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序章

長編初です。

「お姉ちゃんなんて知らないっ!」

「ちょっと、冬花!」


追い縋る声を無視して、私は家を飛び出した。

姉との喧嘩は、些細なこと。苦手な英語が伸び悩んでいるのを知っていたのに、「冬花は相変わらず英語が苦手ねー」なんてちゃかされて腹が立ったのだ。「お姉ちゃんだって受験の時は苦労してたじゃん!」と言い返して、後は言い合いになった。両親は既に仕事で家を出ていて、中学の創立記念日ゆえに一日休みの私と、午後から講義の姉しかいなかったのだ。

腹立ち紛れに家を出て、闇雲に足を進める。ふと気が付いた時には、幼い頃によく姉と遊んだ小さな公園に来ていた。老人が一人と小さな子どもを砂場で遊ばせているお母さんたちが数人。私はブランコに腰掛けて、ぼんやりと子どもたちを眺めていた。


「…お姉ちゃんの馬鹿」


ポツンと言葉が転がり落ちた。

苦手ねーの言葉で反発してしまったが、もしかしたら勉強法を変えるように勧めようとしてくれたのかもしれないし、勉強を見ようとしてくれたのかもしれない。最後まで人の話を聞きなさいと母によく怒られているのに、またやってしまった。


「……謝ろう」


姉は家にいるはずだ。多分ふて寝をしている。コンビニに寄って姉の大好きなポテチのり塩味でも買ってから帰ろう。ちなみに私はコンソメ派だ。

公園から少し離れたコンビニでポテチを買う。


「お姉ちゃん、喜んでくれるかな」


ぽつりと呟いて、家への一歩を踏み出した途端。

地面が揺らいだ。


「え?」


手からのり塩ポテチが落ちた。手を伸ばして、その手が透明になっていくのが、他人事のように見えた。誰かが駆け寄ってくる。上手く言葉を聞き取れない。何が起きてるんだろう。


「おね……ちゃん」


まだ謝っていない。友達の美季とは、明日遊びに行く約束をしているのに。


そのまま私の意識は落ちていった。




ふ、と意識が浮上する。2,3度瞬くと、薄布の向こうに高い天井が見えた。何か変な模様が描かれている。寝ぼけたままそれを掴もうと手を伸ばして、意識が覚醒した。


「ここ、どこ……?」


これはいわゆる天蓋付きベッドではないだろうか。こんなもの、うちにはないのに。

混乱しながらベッドを降りてレースを捲り上げると、声を失った。

幾何学模様が描かれた壁と天井。吊り下がっているシャンデリアが辺りを照らしている。部屋の隅っこには、メイド服を着た女性と、騎士のような恰好をした男性が十数人立っていた。

——何、これ。

呆然としている私の前に、集団が私の方へ歩いてきて跪いた。一糸乱れぬその様はさながら軍隊のようで、すごい、というより恐怖が先に立った。


「!”#$%&’()」


音の連なりは右耳から左耳へと抜けていく。何を言っているのか分からないその集団は、私が黙り込んでいるのを何と思ったのか、またしても何か言い始めた。


「¥々3…€4<:+÷/」

「$%’($%I>+{+#$%&’」

「_?>+*‘)(’&%$#”!」

「%&’()=~|{*?>+‘~”#$%」


私が誰かなんて彼らが知るはずもないのに、その瞳に宿る輝きは、まるで救世主を見るようなもので、言葉の通じない人に囲まれているだけなのに、喉が詰まって声にならない。


「!”#$%&’()=‘+」

「*>~=))’&$」

「$%&’!”#<>?+{‘」


熱が押し寄せてくる。生徒会長選の時に見たような熱が、注がれている。

私は思わず後退った。ベッドに足が当たり、尻もちをつく。


「!”#$%&’()」

「!”#$%&’()」


同じ音の連なりが繰り返された。狂信者か何かのようで、ぞわっと鳥肌が立った。

カーテンのように垂れ下がったレースを閉めて、物理的に彼らを視界から追いやる。幸いにも彼らは無理矢理開けてくるような真似はしなかった。


「!”#$%&’()」「!”#$%&’()」「!”#$%&’()」


音の連なり——あれは、ここで一番最初に聞いた音と同じだ。何を意味しているのかは分からないけれど、その言葉だけは何度も耳にした。

取り敢えず、落ち着こう。落ち着いて、彼らと話をして、家に帰ろう。

私は閉じたレースから片腕を出すと、指を1本立てて、シッシッと虫を追い払う動作をした。理解してくれるかは不明だが、またあの熱を受けることは出来かねる。

誰かが立ち上がって、何かを言った。レース越しに、人がぞろぞろ出ていくのが見えた。


「<*3&’(”#$%」


静かな声がした。私がそろそろと顔を覗かせると、女性と男性がひとりずついた。女性は暗い茶髪に栗色の瞳で、男性は——銀髪と呼ぶべき光沢のある白髪に、青い瞳をしていた。どちらも日本人離れした顔立ちである。

……指文字の1は2に換算されるのか? それとも男女ひとりずつと思われたのか?

