて、迷惑で、傍にいてほしくなんてなくて、いつかは打ち捨てられるかもしれない。
それでも自らを押し通す様は、阿沙賀に見習ったものだから。だから譲らず貫くのだ。
とはいえ、無感情に突き通せるのかといえばそうでもない。
遊紗は酷く悲観的で、迷子のような孤独がなにより嫌いなのだ。
縋るように、手が伸びる。
阿沙賀に救いを求めるように、その手を差し出す。
「こんな面倒なアタシだけど、先輩は……一緒にいてくれますか?」
「は」
笑ってやる。
楽しくて、うれしくて、笑ってしまう。
その悲愴を食い破り、一緒に笑おうと不安を蹴散らす。
「当たり前だろ。遊紗が止めてくれるってンならちょうどいい。おれひとりじゃ、時々ヘンな方向に行っちまうしな。ブレーキ役がいてくれるンなら安心してアクセル全開にできるってもんだ」
世界が崩壊していく中で、阿沙賀は遊紗の手を掴む。
しっかりと、力強く、どこにも行かないように。迷子になってしまわぬように。
「頼むぜ、一緒にいてくれ」
その言葉を最後に亜空間は完全に崩壊してふたりは元の空間へと還る。
そこに残ったのは、誰にも本人にさえ気づかれずに零れ落ちた一滴の涙と言葉だけ。
「ありがとう、先輩……」




