101 手織る迷い我
――なんなら次に戦うときには『亜空展象』を会得しててもオレは驚かない。
などと、遠凪のボケは宣っていたが、まったく。
「マジでやってくるとはな……なんて嫌な伏線回収だ、せめて遠凪の阿呆にかましてくれよ」
世界が一変していた。
いや、まるきり違う世界が新たに生み出され、そこに断ることもできずに引き込まれたのだ。
学園屋上を模したアティスの空間を移動して――ここは遊紗の世界。
啓術九節『亜空展象』により構築された亜空間である。
暗幕でも張ったように四方上下は真っ黒で、壁なのか果てが見えないのかすらわからない。
しかし暗いわけでもなく見渡す限り色とりどりの扉はしっかりと判別できる。
扉。
そう、そこには扉があった。
扉が、扉が、扉が。
無数の扉がそこかしこにあった。
真っ黒な広々とした空間に、ただ扉だけが林立している。それも大きかったり小さかったり、傾いたり歪んでいたり、両開きだったりスライドドアだったりする。多種多様だ。
それも地上だけにとどまらず、見上げれば中空で静止した扉が無数にある。あちこちに、あらゆる角度で、無秩序に固定されている。
唯一の共通点は扉の全てが戸を開いており、向こう側を見ることもできる点。その向こう側は、なにか揺らぎがあるだけでどうなっているのかは不明であった。
ただ奇妙な確信があって、ただの扉ではないと思えた。
あの扉をくぐったらそのまま通り抜けることはありえない。どこともしれない場所に迷い込んでしまうのではないか。
警戒と観察に費やしていた阿沙賀の正面で、遊紗もまたきょろきょろと周囲を見遣って感想をひとつ。
「へぇ、これがアタシの世界なんだ。なんか、ヘンな感じだなぁ」
この世界を展開している遊紗本人の言葉にしてはいささか戸惑いが混じっている。
未だ自分自身でも浮ついた感覚、不慣れで目新しくて、よくわかっていない。
阿沙賀は怪訝になって。
「なんだよ、自分の世界だろ。なに不思議がってンだ」
「いやほら、なんか先輩に火つけられて思わずやっちゃったけど、アタシまだこれ……えと、『亜空展象』? できないつもりだったんだよね」
「ぶっつけ本番でやってみたら成功したって? なんだそりゃ」
天才エピソード過ぎてもはや笑えない。
煽ったのは阿沙賀であり、その結果として遊紗の成長を促進してしまったのは失敗であった。黙って睨み合っているべきだったか。後の祭り過ぎてどうしようもない。
渇いた笑みの阿沙賀に比して、遊紗は随分と落ち着きを取り戻している。生命力とともに感情を吐き出したお陰か。
「で、ドアがいっぱいだね。なんでだろ」
「知るかよ。どっか行きたいのか?」
「んー? そういうポジティブっぽくはないかなぁ。逆に、行きたくないから開いてる。アタシが嫌なことを切り取ってる感じ……あっ」
なんとなく思い至る。
「そっか。これ迷子がイヤなアタシの魂なんだ」
「迷子……扉の迷宮ってことか?」
「そうそう、そんな感じ。たぶんあのどれかのドアをくぐると他のドアに繋がってる。この広い世界のどこかに迷い込む」
「けど迷路みたいに壁が邪魔してるわけでもねェ。迷子になってもすぐに自分の場所がわかる――あぁそういう」
迷子というワードが魂の突出した部分として反映され、そうなるようにとギミックが構築された。
けれど嫌だというネガティブな感情での突出であったため、すぐに迷子であることを脱するように壁がない。
自分の居場所を一瞬だけ喪失し、だがすぐに気づける。難儀な魂の反映である。
「つーか、扉一杯の世界って、それ喧嘩の役に立たねェだろ」
強いて言えば逃げ惑うのに役立つ、だろうか。
だったらそもそも自分の亜空間に敵をいれるなという話になるが。
