3.早瀬のばあさまのサプライズ
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残すところ今年はあと2カ月。
爽秋の季節のこと、1週間はあれよという間にすぎ、いよいよお茶会を前日に控えていた。楽しいイベントは明日、日曜の11時から15時と長丁場にも及ぶ。
大学から帰ってきて、2階の自室でくつろいでいた奏だった。
壁には着物ハンガーに、新調したばかりの着物が袖を広げた形でかかっている。
濃い紫色とすみれ色のコントラストが大人っぽい友禅染。脚の部分には金彩加工の花筏を浮かべた流水が施されたデザインである。
基本的に部屋に閉じこもっているときまでは、大地 みよ子がべったり張り付いているわけではない。
今日は彼女の定休日だった。
いくら奏の影のようにつきまとってはいても、労働基準法に従わないといけないのだ。わざわざ気を遣ってか、奏のスケジュールになんらかの行事のない日を選んで、休んでいるようだった。
明日の茶の席では大地も同伴する予定だった。これとて他の家政婦とは明らかに待遇が異なる。
ふいに窓の外で、車のエンジン音を耳にした。
読みかけの文庫本にしおりを挟んで立ちあがる。
窓を開け眼下を見ると、ヨーロッパをイメージしたエントランス手前に、見慣れた泥だらけの軽トラックが停まっていた。
運転席から、腰の曲がった作業着姿の老婆がおりてきた。高校球児のように全身泥まみれだ。
目ざとく2階の奏を見つけると、麦わら帽子をふって応えた。えらくエネルギッシュなばあさまである。
「早瀬のおばさん! お元気ですか?」
奏は桟に手をかけて言った。
「おがげさまで、あだしゃ、このどおりピンピンしてるさ。おめも元気でやってだがね? こぢどらまだまだ、先におっ死んじまった旦那のあどを追うつもりは、ありゃせんから!」
と、早瀬のばあさまは言い、背を反らせて呵々大笑した。
「めずらしいじゃありませんか。いつもはアルバイトの方をよこすのに」
「いやなに――常日頃、忍海家ど契約させでもらってる付ぎ合いじゃねえのさ。せめで年に一度は、ごあいさつしに社長の私が行ぐってのが筋ってもんだっぺ? おめんとこの響三郎さんには長年ひいぎにしてもらってっから、こぢらに足向げで眠れねえって。で、こうしてはるばる茨城がら足運んだってわげ」
早瀬は麦わら帽子を泳がせて、優雅にお辞儀した。
そして軽トラの荷台を覆っていたシートをめくった。
色とりどりの野菜や紙袋に入った玄米、ビニール袋に入った漬物や加工品などが現れた。
「いつも、お世話になっています。早瀬さん家のお野菜、どれも美味しいから、私、大ファンですよ! どんな料理にしても見栄えだってします!」
と、奏。それは掛け値なしの本音だった。
採れたての野菜は厳選されて瑞々しく、コシヒカリのうま味にかけては米にうるさい響三郎が惚れ込み、何度も頭さげて、個人宅でありながら特別に契約を結んだほどである。かれこれ30年来の付き合いだった。ちなみにその一等米は、赤坂の高級料亭でも取引されていたから、いかに優秀かわかろう。
「そんなおめに、とっておぎのサプライズ、してやっぺど思ってね。今日はこんなもの、持ってぎだ!」早瀬は荷台のシートをすべてはがし、コンテナに山積みにされた紫色のもの見せた。「ジャジャーン! サツマイモ・コンプリートだ! 昔ながらの鳴門金時をはじめ、紅はるか、シルクスイート、アヤコマチ、ひめあやか、安納こがね……なんでもござれだ!」
「うわあああああっ!」奏は両手を組んでうれしい悲鳴をあげた。「早瀬のおばさん、ちょっと待ってて。今から下におりてくから!」
「あいよ。やっぱりいづの時代も、女子は芋にゃあ、目がねえやな!」
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早瀬からいただいたサツマイモの山は、いくら夕飯前だろうとも食べずにはいられなかった。
奏は厨房のコックに全種類のふかし芋を作らせたのだ。
