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4.嵐前の静けさ

◆◆◆◆◆


「ちょっと……。双葉ふたばには悪いんだけど、明日の日曜、家で茶事ちゃじ、開くの。さっきも言ったように、ふかし芋食べすぎちゃって、余力はないったら。万が一、お茶の最中に具合でも悪くなったら、場が台無しになるって――」 


「だって、もったいないじゃない。こんな希少部位、いっぱい注文しちゃってて、捨てるのは忍びないって!」


 奏が指定された銀座の焼肉店の個室に通されるなり、双葉は金切り声をあげた。

 すでに近江牛おうみぎゅうのいろんな部位が炭火で焼かれ、じゅうじゅう煙をあげていた。

 双葉はとにかく焼くのに忙しく、かたわらでは快活そうな妹が、せっせと肉をつまんではタレに絡め、口に運んでいるが、見るからに孤軍奮闘である。とてもさばき切れていない。


 大皿には塩タンやサシの入った部位が山盛りになっていた。まるで家畜の餌みたいだ。せっかくの高級焼肉店なのに、いささか下品すぎる盛り方だった。


「どこよ、私以外の助っ人は?」


「それが3人に、すっぽかされたの」と、双葉は半泣きで言った。「どうせ、割り勘する気なんだろって、みんな疑うの。会計はパパがしてくれるからって、いくら言っても信じてくれない。――結局、援護に来てくれたのはかなで、あなただけよ!」


「かんべんしてよ……」


 いくら生まれたときから衣食住に不自由したことのないお嬢さま育ちとはいえ、てんこ盛りにされた近江牛が廃棄されるのはもったいないと思った。タッパーに入れて持ち帰る方法も考えられたが……。彼女らにその選択は眼中になかった。

 せっかくの牛さんの命である、新鮮なうちに食べてやるべきだと、意見が一致した。


 コートを脱ぎ席に着くと、箸を取る前に手を合わせ、いただきます、と合掌。

 双葉が肉を焼き、奏の器に入れてくれる。

 奏はタレに絡め、口に入れてみた。


 恐るべし、近江牛極上カルビ。さすがは最高級の黒毛和種だけある。

 さっきまでの満腹感はどこへやら、俄然食欲が湧いてきた。タレも馥郁ふくいくたる香りと奥深い味わいで、肉との相性が抜群だった。


 わんこそば形式で、双葉が焼けた肉を器に放り込み、奏は食べることに徹する。

 妹は店員を呼んで、生ニンニクのすりおろしと、奏のためにビールの中ジョッキをオーダーした。

 ニンニクをがっつり投入。

 奏にビールで景気づけさせる。

 20歳になってほやほやである。アルコールを口にしたことがない奏は、たちまち酔いがまわった。


 酒が進むにつれ、肉をかっ込む(、、、、)ペースも速くなる。

 近江牛の美味さに奏は飽きることを知らない。

 ビールが3杯目に突入すると、たっぷりの生ニンニクを肉に巻き込んで口に入れた。


 こうして茶事前夜は、静かに更けていった……。 


◆◆◆◆◆


「堅苦しい呼び名はよろしい。ウチ、キャシーって呼んでくれたら、いいね!」


 キャサリン・羽生田はにゅうだは言うと、けらけらと笑った。

 笑うとえくぼがくぼみ、茶目っ気たっぷりの美人であり、フレンドリーな人柄だった。とても35歳とは思えぬほど若々しく魅力的に映った。これで多彩な分野で活躍する批評家なのだから、毒舌家で気難し屋の北大路きたおおじ 魯山人ろさんじんとは天と地の差であろう。


 テレビでよく見かけるあの天然キャラそのままに、キャサリンの整った容姿と、バチッと決めた着物姿の佇まいに、忍海おしみ かなでをはじめ芦川あしかわ 益子ますこ恩田おんだ あおいは、たちまち同性ながら憧れた。


 同時に、3人もこの日のためにとっておきの着物をつけてきたのに、貫禄負けしたと思った。彼女は人間国宝の有名作家によって手がけられた京友禅を完璧に着付け、つややかなブロンドをひっつめ(、、、、)にし、和洋折衷の様式美を体現している。