「ん。んー。なにかまだできそうだなぁ」
遊紗が思念を抱き、それを試してみる。
すると。
「んァ?」
ぐいと、阿沙賀の全身は引っ張られるように近くの扉に吸収された。
そして別の扉から出てくる。
遊紗の正面三メートル程度にいたはずが、斜め二十メートル程度の豪奢な金のノブをした木製ドアから放り出される。
それは空中にあるドアで、阿沙賀は十メートルほどの高さから落下することになったが、慌てることなく姿勢を正して着地。
そんなことよりも巻き起こった事象に対する考察を。
「なんだこの吸収……いや、これは」
その感覚には覚えがある。
そうこれは、水底に引き込まれる見えない手のひら――
「引力か……」
「そうなんだ。じゃあこれはどう、先輩」
「あ?」
頭上から思い切りなにかに踏みつぶされるような感覚。
予兆もない衝撃に全身を強か打って軋む。
「ぐっ……痛ェ!」
それは先ほど通り抜けた扉から……ではない。
それとすこしズレた角度から謎の衝撃が襲ってきた。先の攻撃からその正体の推測は容易い。
「くそ、今のは逆――斥力か!」
「おぉやっぱりできた。先輩のお陰でだいたいわかったよ、ありがと」
「勝手に人を実験台にしやがって!」
つまりこの世界『手織る迷い我』が支配するのは引き寄せる力と弾く力。引斥操作の法則。
気にかかるのは斥力の発生時、扉との角度がびみょうに違っていたこと。
引力は扉に引き込むためのもの。しかし、斥力は――
「その引力の届かない場所から追い出すため……」
「先輩頭いいね、たぶんそうだよ。ほら」
「っ!」
咄嗟に身を投げるも左腕がわずか遅れた。強い衝撃を受けて腕だけが想定の移動先とズレて伸びきってしまう。そしてその腕を掴むように口を開いたドアが吸い込んでくる。
「ぐ」
腕が引っ張られれば当然に肩から胴体、頭まで順次吸収領域に呑まれ、阿沙賀は扉に消えていく。
再び出現したのは床に埋まった扉からだった。もぐら叩きのもぐらみたいに飛び出て、床に転がる。
目まぐるしい移動に振り回されながらも、阿沙賀の思考は正常。法則理解を深めていく。
「あー」
どうやら引力と斥力で出力に差がある。
どこからでも出せる分、斥力の威力はそこそこ。直撃を受けても痛いしわずか押されるがすぐに切り返せる。
しかし引力のほうはドアの先かつドアの形に縛られる分だけ吸引力が凄まじい。このなにもなく地面すら凹ませられない場では踏ん張って数秒耐えられるかどうかといった感じだ。
遠凪のそれと同じく妨害や阻害に特化した法則、ということでいいのだろうか。
まぁ彼女の本質が暴力的とは反対に位置している以上、そうなることに不自然はない。
問題は――
「ふっ」
不意に跳ね起きることで空間的捕縛を回避。動作の流れで左右に目線を飛ばして扉の配置を記憶に叩き込む。
そして走り出す。
扉の直線状に入らないように気を付け、非常に遠回りになりながら遊紗を目指す。
とはいえ扉の数が多すぎる。ルートにだいぶ無茶が出る。それに――
「どこ行くのさ、先輩」
空間のゆらぎ。
思い切りしゃがんで斥力の一撃を避け――否。
「っ」
「え」
避けずにあたりに行く。自ら吹っ飛ばされる。
代わりに同時に発生していた『空所固定』の捕縛からこそ逃れる。
二種類の攻撃を同時に重ねてくるとは、随分と慣れてきているな。いや慣れるのが早すぎる。
思考しながらも身体は押し込まれた結果、ひとつの扉の前に飛び出ることになる。
遊紗はすこしだけ考えてから引力の行使。阿沙賀を扉に引き込む。
出口は――
「あっ」
「お!」
運よくと言うべきか、遊紗の付近の扉であった。
ここぞとばかりに魔力を爆発させて遊紗に跳びかかる。
遊紗がなにかをするより早く接近、制圧できれば!
