ハッサン・ブルガーニン中佐
ズレヴィナ軍には大きく分けて二つの派閥がある。一つがマクシム・アレクセーエフ陸軍元帥を推すアレクセーエフ派。もう一つは、このエフゲニー・リャビンスキー陸軍元帥を頭目とし、それに付き従うリャビンスキー派だ。
二つの派閥が出来た経緯は、前の人民最高会議議長(国家元首)だったクズネツォフの時代に遡る。
まずはアレクセーエフ派について説明しよう。
クズネツォフが人民最高会議議長に就任した当時、ズレヴィナ軍の内部では腐敗が深刻化していた。
様々な物資の横流しが横行しており、送った物資の一割から二割が途中で失われる事も日常茶飯事。さらに上官が部下を虐げ、士気も極めて低かった。
外から見える軍の規模だけは、エトリオ連邦に比肩しうるものであった。しかし実情はボロボロであり、とても戦える状況では無かった。
その危機的状況を革新するべく、質実剛健と名高いマクシム・アレクセーエフ陸軍上級大将(当時)を責任者とする粛正が強行された。
マクシムは子飼いの部下達や現状を憂う将校達を束ねて改革派を立ち上げ、不正を行う将兵の追放や処罰――暗殺を含む――を行った。
期間は三年に及び、腐敗をほぼ一掃することに成功した。
反対派も頑強に抵抗し、改革派にも少なくない犠牲が出た。その中でマクシムは、反対派のテロによって両親と息子を失い、自身も二度負傷していた。
粛正に協力した将兵達は功績が認められ、そのほとんどが昇進した。マクシムが元帥に昇進したのはこの時であった。
アレクセーエフ派は、この時粛正に参加した将兵達が母体となり、マクシムを担ぎ出して出来た派閥だ。
余談だが、マクシムに昇進の通知が届いた時に「犯罪者とは言え、仲間を殺して元帥に昇進するなど、恥知らずにも程がある」と固辞しようとした。しかし周囲から、「それでは他の者達も昇進できなくなる」と諭され、渋々承諾した経緯があった。
もう一つのリャビンスキー派は、アレクセーエフ派よりも歴史は長い。
リャビンスキー家は、ズレヴィナ共和国の建国に関わった名家の一つで、国の様々な要職に人材を輩出している。
軍の派閥としては建国前の帝国時代まで遡り、エフゲニー・リャビンスキーは、それを引き継いでいた。マクシムより六歳年長の六十四歳。元帥になったのも、マクシムより四年早かった。
軍では“長老”とも呼ばれている。物資の横流しや一部士官への便宜で、莫大な財を得たと噂されていた。しかし、極めて慎重深い性格と優れた政治手腕により、マクシムの粛正をお咎め無し(証拠不十分)で乗り切っていた。
一時期は派閥を失いかけた。だが、クズネツォフが失脚し、従兄弟のスタニスラフ・リャビンスキーがその座に着いてからは、勢力を取り戻しつつある。
第二次扶桑海海戦での大敗の後、政府首脳部はアレクセーエフ元帥、そして海軍南海艦隊司令官のアルトゥール・ミハイロフ中将を罷免した。アレクセーエフ元帥のシンパへの影響を鑑み、表向きは体調不良による解任という事になっている。
新たに総司令官に就任したのは、ヴルモダード・ワルデネフ陸軍上級大将。ズレヴィナ軍参謀総長、エフゲニー・リャビンスキー陸軍元帥の腹心の一人である。
彼は就任後、手始めに参謀本部の人員入れ替えと引き継ぎを行った。また、リャビンスキー元帥の指示で、扶桑国入りしているアレクセーエフ派の旅団とリャビンスキー派の旅団の入れ替えも、同時に開始した。
参謀本部の引き継ぎは、二週間ほどで終わらせた。ワルデネフ上級大将とその参謀達も、今まで周辺諸国に侵攻した経験があるため、ある程度は慣れている。しかし、今回は開戦から侵攻に関わったのではなく、途中からの参加だ。現地の状況把握にはまだ時間が必要となる。
そこでワルデネフ上級大将は、総司令部を黒崎島の端にある大都市、笛崎市に移していた。
マクシム・アレクセーエフ元帥は国外に出る事を禁止されていた。開戦前から戦争に反対していた事が一つの要因であり、未だ軍への力を持つマクシムを、目の届く国内に置いておきたかったのだ。
しかしワルデネフ上級大将にその制約は無い。
目下の課題は、部隊の再編成である。現在、黒崎島に展開している旅団の大半は、アレクセーエフ派の将軍が指揮するものである。それをリャビンスキー派の将軍の旅団と入れ替えるのだ。
目下リャビンスキー元帥は、自らの派閥の勢力を回復する事に力を注いでいる。その為には派閥の将軍達に功績を積ませなければならない。ワルデネフ上級大将自身も周辺国への侵攻によって昇進した身であり、派閥強化の為には当然の事として受け入れていた。
入れ替えは十二個旅団にも上る。人員だけではなく、車両や装備、物資なども入れると労力は桁違いに増える。輸送艦は元より、民間の船舶も多数徴発して、行きは扶桑国に向かう部隊、帰りは引き上げの部隊と、休みなく大陸と黒崎島の間を往復させている。