 みんなは忍海邸の広大な庭の一画にある茶室に入った。

 茶室とは、千利休せんのりきゅうがめざしたちゃの精神が到達した、無駄の省かれた空間である。たった4畳半しかない。


 亭主ていしゅである響三郎きょうさぶろうと正客・キャサリンとの初座しょざのあいさつをすませ、茶事の前半である懐石料理をいただくことになった。


 ヒラメの昆布締めに、合わせ味噌汁には色紙豆腐しきしどうふ。枝豆豆腐、朧玉子(おぼろたまご)、海老とかぶの炊き合わせ、パプリカお浸し、わかさぎの利久焼りきゅうやき。どれも鮮烈な美味しさだった。




「なにを隠そう、私がキャシーと知り合いになれたのはな」と、響三郎は煮物椀に箸をつけながら言った。「彼女の着ている訪問着の作者、人間国宝・羽田はだ 登喜男ときおのお孫さんを通じてなんだ。いやはや、これほどの京友禅の似合う女性は、なかなかお目にかからない。テレビでお笑い芸人とふざけ合っているときの君とは、まったくちがった顔を見せてくれて、むしろ私の方が驚いているぐらいだ」


「へーっ!」


 ほぼ同時に、益子と葵は言った。


「ご紹介にあずかり、アンガト、ございまーす」


「そうそう、君はこの茶事に関して、取材を兼ねているんだったな」


 響三郎が思い出したように尋ねると、キャサリンはさわらの西京焼きに舌鼓を打ちながら、うしろに置いていたスマートフォンを手にした。


「オー、それ、インポータントね。このお茶会を通じて、エッセイ、執筆するつもり。響三郎さま、カメラの撮影もしたいけど、ダイジョーブか?」


「私が主催するお茶の席は、あくまで道楽さ。堅苦しすぎる作法は求めちゃいない。好きなタイミングで撮影なさい」


 さすが女心をつかむのも、昔から長けていた響三郎である。若いころはさぞかし浮名を流したのであろう。白い髭の間から爽やかに歯を見せると、キャサリンの緊張していた肩もほぐれたようだった。


「ウチ、感激ね! ヤルからにゃ日本の文化、しかーり海外の若い女性たちに伝えるよ。そのタメには、自分が美しい作法、しないと酢飯(、、)つかない。たくさん勉強してきたね」


「キャシー、そこは示し、ね」


 すかさず葵が訂正させた。


「シメーシ。オッケー。またひとつ大人の階段、のぼったネ」 


「これはもう、負けてられないわ!」


 益子が隣の席で拳を固めて、鼻息を荒くした。

 

 こうして食事はつつがなく終わった。

 そのあと、菓子の出番となる。

 練りきり・こしあん製の上生菓子じょうなまがし。白地の餡に淡い桃色とかえで色が二分し、上に金箔を散らした一品で、口に含めばたちまちとろけた。


「アハ、おいひ(、、、)!」


 キャサリンが手のひらで口を隠し、素直な感想を述べた。

 菓子をいただいたあと、中立なかだちとなる。いったん茶室の外に出て、腰掛待合こしかけまちあいで待機しなければならない。


 その間、亭主は後座ござの準備に忙しい。

 後座とは茶事の後半部分。そのときに出される濃茶こいちゃこそフランス料理で例えると、コースのメインの料理にあたるのだ。招待された客人たちは、外でしばしの休憩である。亭主から声がかかるまで茶室に入ってはならない決まりなのだ。


 心得のある大地が手伝いを申し出たが、響三郎は固辞した。たった独りで客人をもてなしたいのだという。

 そのため、大地は奏たちと同等の扱いとなり、手持ち無沙汰にしているようだった。ろくに発言する機会すらないのは哀れであった。


 誰もがいおりの屋外に備え付けられた腰掛けに座り、閑静な庭を眺めながら、わびさびに思いを馳せていた。

 かたわらには着物姿の大地 みよ子も伏し目がちに立っている。


 本日はあいにくの雨。

 バランの下草が茂り、こんもりとした植え込みに隠れる石灯篭いしどうろうや、いくつもの飛び石が続く露地ろじは小ぬか雨に濡れていた。それはそれで風情があった。

 しだいに客人たちは打ち解け、キャサリンは娘たちと談笑しながら、スマホのカメラで庭の風景を撮りはじめた。

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