「なに!?」
ふらりと遊紗は我が身を投げ出す――近くのドアの向こうに。
すると遊紗はその場から消えてまた遠くの扉から現れる。
阿沙賀もまたその扉に突っ込もうとするが、幻のように消えてしまった。
「ち! 扉は消すこともできンのか!」
呆けている暇はない。
再び遠くからの『空所固定』を事前に察知してかわし、周囲の扉の配置を記憶する。
遊紗の攻撃と扉の向きを気にしながらとりあえず立ち止まらずに動き続ける。
「くっそウゼェ! なんつぅ面倒クセェ法則だ!」
だがひとつ朗報あり。
どうやら遊紗は扉同士どれが繋がっているのかわかっていない。こちらと条件は同じ。
それと――
試しにひょいと先ほど潜った扉にもう一度通過。やはり先ほどの場所にまで戻る。
ということは扉の行先は不変。最悪、常に移動先のシャッフルがおこなわれていた可能性も考慮していた分、まだ理屈で対処できそうでよかった。
ではもうひとつ試す。
潜った扉を側面からぶん殴る。
呆気なく崩壊し、同時に先ほど入口としたほうの扉もまた崩れていくのが見えた。
二者間の扉はリンクしていて、片方の状態がもう片方にも影響するということ。
そして幸いした。扉の耐久度が大して高くはない。
これなら邪魔な扉を砕いていけば遊紗への活路も開かれるだろう。
ではこれまで通過した扉の配置とそこと繋がる扉を覚えておく。
適当な扉に踏み込んだ際に近くに訪れることもあろう。すこしでも情報をストックしておかねば。
それとこれまで観察してきた分をあわせて脳内でこの亜区間の全体図を想像する。地図のように。
「頭痛くなってきた」
「なにも考えずに捕まってくれればいいのに」
「誰がそんな雑魚い真似できるかよ!」
阿沙賀は制服のボタンを千切って適当な扉をくぐらせ、物音の反響でどこに飛んで行ったかを把握。
遊紗の付近じゃなければ殴り砕き、進路を確保。
繰り返していけば運よく遊紗の近くにボタンが転がるも、その扉は阿沙賀が入るより先に消されてしまう。
すぐにボタンも尽きたので、仕方なく財布から硬貨をとりだし代わりに投げる。
「あとで金も一緒に元の世界に戻してくれよ!」
「アタシに勝てたらね! 敗けたら全部もらっちゃうから」
「敗けられねェ理由を増やしてくれてありがとよ!」
ひゅんひゅんと小銭を飛ばす。ドアの枠に身をさらさないようにしながら。
けれどどこからともなく斥力。
投げた瞬間を狙っての一撃は回避間に合わずに背を痛める。付近の扉は殴り壊していたので引力に掴まることはなかったが、すこしずつダメージを蓄積されている。『空所固定』のほうを優先して避けねばならない都合上、斥力の回避が疎かになっている。
度重なるダメージは動作の精度を着実に削いでいる。
遊紗への道行きを探る阿沙賀と、その間に地味に攻撃を加え続ける遊紗。
現状においては阿沙賀のほうに疲労と損傷が大きいか。
というか遊紗はまるで堪えた様子もなく平常通り。
これだけ大規模な亜空間を維持し、同時に別の啓術も遠慮なしに使って、なお生命力に減衰の気配もない。
彼女の生命力の総量は膨大無比。
確か図抜けた遠凪の、さらに百倍とかいう話だったか。ガス欠はまるで期待できない。
このままではジリ貧。
阿沙賀ばかりが疲れて擦り切れて、遊紗に辿り着く前に力尽きてしまうだろう。
扉はまだまだ無数に存在する。いや、減らした後から増やされている。この世界は扉の増減も自在なのか。そりゃそうか、畜生め。
これではいつまで経っても遊紗に近接できず、近接できねば拳が届かず、勝ち目がない。
「――こんなに理不尽で一方的なルールで戦って、楽しいの?」
「あ?」
呼気が荒れ、肩を上下させ、疲労の色が増していく阿沙賀に、遊紗はいっそ同情的に言う。
「近づくこともできない。リソースも減らない。同じパターンでやりこめられて。
ねぇこれって楽しいかな? 必死にがんばってるのに無意味なのって、面白いのかな?」
「…………」
それはこの現状だけを指して、というわけではあるまい。
つまり悪魔の理不尽を当てはめて、あの夜から今日までのあらゆるをまとめてを突き付けている。
疲労困憊になるまで駆けずり回って、しかし無意味。
何度も何度も引力に飲まれて斥力に叩かれて、しかし無駄。
全てが良い結末には繋がらず、お先真っ暗で倒れ伏す姿しか思い浮かばない。
阿沙賀の未来はこのまま悪魔どもに食い潰されてなにも残らないのではないのか?