他にも戦費圧縮のため、友好国――実質的に属国――であるユルカシュ人民共和国にも派兵を要請し、四個師団の派兵が決定していた。兵を出せない他の友好国には、戦費の供出を依頼している。
入れ替え完了予定は、スムーズに進んで一ヶ月と見ている。
ワルデネフ上級大将は、執務室で先日手に入れた“品々”を前に、笑みを浮かべていた。
応接用のローテーブルに並んでいるのは、象嵌細工の箱、磁器、太刀、仏像といった物で、そのいくつかは扶桑国の重要文化財である。つい先日、笛崎市の博物館に出向き入手してきた物だ。
白い手袋を履いた手で一つ一つ慎重に持ち上げては、丹念に確認してゆく。ワルデネフ上級大将曰く、“ささやかな趣味”である。
彼は文化財の蒐集家であり、これまでも侵攻した国々の博物館などに出向いては、お気に入りの品々をかき集めていた。本国の自宅には数百点もの文化財が保管されている。
大抵、博物館の館長や職員は抵抗を見せる。だが、随行員が銃をちらつかせれば大人しくなるし、もしそれでもダメなら、数人の脚を撃ち抜いて黙らせてきた。
扶桑国に渡ったのは、コレクションを増やす事も目的にある。特に島国である扶桑国は大陸とは異なる文化を持ち、これまで関心を寄せていた。
今回、博物館の館長は協力的であった。ワルデネフ上級大将が要求を伝えると、館長は考え込んだ後に承諾の意思を見せ、代わりに「渡す品物は大切に取り扱う事」と「収蔵品の略奪を防ぐため、治安維持と将兵達の綱紀粛正に努めて欲しい」と要請してきた。ワルデネフ上級大将は快諾し、取り引きは成立したのであった。
壁に取り付けられたモニターからチャイムが鳴り、副官の一人、ハッサン・ブルガーニン中佐の到着を告げる。
ワルデネフ上級大将は手にしていた磁器を丁寧に箱に戻してから、執務机に戻り腰を下ろす。
執務室に通すよう指示してから数十秒後、入り口のドアをノックする音が聞こえてくる。
「入れ」
ブルガーニン中佐が入ってくると、ワルデネフ上級大将の前で敬礼をする。弱冠三十歳の俊英であり、ワルデネフ上級大将が目をかけている士官の一人だ。細身の外見ながら鍛え上げた筋肉を纏った美男子で、モデルのようにも見える。事実、女性士官からの人気が非常に高かった。
ワルデネフ上級大将が答礼を返す。
「どうした?」
「参謀本部に上申しておりました件、全て許可が下りました」
侵攻軍総司令部は、次の大規模侵攻に際し、運用開始されたばかりの新兵器群の配備を求めていた。今回それが認められたのだ。
ブルガーニン中佐が端末を操作すると、机にあるスクリーンが切り替わり、参謀本部からの書類が表示される。
「よろしい。……だが、問題は数と使い方だ。新しい種類の兵器だから、様々な可能性を検討するように」
「はっ。了解いたしました」
一礼をすると、ブルガーニン中佐は執務室を辞する。無人の廊下を歩く彼の表情は、ワルデネフ上級大将と対面していた時の実直なものと異なり、野心に彩られていた。
軍士官学校を首席で卒業したブルガーニン中佐は、野心があっても自らの能力を活かす機会に恵まれず、悶々とした日々を過ごしていた。
それから数年後、スタニスラス・リャビンスキーが国家元首となると、祖国は勢力拡大へと大きく舵を切った。エトリオ連邦に比肩する巨大な軍事力と経済力を頼りに、周辺国への経済的、軍事的圧力を強めていった。
いくつかの国では、反政府勢力に武器と資金を提供してクーデターを起こさせ、親ズレヴィナ政権を樹立した。
またいくつかの国では、様々な理由を付けて武力侵攻を行い、傀儡政権を打ち立てた。
極東からのエトリオ軍が去った事が強い追い風となり、野心は加速した。
ブルガーニン中佐は、そのいくつかの武力侵攻の作戦立案に携わった。その作戦ではいつも頭の中で描いた通り完璧に部隊が動き、期待通り敵を打ち破る事が出来た。
自らの考えた通りに事が進む快感たるや、万能感とも呼べるものであった。
あまりにも考えた通りに事が運ぶ事から、当時の上官あった司令官や幕僚達からも賞賛を浴び、自信を深めていった。
この功績を買われてワルデネフ上級大将の元に来てから二年あまり。ついに扶桑国侵攻という大舞台で力を振るう機会が巡ってきたことに感謝してさえいる。ただ惜しむらくは、開戦時から関われなかった事だ。
(開戦時から私が関わっていれば、今頃はこの国の首都に祖国の旗が立っていたものを……。いささか状況は良くないが、俺の力でこの戦争に勝利してみせる!)
今はただ、この機会を利用して出世し、参謀本部に入る足がかりとする事。それが、ブルガーニン中佐の野望であった。




