6.嵐の到来
奏は脂汗をかきながら我慢し続けた。
身をよじり、腹筋をかため、肛門括約筋に意識を集中させ、ガスの漏洩を阻止する。
ここで踏みとどまらねば、世間の笑いものにされるだけではなく、一生禍根を残すだろう。お嫁に行くのも影響を及ぼすに決まっている。
足袋を履いた足を重ね合わせ、もぞもぞと落ち着きなく悶えた。足の指を折り曲げて耐えた。
それは全身全霊を賭けた、深窓育ちの奏には、かつて経験したことのない泥臭い戦いだった。
雑念が頭を占める。
お茶の作法やら美しい所作など眼中にない。有体に言えば、知ったことか!である。
なんとかこの時間をつつがなく終えることを願うしかない。
しかしながら頑張っても頑張っても、狂暴なガスが蓄積し、体外へ排出しようと烈しい抵抗を示す。
たまりにたまった気体が腸の中で充満し、逃げ場を求めて出口に殺到する。
かろうじてお尻からの開放は奏のたゆまぬ努力によりシャットアウトしていたが、それも今や時間の問題。
よもや邪悪なガスは鯉の滝登りみたく腸をさかのぼり、胃へと逆流し、食道を這いあがってゲップとして出かねないほど逼迫していた。
まさにこの席で、おくびのひとつでも洩らそうものなら――放屁してしまうことを思ったら、まだ可愛くすら思えた――、じっさい、この茶室にいるみんなは笑って許してくれるだろう。
「ごめん、思わずゲップ、出ちゃった」とでも笑ってごまかせば、事は丸く収まる。
とはいえ、口からおならの臭いを出しかねない。
それを益子、葵らに嗅がれ、『うへっ……奏ったら、口からおなら臭、出したよ』と、白い眼を向けられるのも、それはそれでなんとしても避けなくてはならなかった。
葵が茶碗を傾け、濃茶を口にしている最中だった。
そっと大地 みよ子がそばに寄り添い――忠実な影のように、時には物言わぬ隣人のようにつき従ってきたからこその阿吽の呼吸であった――、小声でこう言った。
「お嬢さま、ご無理なさらず、退席なさいませ。おじいさまはそこまで強制しないはずです」
「……ええ」
その言葉に甘えるべきだと思った。
とうに我慢の限界は越えており、いつ休火山が急激な活動をするや知れたものではないのだ。
家名に傷つこうが傷つくまいが、体面を気にしている状況ではない。じっさい緊急事態が差し迫っていた。
一刻も早くこの狭苦しい部屋から抜け出し、どこか広い空き地で、一発大きいのをこいてやれば、清々すると思った。
そのときには、雨が降っているさなかとはいえ、11月の秋風がきれいさっぱりサツマイモと焼肉とニンニクをブレンドした悪臭を吹き散らして、すべてをもみ消してくれるだろう。
葵が茶碗の飲み口を清め、奏に渡そうとしたときだった。
奏は耐えきれず、
「すみません……」
と、手をかざした。
本来なら正客、キャサリン・羽生田をさしおいて亭主に言葉を発するのはエチケットに反する。わかっていながらどうしようもなかったのだ。
きっとその宣言が油断させたにちがいない。
響三郎は、あごを突き出し、孫娘を見た。
次の瞬間だった。
ブピーーーーーッ!