「――――」
その問いかけに――返す言葉は決めていた。
けれど直前になって、その言葉が果たして今に相応しいかなんだかわからなくなった。
事前の計画と直近の変動により差異が生まれ、ここで放つに正解の言葉である自信がなくなってしまった。
「……っ」
けれどこうしたときに黙って誤魔化してしまうと、きっと後悔するだろうなと別の角度で俯瞰する自分が言った。
これまでもそうした経験があって、ようやくその積み重ねて来た後悔を先んじて思い至ることができたように思う。
たくさんの後悔をして、だからこそ次の後悔を避けるようにと考えられる。
本番前に後悔はできるだけしておくものだ、こうして正しい方角を見据えるためにとても役立つ。
だからつまり、無駄なことなんてひとつもない。
「――楽しいさ」
「……そんな無理に言われても信じられないよ」
「無理にじゃねェよ。迷惑? そうだな考えてみりゃそうだし、嫌なことも思い出そうと思えば思い出せるさ」
何度も何度も死に掛けた。
この数か月、暴力の巷で右往左往。痛みが焼け付き、流血に慣れて、恐怖ばかりが魂を殺ぐ。
誰かに心配をかけて、悲しい思いをさせて、それを直視するのはとても辛い。
約束を破って、楽しい舞台にケチをつけて、思い返すだに後悔が押し寄せてくる。
――記憶を遡れば嫌なことなんてものは、そりゃ幾らでも出てくるだろう。
けど、それだって一部だ。
もっとたくさんの出来事と思い出の、ほんの一部分だけに過ぎない。
「いろいろあったンだ、いろんな感情が溢れてるに決まってる。悪魔とか関係なしに思い出ってのはいつでもいいも悪いも全部混ぜこんで飲み込んで、過去になって今振り返る。で? その内訳がそんなに気になるか? 悪い感情がすこしでもあったらそれで全部悪い思い出になンのか?」
悪魔と遭遇しようとしまいと、人の思い出には良し悪し両方を含むものだろう。
それは誰だって同じ。阿沙賀も遊紗も他の誰だって。
じゃあわざわざ悪かったほうを選り好みして取り上げるなんて悲観だろう。
「おれは楽しかったと、そう言ったぞ。楽しくないも飲み込んで、辛いを乗り越えて、理不尽を踏み倒して――楽しいにしたんだ。
それが一番大事なことで、他を置いても誰かに知ってほしいと思った、おれの本音なんだよ」
絞り出すように、掻きむしるように、阿沙賀は言う。
「穿つなよ、疑うなよ、嘘なんかじゃねェよ。なァ、おれはそんなに、不幸に見えちまうのかよ……?」
そんなにおれは危なっかしいかよ。
見てて不安で放っておけない、助けてやらなきゃと焦燥をかきたてる雑魚と感じているのか。
なんだよそりゃ余計なお世話だよ……と突っぱねたところでどうせ聞く耳もねェんだろうが。
おれはおれの不変を知っているからどんな無茶でも無茶ではない。危機感はあるし不安も感じる、そこは人間一個の魂として普遍だよ。
だがそれを上回って自信をもっているからこそ、それに対する口出しは侮辱だし腹立たしい。
こうしてやっている以上、それはおれにとってできるというなんらかの勝算をもっているということなのがわからないのか。
いや、わかった上で勝算の拙さや不確実さに心配してしまうのか。そのように不足を感じさせてしまったのか。
であればそれはおれの勝ち筋を理解させてやれていないというこちらの非でもあるわけだ。
悪かったよ、次からはもっとうまくやる。
だから。
「だから遊紗、おれに助けは必要ない――そこで止まってくれ」
「…………」
その時、遊紗はどんな表情をしていただろう。
泣きそうな、不満そうな、怒り狂ってそうな――無表情。
冷徹なまでに凍えた声で、世界に命ずる。
「なにも楽しくないよ――理不尽は、ただ理不尽なだけ。それを、教えてあげる」
「!」
「――全界閉扉」
そして、全ての扉が一斉に戸を閉じた。
全て行く手を塞がれて、どこにも辿り着くこともなく閉鎖。もはや目指すことも向かうこともままならず。
遊紗にとって迷子とは、彷徨い続けるだけではなく、どこにも行きつくことのできない停止を意味する。
