7.せめてもの餞別
「このようなお茶の席で粗相してしまったのは痛恨の極みでございます。言い訳もできません」大地 みよ子は頭を畳にこすりつけ、平謝りした。声までふるえていた。「ただちに退席します。このうえにおいては、今日かぎりで職を退き、責任をとる所存でございます――」と、言うと立ちあがり、みんなに一礼した。「ご無礼、お許しください」
去り際、奏と目配せした。
そそくさと部屋を横切り、躙り口の前でしゃがんだ。
それを追うべく、奏も席を立った。
「みよ子さんは悪くありません! 彼女は私の代わりに――!」
そこまで言うと、響三郎が身体を向け、大きな声でこう言った。
「もうよろしい。みよ子は身体の調子がよくないようだ。臭いでそれとなくわかる」と、思慮深い口調で言い、奏の方を見た。「奏、ボヤッとしてないで、大地さんを気づかってさしあげなさい。おまえも外へついていっておやり」
その思いやりに救われた。
大地は躙り口から、いかにも体調が悪そうに装い、草履を突っかけて出ていった。
あわてて奏も追った。
尿意を我慢している競歩選手のように内股で走り、出入り口でしゃがむ。
いったい彼女は、なぜ身代わりとなったのか――?
◆◆◆◆◆
「みよ子さん、待って!」
雨が降る露地を、奏は走った。
走りながら続けざまに小出しにした。おならを。
大地 みよ子の足は思いのほか速く、庭園の中ほどにある池と東屋のところでようやく捕まえることができた。
奏とその家政婦は、せっかくの着物も雨で濡らしながら息をはずませていた。
どちらかが言うことなく、東屋の屋根の下に入り、ベンチに腰かけることにした。
呼吸を整えるため、2人はしばらく口も利けなかった。
池では、錦鯉の群れがゆったりと泳いでいる。
「……お嬢さま、よりにもよってあのような席で、お洩らししてしまったからには、責任を取りたいと思います。先ほど申しあげましたように、今日かぎりで私はお仕事を辞めさせていただきます」
あろうことか、大地は、さも自身の過失であるかのように侘びた。
奏は半身を乗り出し、この家政婦の手を握りしめた。
「なぜそのようにご自分を責めますの? あれは私が致したのです。悪いのは私。すべては昨日食べすぎたせいであって、身から出た錆です」
「奏お嬢さま。あなたは由緒正しいお家柄の人です。そのような粗相をしてはいけない、ご身分なのです」と、大地は奏を見つめ返して言った。「そのために、私は忍海家に、おじいさまの時代からお仕えしてまいりました。古くは江戸時代から続く役をお任せされていたのでございます」
「――おじいさまが言ってた、いざというときに重宝された役職ってこと?」
「こんな不測の事態に備えて、いつも私は忍海家のご婦人たちのそばに待機してきました。まさにこの日のためにお役に立てることができて、私も本望でございます」
と、大地 みよ子は言って、うつむいた。
頬には光るもので濡れていた。
「みよ子さん」奏は大地の肩に手を置いた。「わけを説明してください。いざというときのために、常に私のそばに寄り添っていたとは、どういうことなのですか?」
大地は奏の細い手を取り、うなずいた。
「よろしいでしょう。種明かしするのも、せめてもの餞別かもしれません……」
◆◆◆◆◆
江戸時代のころである。身分の高い女性たちは面子を保つことに重きを置いていた。
そんな女性たちが、まさか公衆の面前で誤って放屁してしまうことは、面子丸つぶれの事態となりかねなかった。
うっかり人前で洩らそうものなら、引きこもりの要因になったり、なかには自害する者もめずらしくなかったのだ。
たった一発の屁が人生まで狂わせてしまう。それどころか命すら落とすきっかけとなる……。
悲しいかな、それが高貴な生まれの体面なのである。たかがオナラ、されどオナラである。
江戸のころの若い女性の川柳で、『花嫁は ひとつひっても 命がけ』とあるぐらい、公家や武士の家柄では、大事な席で恥をかくことは、しばしば死に直結した。
そんないざというときのために生まれた職業があった。
それが屁負比丘尼と呼ばれる役職の者である。
いつもは身分の高い女性に従い、身のまわりの世話をこなしながら、付き人のように仕えていた。
よもや女性が屁をこいてしまったときには、恥ずかしそうに『私がしました』と申告。身代わりになることで、その場を丸く収め、ご主人を守っていたとされているのだ。
屁負比丘尼にとって、ご主人の身代わりになるからには演技力がものを言った。
いかにも屁負比丘尼がこいたと思わせる仕草があってこそ、ご主人の恥から眼をそらすことができた。
まさに、プロの技術を要したのである。
『年をとり、もうお嫁に行くことはないから、多少の恥をかいたぐらいでビクともしないだろう』との理由で、屁負比丘尼には出家した尼が採用された。耳が遠くて放屁音が聞こえなければ役に立たないので、わずかな音を聞き逃さず、鼻の利く中高年の尼が適任とされていたという。それほど尊い職務だった。
きっと祖父、響三郎は、忍海家に3代にわたり、現代の屁負比丘尼として、もしもの場合を想定して雇っていたにちがいない。
忍海家に忠実に仕えてきた大地 みよ子は恥をかく犠牲すらをいとわず、いかにも自分が放屁したかのようにふるまってきたのだった。
まさにここ一番で重宝した屁負比丘尼の仕事ぶり。
常に奏のそばに寄り添い、黒子のように尽くしてくれた。このような会合の席で誤って粗相してしまうことは滅多にないとはいえ、まさに有事の際の懐刀として、ここぞの局面で力を発揮してくれたのだ。
「ですが、これで私の役目は終わりです。私だって1人の人間、こうも大恥をかいたとなると、さすがに忍海家に居続けることは耐え難い……」と、大地は奏の手を握りながら口にした。「お嬢さま、肝に銘じてください。晴れの日の前日は、腹八分で控えるべきだと」
「ごめんなさい、みよ子さん! 私が悪かったの! だから行かないで!」
奏の必死の願いもむなしく、大地はその制止をふりきり、東屋を飛び出していった。
小ぬか雨に煙るなか、現代において最後ともいうべき屁負比丘尼が去っていく。
ああ屁負比丘尼、哀れ、彼女は何処へ行くのか。
さようなら屁負比丘尼、また会う日まで。
さよオナラ、屁負比丘尼。おまえのことは忘れない。
◆◆◆◆◆
ロサンゼルスの自宅に帰ったキャサリン・羽生田は、エッセイを書くためにパソコンをカタカタ、タイピングしていた。
それにしても、響三郎の茶事に招かれたというのに、あの狭い茶室で嗅がされたオナラのくさかったこと! それもまた貴重な取材となった。
「オー、それにしても日本はオモロイ国ね。美しい作法、重んじると思ったら、お茶室でオナラ・テロ仕掛けてくるし。とんだ体験させてくれたね。きっとこの記事、ハンキョウ、呼ぶと思う」
そう言うと、片尻あげてバリ!と屁をこいた。
了