お茶室に、時ならぬ甲高い音が鳴った。
まるでウリ坊の嘶きである。
誰もがまばたきもせず、身を硬くした。
我が耳を疑うほどの、茶事に似つかわしくない破裂音。
当の奏もが眼を丸くし、正座したまま、身動きできずにいた。
我慢に我慢を重ねたのに、ついにゲートを開放してしまった。
風船がしぼむように、全身から力が抜けていく……。
直後に、恐るべき臭いが立ち込めた。
ここで下手に着物の袖でも動かして、大気をかき混ぜようものなら、よけいいらぬ嫌疑をかけられてしまう。
どうせこの狭い空間である。音が鳴った方角は、奏の位置から発せられたのは火を見るより明らかであった。
事ここに至れば、開き直るしかあるまい。
奏はこわばった笑みを浮かべ、素直に謝ろうとした次の瞬間だった――。
突如、奏の斜め後方にいた大地 みよ子が毅然たる声で、こう言った。
「私が致しました」
と言い、畳に両手をつき、ゆっくり頭をさげたのだった。
常に奏のそばに、忠実な影のように、時には物言わぬ隣人のように寄り添っている家政婦。
奏はふり向いた。
その堂に入った姿に感動すら憶えた。泣いてすがりつきたい気分になった。
大地は自ら身代わりを買って出てくれたのだ。
なんという自己犠牲の精神!
しかしながら、いくら家政婦にその汚名を着せるのは、奏の良心をえぐった。ましてや祖父がいる手前、そんな逃げの一手が通用するものか。
正々堂々と生きろと、家訓を後光のようにかかげている忍海家に、恥の上塗りをするも同義である。
「……あ、いや、今のは」
弁明しようとすると、背後の大地は、
「いいえ、お嬢さま。粗相したのは私です。面目ありません。みなさま、なにとぞお許しください」
と、頭を垂れたまま、本気で恥じているかのように肩をすくめた。ただでさえふだん影のように薄い存在が消え入りそうなほど小さく見えた。
それにしてもみごとな演技であった。
あまりの役者ぶりに説得力があったからこそ、奏の恥ずかしさが緩和された。なんだか本当にニンニク臭い屁をこいたというのに、他人事みたいに思えてくるほどだった。
みんなは無言で奏の顔を一度見たあと、大地に眼をやった。
益子、葵は呆れたような顔で、おたがい見合わせ、すぐにプッ!と吹き出した。
キャサリン・羽生田はハンカチを取り出し、口もとを覆ったまま顔をそむけた。
響三郎は咳払いをひとつしたあと、
「ま……。誰にでもまちがいはある。私が亭主でよかったな。以後気を付けなさい。仮にもここは神聖な場だ」
茶室に入るとき、武士さえ刀をはずし、平民も武士もみな等しく頭をさげて、躙り口から入室することは、異空間に入るものと見做されるという。まさしく、この4畳半は神聖な場所だった。
「すみません、今のは大地さんじゃなく――」
奏はあわてて言ったが、むしろその釈明を拒むかのように響三郎が睨んだ。
まるで、これ以上、蒸し返すなと言わんばかりに。
そうこうするうちに、奏の体内は大変なことになっていた。
恥ずかしいのと、大地に向けられる冷たい視線が気の毒で、複雑な感情が交錯していた。
またぞろ腸がうねり、新たなガスが発生した。抵抗しようにもタイミングを逸してしまった。
尻を引き締めるべきだった。
またもや最後の砦ともいうべき弁を閉じかね、荒くれのエネルギーを逃がしてしまうとは。
失点してしまったゴールキーパーが責任を感じ、茫然自失している隙をつかれ、さらなる追加点を許してしまうような按配。
ブホッ!
茶室にワイルドな音が響いた。
今度は豚の鳴き声である。
20歳の娘のものとは思えぬほどの立派な放屁音。
誰がどう聞いても屁をひった音に他ならない。
奏の顔は信号機のように赤くなった。
――神は、乗り越えられる試練しか与えないとおっしゃったじゃない!
きっと、私は亡くなったら、あの世でさんざん千利休に説教されるにちがいない!
北大路 魯山人にまで、グジグジと詰られるだろう!
「あ、今のもわた……」
言おうとしたら、大地が言葉を被せるように、
「誠にすみません。私が致しました」
「ナント! またアナタが!」と、キャサリン・羽生田が非難がましい眼つきで睨んだ。「もはやテロですわ!」