故にこれはこの亜空間における最悪の理不尽。
「ドアが閉じた……? それは、じゃあ……」
衝撃が襲う。
咄嗟にバックステップでかわすも、かわした方向からも同じく飛来。後頭部を殴られたような衝撃を受ける。
痛みに堪える一瞬の内に、さらにあらゆる方向から無数の衝撃――斥力が阿沙賀に降り注ぐ。
「っ! こいつァ!」
もはや行く先は消えた。
押し込み導く斥力は存在しない戸の向こうへ送りこむために無際限に迷子の背を押す。
その先になにもなくても、なにもない場所へと追いやる。
見えず聞こえず予兆もない。
容赦なき無限の斥力射出――果たしてその理不尽は、どれだけ続いただろうか。
阿沙賀は何度も何度も。
何度も何度も。
何度も何度も。
何度も何度も。
何度も何度も。
打ち据えられて逃れる術もなし。
全身至る所を殴打され、あらゆる方向から打擲され、身動きもできず貝のように身を固めてそれが過ぎ去るのを待つしかできない。
「……先輩は自分のことを不幸じゃないって言うけどさ」
気づけば斥力の嵐は終わっていた。周囲のドアが開いている。
だが当然、阿沙賀は捕まってしまっている。強固な『空所固定』で覆われ、指先ひとつも動かせない。
いやそんな拘束がなくても、今の阿沙賀に動ける気力があったかは定かではない。
動けない阿沙賀に、遊紗はすぐ傍にまで歩み寄る。
それから、ゆっくりと明確に横に首を振った。
「それでも先輩、それは不幸だよ」
きっと阿沙賀は嘘をついていないし、そのつもりだってない。わかってる。
けれどそれは自覚のない不幸である。
「悲観を悪いことみたいに言うけど、だってそれって今の不満を打破するために必要な感情でしょ? 強がって現状維持が最善だって言い張るのは本当にいいことなの? 辛いから変えようって意志も前向きだよ」
「おれが自分のことさえ理解できてねェ阿呆だって言いたいのか」
振り絞るような声で反論する。
あれだけ痛めつけられても、阿沙賀の反意は消えていない。
その反骨精神は好むところ、遊紗は憐れみと尊敬のブレンドしたような表情で。
「どうかな。でも先輩って、自分のことそんなに大事に思ってないでしょ」
「……わかるか?」
「わかっちゃうよ。だって、アタシもおんなじだもん」
遊紗もまた、自分よりも誰かの幸せを願える優しい子。
だからこそこんなザマに陥っていて、一番幸せになって欲しいひとに危害を加え拘束している。
あぁなんとも、ままならない。
「言葉でなにを言い合っても決着にならない――だから力尽くで、だったよね? 先輩、負けを認めてよ」
「…………イヤだね。おれは敗けてねェ」
「はぁ」
そういうだろうと思っていた。
この人がそんな簡単に降伏宣言などするものか。
かと言ってこれ以上拷問まがいのことをする気にもならない。
ここまで痛みに晒されてなお反駁できる男に、苦痛や恐怖で従わせることなど無意味だろう。そもそも単純にやりたくない。
「でもさ先輩。もう動けないでしょ? この状況で負けを認めないのって、ちょっと恥知らずじゃない?」
「はっ、こんな拘束すぐにも剥がして殴りかかるさ……」
「もうけっこう喋ってるよね? すぐってあとどれくらいかな」
「すぐはすぐだ」
「じゃあ、終わったら教えてね」
今の阿沙賀に、この空間的な拘束を解く術はない。
いや正確に言えばひとつある。未だ謎多い阿沙賀の顕能である。
とはいえそれを発揮できないようにと遊紗は気を遣っていた。
これまでの記録を確認して推論づけるに、おそらくあれは阿沙賀の命の危機に反応している。
阿沙賀に死が迫ることがトリガー。今回の戦いでその発動の気配がないのがいい証拠である。
遊紗は最初から阿沙賀を殺す気などなかったし、そのように伝え続けた。
本心からの行動であるが故に殺意は一切でていない。あれだけの斥力の嵐の中でさえ、遊紗は決して殺そうなどとは思っておらず、攻撃にも加減があった。