答えが分からないのでどうしようもないが、ひとまずこれで人はいなくなった——と安堵したところで、扉が乱暴に開かれ、赤毛の男性がずんずんとこちらに近寄ってきた。かと思うと顎を掴まれ、強制的に上を向かされる。先程の銀髪の男性が何か声を掛けていたが、赤毛の男は見向きもしない。


「。;@^!”#$%&’()」


また、あの言葉が聞こえた。


「(’%&$’&=~O、。l;」


赤毛の男は私の顎を掴んだまま何か言ったが、やはり何を言っているのかは分からなかった。というかいい加減離れてほしい。

私が思い切り上体を逸らして顎の手を解くと、男はエメラルドのような目を丸くして、次いで笑い出した。哄笑とでも呼ぶべき大きな笑い声だった。


「——、;:@「p-&’」


赤毛の男は私の頭をくしゃりと掻き混ぜると、踵を返して出て行った。


「な……なんなのよ、あいつ」


私の言葉に答える者は、当然ながら誰もいない。

部屋が静まり返ったことで私は我に返った。やることを忘れるところであった。残った二人に向き直り、口を開く。


「と、う、か」


自分を指して、何度か繰り返すと、彼らも私の行動が理解できたようで、まず女性の方が言った。


「め、りゅ、り、な」

「めりゅりな?」


噛みそうな名前だ、と思っていると、彼女は自分を指し、もう一度、更にゆっくり、はっきり、


「め、る、り、な」


と言った。


「メルリナ?」

「るー、り」

「メルーリナ?」


冬花がそう言うと、彼女は嬉しそうに何度も頷く。そして再び口を開いた。


「ロ、ジェ」

「ロジェ?」


彼女は自分を指して、こう言った。


「メルーリナ・ロジェ」


メルーリナが名前で、ロジェが苗字らしい。


「メルーリナ・ロジェ」


彼女は嬉しそうに何度も頷いた。そして私に跪いて言う。


「ミ、$%{!”#$%&’()」


繰り返される音の連なりが、ようやく捉えられるようになった。


「リン、フェリアス?」

「リィン・フェイリアス」


メルーリナがゆっくり言って、私を指差した。私は眉根を顰める。どういうことだろう。私の呼称なのか。不審者を意味するものでは、恐らくないだろう。

私の困惑を察したのか、メルーリナは顔の前で手を組み、目を閉じた。さながら祈るかのように。

—いの、る?

それは、まるで、

そこまで考えて、私は頭を振った。聖女、という単語を頭から消す。異世界なんてそんな馬鹿な話、あるわけがない。

ここで、男性が進み出た。同じように名前を教えてもらう。ラキエル・デ・ルスキア・フェルゼット。長いね。


「ミ、+5…・〆6%^:・、リィン・フェイリアス」


ミ、というのは恐らく一人称で、私、僕、に相当するものなのだろう。ふむふむ、と頷いた私に、ラキエルが尋ねる。


「リィン・フェイリアス、々6×→<8々%^☆>…」

「?」


彼の言いたいことが分からず、私は首を傾げたが、次の言葉で言いたいことを理解した。


「ロジェ、ルスキア」


苗字を尋ねられているらしい。『フェルゼット』はどこへ行ったのかと思わないでもないが、取り敢えず答える。


「あ、さ、ぎ、り」

「あさぎり。*「#\*>.」


語尾が上がっているから、合っているか、と尋ねているのだろう。多分。私が頷くと、ラキエルは確認するかのように言った。


「とうか、あさぎり」


再び頷き、冬花は身振りで書くものはないかと尋ねた。メルーリナが一度頷くと、近くの机からゴワゴワした紙と羽根ペンを持ってきた。

……どうして羽根ペンなのか、なんて考えたくない。

私は受け取った紙に図を書いた。日本の大雑把な地図だ。これで分かってくれるかだか不安だったが、ラキエルは分かってくれたようで、扉を指し、また中を指した。席を外すと言いたいらしい。頷いて待っていたのだが、ラキエルはなかなか戻ってこなかった。退屈になったので、私はメルーリナに文字を書いてくれるようにねだった。メルーリナは最初こそ戸惑い、遠慮していたが、羽根ペンを押し付けると文字を書いてくれた。

英語に似た、けれど明らかにそれとは異なる文字だった。

メルーリナは自身の名と私の呼称と思しきものと、それからラキエルの名を書いた。私は手当たり次第に物を指しては名を教えてもらい、文字を書いてもらうということを繰り返した。幾つかの単語と音を聞いていたら、恐らく母音は日本語や英語と同じで5つあるのだろうと見当がついた。問題は子音の数と文法だが——簡単に意思疎通が出来るようになるまで、ひと月で足りるだろうか。

考え込んでいると、ラキエルが戻ってきた。彼は私に古びた紙を差し出した。茶色で構成されたその紙は、地図で間違いないのだろう。

私の目から涙が零れ落ちた。


「リィン・フェイリアス」「ファナ・アサギリ」


濡らしてはいけないだろうから、と突き返すように地図を返した私は、二人が声を掛けてくるのに構わず頭から布団を被って丸くなった。堪えきれず嗚咽が漏れた。口を覆って、声が漏れるのを最大限防ぐ。

涙を見られたくなかった——地球と異なる世界に住む彼らにだけは。





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