長門双葉の朝
朝、妹の三奈と共に出勤した長門双葉は、三奈と別れた後、自分の所属する部署へと向かっていた。長い廊下と幾つかのセキュリティゲートをくぐり、目的の部屋へと辿り着く。
扉の横にある認証装置に手のひらを当ててから、壁に埋め込まれているスキャナーに顔を近づけ、虹彩を読み取らせる。
正常に認証を終えて扉が開くと、入り口近くの応接スペースで、数人の職員――部下が談笑しているのが見えた。
「みなさん、おはようございます」
「室長、おはようございます」
「あ、おはようございます」
双葉は、この部署の長である。ここでは主に、≪タロス≫や≪アトラス≫そして空軍のドローンなどの制御プログラムやアルゴリズムを開発している。必然的に、兄の一彰共々、グリフォン中隊との関わりが深い。
部下の年齢層は、二十二歳の双葉より年上が圧倒的に多く、上は四十代から下は十八歳の新人まで。男女比は七対三で、男性の割合が高い。
「休暇の打ち合わせですか?」
「まあ、そんな所です」
「折角の休暇ですけど、今のご時世、旅行できないのが残念ですよ」
しばらくは、≪タロス≫のコントロールプログラムのアップデート作業でてんてこ舞いだった。それが先日、ようやく一段落付いたのだ。
仕事の切れ間となる今、全員が交代で、最低十日間の休暇を取得している所だ。そのため、室内にはいつもの半分程しかいない。
「副所長は昨日、前線から帰ってきたそうですね」
副所長とは、兄の一彰のことだ。ちなみに所長は、父の彰利。
「グリフォン中隊の“あの人”も来ているそうですよ」
「ええ、知っていますよ。妹が昨日から家に泊まっていますから。それに、午後から打ち合わせの予定です」
「おっ、頑張ってくださいね!」
二十代後半の女性職員が、ニンマリ顔で意味深なエールを送ってくる。この職員は最近結婚したばかりで、のろけ話が多い。だから恋愛話は怖い物なしである。
「う、打ち合わせを頑張りますよ」
「タダでもライバル多いのに、そんな事言っていると、取られちゃいますよ」
「私は別に、何とも思っていませんから……!」
双葉はそう言いながらも、顔が火照っていくのを感じる。隠しているつもりが、全くの逆効果であった。
バツの悪くなった双葉は踵を返すと、そそくさと自分の部屋へと向かう。
室内は、パソコンの並んだオフィス然とした光景とは全く異なり、ガラス張りの個室が並ぶ。
ガラス壁はプライバシー保護のため、内部からボタン一つで透明、半透明を切り替える事が可能だ。
個室の中には、通称≪玉座≫と呼ばれる巨大なシートが鎮座する。
シートは飛行機のファーストクラスよりも高機能な造りで、リクライニングやオットマンが完備されており、座り心地は抜群。さらに夏場は蒸れを防ぐベンチレーション、冬の寒さを和らげるヒーターも完備している。まさに“至れり尽くせり”だ。
シートにはアームが三本生えている。一つ目は小物や私物を置くテーブル。二つ目はキーボード等の入力装置を載せたテーブル。最後は、頭に被せるHMDユニットが付いている。
HMDユニットは、≪タロス≫をコントロールする際に被るヘルメット形状とは異なり、美容院で見かけるスタンド式ドライヤーに近い。
常に快適に作業が出来るようにと、研究所が開発した環境である。通常のパソコンとスクリーンの並ぶ環境と比べ、圧倒的な快適性と操作性を持つ。
この環境の本当の目玉は、≪タロス≫のコントロールと同じ機構――≪メーティス・システム≫――が組み込まれているところだ。すなわち、ナノマシンを介しての入出力機能を備える。入力はキーボードやマウスを使用するのでは無く、意識で。出力はHMDやスピーカーに出力するのではなく、直接脳へ。このモードを≪タロス≫のコントロール同様に「直接操作モード」と呼んでいる。
旧来のキーボードやマウスを使ったインターフェースよりも、この環境で操作する方が、ほとんどの場合において生産性が向上する結果が出ている。
作業者の資質と慣れに大きく依存する欠点はある。だが多くの場合は、慣れると三倍以上の作業効率が確認されている。
一言で表すなら、「寝ながら仕事が出来る」環境である。口さがない職員は、このシートを「ダメ人間製造機」と呼んでいるが、双葉もその意見に同意している。仕事中、食事やトイレに行く時以外、ずっとこのシートに座っているからだ。
ズボラな双葉はさらに、トイレ機能も完備して欲しいとさえ考えている。現に、≪玉座≫の開発時に提案していた。しかしコストが(さらに)跳ね上がる事、一彰から「もし何かあって人が入ってきたら、大切なものを色々失うぞ」という言葉に、考えを改めるしかなかった。
≪玉座≫はまだ外部には公開しておらず、研究所と統合機動部隊の本拠地である鈴谷基地、それに前線の由良基地にしか置いていない。≪メーティス・システム≫自体が機密の塊であることと、使用するにはナノマシン≪アメノサグメ≫の投与が必要なためだ。
ちなみに、職員の中でこの環境を一番使いこなしているのは双葉である。通常の操作方法を一人分とすれば、平均で約十六人分もの作業をこなしている。
次点は一彰で、約十二人分。優れた職員でも三、四人分が関の山と言う中で、双葉がいかに桁外れの能力を持っているかが分かるだろう。
「十六人分の作業をしても、給料は八人分だけどな。それでも親父より多い」
直也が研究所にいた頃、一彰と二人で話した時の言葉だ。