命の危機を感じることもなく、また勝負自体もできるだけだがあまり敗色を意識させないようにしていた。趨勢が傾くとやっぱりそれで敗けたくない思いで覚醒とかしそうな人だから。
「とりあえず亜空間のどっかに封じ込めておくね。欲しいものとかあったら言ってよ、話し相手にもいつでもなるからさ」
「そりゃ監禁だろ」
「そうだよ?」
まずい。
会話が途切れてしまった。
阿沙賀は焦る。
さっきから残る魔力を総動員して大暴れしているつもりなのだがこの拘束はびくともしない。打破の手段が思いつかない。
このままではマジで亜空間に囚われて敗北である。
言葉も、拳も、思いも、なにもかも出し尽くしてこれ以上はない。訴えうるものがなにもない。
クソ、こんな口だけ野郎になるなんて。なんて不様な敗けっぷりだ。情けなくって泣けてきそうだ。
なによりも情けないのは、遊紗の言葉にほんのわずかにでも心が傾いてしまっていること。
誰かの言いなりで、誰かのお膳立てで、自分の幸せを任せきりにしてしまうこと……それを完全に否定しきれずにいる。
それは阿沙賀の中にある甘えであり弱さ。
幸いを得るのは自らの手でと決めている……しかし、疲れてしまうこともある。
そこら中で諦める言い訳は転がっていて、決意は維持するだけでも常に摩耗していく。
迷いは幾度振り切っても纏わりついてきて、繰り返し自問を押し付けてくる。
こうと決めた。本当にいいのか?
自力でやり遂げる。大変な苦労を背負ってでも?
勝って全部を押し通す。こうして今、敗けようとしているのに?
阿沙賀の敗北は、自己の確信の敗北を意味するのなら。
遊紗の言い分こそが正しく、阿沙賀はここで心変わりするべきなのではないか……?
そんな風に、かすかな弱さが脳裏をよぎったことを。
見透かしたように声がした。
『――おいおい、どうしたんだい阿沙賀くん。これじゃあなんともまた退屈な結末じゃなかい?』
「「!!」」
その時、ふたりきりのはずの空間に不粋にも割って入ったのは――よく知る声。
この最大の危機的状況下で、出待ちのごとく滑り込んできたその声は――
「迷亭!? 迷亭か!? オメェなんで……!?」
「魔女! あれだけ厳重に封じておいたのに……まだ!」
ふたりの困惑は妥当である。
迷亭は遊紗とアティスに捕縛され、身動きも身じろぎもできないほどに徹底的に封殺されて亜空の果てに閉じ込められていたはずなのだ。
なのに、なぜここで声が届くという。
『ははは、ご両人言いたいことは山ほどあるんだろうけど、残念ながら聞く耳は持ち合わせていなくてね。こちらで勝手にしゃべらせてもらうよ』
などと、相も変わらずこんな時にも手前勝手に言ってのけ、本当にこちらの疑問には一切言及しない。
ただただ言いたいことを言うだけ。状況に不釣り合いなほどにいつも通りで腹立たしくなるほど。
『さてそれで、阿沙賀くん。君に一言だけ、伝えたいことがあるんだ』
「あ?」
『君以外はもう、みんな勝ったよ』
「…………は?」
は……?
マジで?
おっ、おれだけ? おれだけ敗けそうなわけ?
そんな、え? そんな、嘘だろ。いや嘘だと言ってくれ。迷亭お得意の大嘘……あっ、嘘じゃない。わかってしまう。どうしてこういう時ばっかり嘘じゃないんだよ!
じゃあなにか?
ここで阿沙賀が敗けた場合、他の奴らから一体どれだけ笑われるんだ? 迷亭のボケが向こうでどんな顔をしているのか……。
そんなの。そんなの。そんなの……!
「絶対イヤだーー!」
「っ!?」
おうこら、オモワレ!
いい加減に面ァだせや。人生最大のピンチだぞ。死ぬより辛い目に遭うトコだぞ!
身内が全員勝って喜んでるところでおれだけ惨めに敗けましたって、これはマジでイヤだ。心底困る。パンツを失った並に地獄過ぎる!
というかたぶんおれひとりの敗けのせいで他の奴らの勝利もなし崩し的に無意味になってしまいそう。なにそれ、すごく申し訳ないやつ。ごめんだよ本当。
いやいや!
まだ敗けてないから。ここから逆襲できるから!
だからさァおいこら、力を寄越せオモワレ!!