家政婦の誰もが顔を曇らせるのをよそに、奏はかたっぱしからパクついた。この場に奏御用達の大地 みよ子がいたならば、さすがに咎められただろうが、他の4人なら口出しさせなかった。
ホクホクとした食感がたまらない鳴門金時や紅あずま、紅乙女、アマアカリを食べ比べれば、微妙な風味の差が味わえた。
かたや、しっとりねっとり系の紅はるかやひめあやか、シルクスイートも、それほど噛まないうちに舌の上でほどけて、いくつでも食べられる。
他にも安納芋やフルーツこがね、マロンゴールド、ハロウィンスウィートなど、もはやサツマイモの概念を超えているものも、最後のひとかけらまで楽しむことができた。
いったいどれだけのふかし芋が奏の胃袋におさまったことか。コックや家政婦の誰もが呆れるほどの食欲ぶりを示した。
膨れたお腹をさすりながら、次回こそ、焼き芋にしようと誓う奏であった。
夕方、部屋のベッドに寝っ転がり、余韻にひたっているとき――。
枕元に置いていたスマートフォンが鳴った。
手に取り、ディスプレイを見る。
学習院大学の同級生、京橋 双葉からだった。
友だちの多い奏だったが、とりわけ双葉とは講義やゼミでもいっしょに授業を受け、プライベートでもショッピングや食事する仲だった。たがいの家に泊りに行き、パジャマパーティーを開くこともあった。
ただし、芦川 益子や恩田 葵とは異なり、庶民の出だった。しかしながら奏はこれっぽっちも差別はしなかったし、双葉とて気後れせず、堂々と奏の豪邸に出入りした。
響三郎らのいる手前で、平気で奏の背中をどやすほど物おじしなかったので、奏も遠慮することなく対等に付き合えたのだった。
「もしもし、私だけど。双葉、なにか?」
「あ、奏? もしかして寝てた? 声、寝ぼけてるけど」
「そんなことないと思うよ。なにか用事?」
「単刀直入に言うね」と、双葉は声を張りあげた。どこかの店舗内にいるらしい。電話の向こうには複数の声が入り混じっている。「実はたった今さ、私ん家4人家族で焼肉屋に来てるのよ。正確には、さっきまで家族がそろってたんだけど。――おあいにくさま、奏なんかの富裕層が行くところには、到底及ばないにしても、それなりに高級焼肉店よ。あ、今、店員こっち見た」
「あそう、羨ましい。私ったら今日の夕飯は、芋だけよ」
「芋? ま、話聞いてったら。でさ、せっかく大皿でいろんな部位のお肉、たくさん注文したまではよかったわけよ――これがウチのやり方なのよ!――。ところが、さあこれからお腹いっぱい食べるぞって箸を持ったとたん、パパに緊急の電話が入ってね。それがあんた、実家のおじいちゃん家がたった今、火事になってるっていうの!」
「え」と、奏は声をつまらせた。思わず口から未消化のふかし芋が飛び出しかねないほどだった。「お肉を焼く前に、実家が焼けちゃったの!」
「奏、言うようになったわねー!」
「それでそれで?」
「それで急きょ、焼肉は中断して、可及的速やかにパパとママはタクシー拾って、実家に向かってる最中なわけ。埼玉の端の方だからまだ着いてないと思う。ま、当のおじいちゃんからの連絡で、幸いおばあちゃんも無事だったみたいだから、ひと安心なんだけど」
「せめて、生きてるだけでも不幸中の幸いと思わなきゃね」
「そこでね、お願いがあるの、あなたに」と、双葉はかしこまって言った。「せっかく注文したお肉、今さらキャンセルできないでしょ。私と高校生の妹だけじゃ、とても食べきれないって」
「だからお肉は、ちょっとずつオーダーすべきじゃない。ドジ踏んじゃったわねえ」
「昔からパパのやり方なの! ちまちま焼いては、そのたんびに注文したはいいけど、サッと可及的速やかに運んできてくれないから、待たされるのがヤなんだって。短気は損気って奴よ」
「それで、私に今から来いとおっしゃるの? 私1人が行ったところで、とても助けられないって。だって、さっきふかし芋を食べすぎて――」
「言い訳はけっこう。奏以外にも同級生、あと3人、援護してくれるよう声をかけてるから、大丈夫!」双葉は強引に約束させた。いつもながらの辣腕ぶりである。「ね、早いとこ、奏ん家のお抱え運転手に頼んで駆けつけて。可及的速やかに、すぐ行動! 今から店の場所を言うわ――」