5.大地 みよ子の出番
◆◆◆◆◆
奏にしてみれば、ここまではよかった。
懐石も残さずたいらげ、祖父のもてなしに無礼がないようつとめることができたのでホッとしていた。
しかし魔の手が、そっと忍び寄っていることに気づいていた。
きっと外の冷たい空気に当たったのが、障ったにちがいない。
お腹がグルグル言い出したのだ。
不穏な雲行きになった。このまま茶事を続けられるだろうか……。
顔をしかめて、帯に手をやったときだった。
向こうで響三郎が鳴り物である銅鑼を叩いたのだろう、思いのほかやかましい音が聞こえた。
それが後座入りの合図である。
奏は体調が悪いと言い出せないまま、みんなについていった……。
ふたたび5人は躙り口から、身体を屈め、頭から部屋に入った。
これから茶事の肝である、濃茶をいただくわけである。
渋い色合いの和装姿の響三郎が正座し、茶釜と茶道具を前にしていた。
5人も畳のへりを踏まぬよう歩き、正座した。
端から正客であるキャサリンを筆頭に、連客の益子、葵、奏の順。奏は末席だった。
大地 みよ子は奏の斜め後方に従う位置で座る。あくまで奏のサポート役である。
一同はお辞儀した。
誰もが口を閉ざし、響三郎が茶を練るまでの一連の動作を見守る。やけにもったいぶった所作である。
ようやく濃茶が出された。まずは正客であるキャサリン・羽生田である。
「お先に」
と言って、次客である益子に浅いお辞儀をし、茶碗を膝もとに置いた。
続いて亭主に向かって、
「お点前、チョーダイ致しますゥ」
深いお辞儀をして、あいさつを述べた。
テレビで見かける同様、日本語は怪しかったが、美しい所作だった。茶器を傷つけないよう、あらかじめ指輪やネックレスなどの装飾品は取り払ってある。
茶碗を手に取り、時計回りにゆっくりと回した。
口につけ、グビ、と飲んだ。
自分の分を飲み終えると、おもむろに着物の懐から紙を取り出し、器の吸い口を清める。かなりこなれた感がある。並の日本人よりも経験を積んでいるようであった。
そして茶碗を益子に渡し、頭をさげた。
「たいへん美味しく、チョーダイ、致しました」
と、亭主に言った。
負けじと益子も、もったいぶった動作で器を扱う。
怪しい手つきのため、落としかねない。せっかくのこの茶事のために用意された道具を破損させたりでもしたら大失態である。
じっさいこの渋い織部焼は、まさしく陶芸の天才と評された魯山人の作品であり、買取市場においては高額査定されるのだ。
益子の危なっかしい手つきにもかかわらず、響三郎はにこにこしながら見守った。
なんとか濃茶を口にした。
温室育ちの益子にはいささか渋すぎて口に合わないのか、顔をしかめてなんとか飲み干す。
飲み口を清め、次席の葵に渡した。
このようにして濃茶は順ぐりに回される。
濃茶の場合、お茶を『点てる』のではなく、『練る』と表現する。練られた濃茶は、1つの茶碗で回し飲みをするのだが、これには理由がある。1つの茶碗でみんなが共有することによって、客同士の心を通わせるためなのだという。この濃茶のあと供される薄茶を飲む際にかぎり、1人につき1つずつ茶碗で出される違いがある。
茶事には一連のプロセスが厳格に定まっており、美しい作法を求められ、素人には堅苦しく思えがちだ。
しかしながら茶道の本質はお茶を楽しむことである。所作にこだわるあまり、お茶を楽しむ気持ちをおろそかにしては本末転倒であろう。
ところがである。
奏にとっては、場を楽しむどころではなかった。
腹の具合は小康状態を保っていた。
代わりに、むしょうに屁をひりたくてひりたくて、どうしようもなかったのだ。
まず昨夕、欲張って食べたふかし芋がいけなかった。サプライズを用意してくれた早瀬に悪気はあるまい。単に奏の口が卑しかっただけである。ふだん品行方正を心がけている奏らしからぬ行動であった。魔が差したとしか言いようがなかった。
誰もが周知しているように、サツマイモには食物繊維が多く含まれ、デンプンの粒子が大きいため、腸の蠕動運動を促すのだ。
したがって、おならが出がちになる。
さらにそのあと、京橋 双葉に無理やり焼肉を食べさせられたので、輪をかけて状況を悪くしていた。
肉、ネギ類、ニンニクなどの硫黄分の多い食物をたくさん食すると、大腸でウェルシュ菌などによって分解されるときに腐敗し、硫化水素をはじめ二酸化硫黄、二硫化炭素、スカトールなどのガスが大量発生する。万が一放屁してしまったら、臭いのきついガスを洩らすことになる。
それにしても昨夜は食いも食ったりであった。よく胃がパンクしなかったものである。さすがに朝食は軽くすませ、食後に胃薬を飲んでいた。
なのに、今朝のお通じは平日並みしか出なかった。小鳥なみにちょろっとだけ。
やがて、お腹がギュルギュル唸ってきた。
便意までは催さなかったものの、やたらとガスがたまり、屁をひりたくて我慢するのに必死だった。
――おお、神よ! なぜあなたは、これほどまでに私めに試練を与えなさるのか?
茶道は500年以上もの歴史を持つ、日本の伝統文化を代表するものである。
その茶室で放屁するなど言語道断の所業であろう。草葉の陰で千利休も額に青筋を立てるにちがいない。
茶碗が葵に渡っているあいだ、奏の苦しみは峠にさしかかっていた。
そんな奏の様子を見かねたのか、すかさず右斜め後ろで正座していた大地 みよ子がにじり寄った。
耳もとで、
「いかがなされました、お嬢さま?」
と、助け舟を出した。
「ちょっとお腹の具合が……」
奏はまわりに聞こえないよう、小声で答えた。
「顔色が悪いですわ。なんでしたら、退席されては?」
「せっかくみんなが集まってくれたんですもの、私だけ辞退するわけには……」
「悪いものでも食べられたのでしょうか」
「みよ子さんは昨日、定休日だったからご存知ないでしょうけど」と、奏は切羽詰まって白状した。「実は、昨日の夕方、ふかし芋を食べすぎてしまったの。そのあと友だちに誘われて焼肉まで……。しかも生ニンニクたっぷり……」
「まあ、それは大変」大地は眼を見開いて言った。「もしかしたら、私の出番があるかもしれません」
「出番?」
◆◆◆◆◆
茶室はたった4畳半しかない。
ましてやこの狭い空間に、6人もの人間が、袖が触れるほどひしめき合っているのである。
まかり間違って、この密閉空間でおならをこいてしまったら――例えすかしっ屁であろうと――、臭いは滞留し、手で仰いだぐらいでは到底ごまかしは利かない。むしろそんな小細工をすれば、この4畳半に隈なく拡散させてしまうのがおちである。
誰かが声に出さなくとも、視線を泳がせて犯人捜しがはじまり、場合によっては落ち度のない人間が濡れ衣を着せられるかもしれないのだ。
仮に最悪放屁してしまい、その張本人が特定されたとする。奏自身が指弾を浴びせられるのは、名家忍海家にとって死ぬほど恥ずかしいうえに、家名に傷をつけることになる。
ただでさえ、キャサリン・羽生田はこの茶事を体験した暁には、どこかの雑誌に写真を掲載し、エッセイを載せると言っているのだ。その手前、なおさら奏は粗相するわけにはいかなかった。忍海家どころか日本の恥をさらすことにつながりかねない。