◇
「あぁもう。うるさいなぁ」
なんだか至極鬱陶しそうにオモワレが顔を出す。
いや近所迷惑みたいに言うが、呼びかけても無視してるほうが悪いだろ。
意識を引き延ばした魂の箱庭にて、阿沙賀とオモワレは最後の邂逅を果たす。
「で!? 用事は終わったんだろうな!?」
「いちおう、ね」
「毎度思わせぶりに言いやがって、結局なにやってたんだよ!」
叩きつけるような言葉に、オモワレはあくまでマイペース。
「あー実はね、ぼくはいま消えかけててさ。それで交信も難しかったんだよね」
「できてンじゃねェか! 一言内で矛盾してるぞ!」
「だからがんばったんだって……というか消えかけてるに反応してよ」
やれやれとオモワレは阿沙賀と同じ顔で肩を竦め、なんともなしに周囲を見遣る。消えゆくこの箱庭を惜しむように。
「今ほとんどの力はきみが掌握を完了している。ニュギスと遊紗、彼女らのために力がいると強く願っているからね」
「……おれはおれのために――」
「あぁそういうのいいから。自分に言い訳する不毛くらい言わずともわかるだろ?」
「ち」
なぜか心底不満そうな阿沙賀である。
どうしても誰かのためとかいうのは恥ずかしい。自分をこそ所以でありたいのだ。
「で、そのための移行作業にとりかかっていたわけだけど……それが終わって、結果としてぼくの必要性がなくなって消えかけてる」
「で、じゃあ」
「うん、これにて完了。ぼくは消えて――きみは力を思い出す」
かつて過去の阿沙賀が封じ込めた力を、今の阿沙賀が取り戻す。
知らん間に過去の自分を下して顕能の掌握を成功させていたらしい。いやほんといつの間にだよ。
しかしそうなると、
「……オメェは、消えるのか」
「うん? はは、もしかしてちょっと悲しんでくれてる? なにも悲しむ必要なんてないさ。ぼくは元々きみで、役目を終えてきみに還る。それだけさ。多重人格が統合するって感じかな」
これまで阿沙賀はずっと自らの力を制限して抑圧していた。
それは顕能を自由に使えなかった、ということだけでなく、魂の強さすら低減させていた。
生のままではその魂の強さ輝きからなにか――悪魔であったわけだが――に狙われると無意識的に理解していたための自己防衛であったのだ。
魂の総量すらも、阿沙賀は偽装していた。
その封鎖の栓こそがこのオモワレであり、逆に言えばオモワレがいる限り全ての開放とはならないのだ。
オモワレは、生まれた時からこうして消え去ることを定められていた。
故、覚悟などとうに完了していた。
笑って、言ってやる。
「きみの成長だ、よろこびなよ」
「……おれ、別に成長した感じはねェんだけどな」
「そうかな? きみはかつての自分の抱いた感情を超えた思いを得た。自分の生き死にさえどうでもいいきみが、しかして自己をなにより重んずるきみが、自分以外の誰かの幸いを願った。自らの手で、誰かに幸いを贈ってやりたいと希った。それはとても、とても素敵なことだよ」
本当に、その心の在り様は自らの主人格だけあって誇らしい。
自らが消えゆく要因として考えれば、これ以上ない。
最高の幕引きに、喝采の拍手を捧げよう。
「あとは一言、その顕能の名を叫べ。それできみは正しく完成する。さようなら、阿沙賀」
「あぁさようならだ。短い間、すこし話しただけだが――ありがとよ。これまで楽しかったぜ、オモワレ」
ふっと、そよ風が吹くように微かに、オモワレは笑った。
「こちらこそ、さ」
◇
それは架空とされてきた。
人界どころか魔界においても一笑に付される戯言。過去にありえたかもしれないおとぎ話ですらなくて、ただただ否定されてきた空理空論。
ありえない。ありえていいわけがない。馬鹿馬鹿しいにも程がある。
けれど、名前だけは存在していた。
千年も昔から召喚士の始祖スライマンがなぜかその可能性に言及し、あらかじめ名付けておいたという。
魔魂顕能に対する人間の魂の、顕れたる力。
それをして――人魂顕能。
そしてこれこそ阿沙賀・功刀の人魂顕能――
「――『それが故に自我』」