研究所は最先端の研究を行っている事もあり、平均給料は高い。ケチって民間や海外に人材を流出させるわけにいかないからだ。そんな高給取りの八人分は、プロスポーツ選手の報酬にも匹敵する。
一彰は直也に、「金持ちだぞ。嫁にどうだ?」と耳打ちしていたが、「そういう基準では決めませんよ」と、笑って受け流していた。
室内に九:〇〇の始業時間を知らせるチャイムが鳴る。
双葉は座っているシートのボタンを操作して個室のドアをロックすると、ガラスを不透過に切り替える。
直接操作モード中は、外界に対して完全に無防備となる。なのでプライバシーを守るために、それぞれの個室はドアロックとガラスの不透明化が出来るようになっている。
続いて、電動リクライニングを倒してからHMDユニットを被る。
HMDに様々な情報が表示されたのも束の間、すぐに直接操作モードへと切り替えて瞳を閉じる。
このHMDユニットは、ただのモニターとして使う事も可能だ。
双葉はHMDを使用せず、直接操作モードしか使用しない。だがHMDユニットは体内のナノマシンと通信する送受信機も兼ねているため、被る必要がある。
一秒足らずでリンクに成功し、HMDよりも更に鮮明な文字と図が脳裏に浮かぶ。
部下達も次々とログインし、いつも通り朝のオンラインミーティングが始まった。その傍ら、今日の予定を確認していく。
(午後から直也君と会うし、午前は早めに切り上げて準備しないと……)
部下達の会話を聞きながら、ウキウキした気分で、今日、そして数日後の予定を考える。
一彰から「次の直也のメンテナンスを、ここ(研究所)でやる事にする」と言われたのは先月の事だった。
直也が統合機動部隊に異動した後も、リモート会議でカメラ越しに顔を合わせていたし、プライベートでも時々メッセージのやり取りはしていた。ほとんどが≪タロス≫に関するものではあったが、雑談がてら、近況を伝え合う事もあった。意中の人とのやり取りは、とても心が躍る一時だった。
そんな“恋する乙女”の双葉にとって、直接顔を合わせる機会を逃す事などあり得ない。
そして気付いた。
直也が来るまでに、仕事を終わらせる。
タイミングを合わせて休暇を取る。
直也と一緒にいられる!
二人の関係が発展する!!!
考えつくと、いても立ってもいられない。ものの数分で計画を立てると、極めて個人的な理由の為に、≪タロス≫の制御プログラムの更新日程を、半月前倒したのだった。
突然の日程変更に、部下達全員からは猛反対の声が上がった。
双葉の部署では、別の部署から請け負った複数のプロジェクトも同時に動いているため、あまり余裕は無い。そんな状況で予定を早めるなど不可能という、当然の反論だ。人によっては「正気の沙汰では無い」という声さえ上がった。
だが双葉は、驚異的な行動力を発揮して全員を納得させた。
二十人近い部下達が抱える、いくつものプロジェクトに優先順位を付け、依頼元の部署と日程調整を済ませた。
所長と副所長に掛け合い、作業終了後に十日間の休暇取得を(強引に)認めさせた。
開発日程の調整と、部下達へのタスク割り振りを行った。それでも足りないリソースは、双葉自身が請け負う事にした。
「これで開発の前倒しは出来ますよね?」
翌日、朝のミーティングで部下達に問いかけると、誰もが一様に言葉を失った。
まさかたった一日で、逆立ちしても不可能と考えていた日程前倒しが、現実的になっていたのだ。こうまで完璧にお膳立てをされてしまうと、部下達に否と言えようはずも無い。
普段はおっとりのほほんとしながらも、しっかりと数人分の仕事をこなす年下の上司。それが部下達の共通認識だった。しかしそんな彼女が本気を出せば、不可能を可能にする。全員が畏敬の念を覚えずにいられなかった。
『『イエス、マム!!』』
だから、こう返答した部下(特に男性)が多数いた事は、ある意味当然だったかもしれない。
そういう経緯で、それなりに残業をしながらも、優秀な部下達と双葉は、予定通り開発を終える事が出来たのだった。
『……となります。室長、宜しいですか?』
「はい、問題ありません」
直也のことに思いを馳せながら、ミーティングの内容もしっかり把握している。
聞こえてくる声、そして自らの声は口で発したものではなく、思考そのものだ。
今は≪タロス≫のアップデートプログラムが一段落つき、部下達もリラックスした様子だ。十八人のうち七人が休暇中である。
この≪メーティス・システム≫は本当に素晴らしい。通常であれば頭に思い描いた文字列なりイメージは、キーボードやマウス、ペンタブレット等を駆使して入力しなければならない。しかしこのモードであれば、考えた内容がその通りに入力されるのだ。キー入力を間違える事も、イメージと作り上げた物が一致しないという事態も起こらないのだから。
意識で対象をコントロールする≪メーティス・システム≫。≪タロス≫用に開発していたこのシステムを、パソコン操作にも適用出来ないかと考え、作り上げたのは双葉を含む数名だった。
複数の作業を並列処理できる双葉にとって、旧来の入力方法は大きなボトルネックだった。頭では幾つものタスクや事柄が浮かんでいても、キーボードやマウスと言った入力装置では一つずつしか処理出来ない。これは耐えがたいストレスとなっていた。
しかしこのシステムではこのボトルネックが存在しないため、全くストレスが溜まらない。これが、双葉が開発に当たって一番注力した点であり、同時に満足している点だ。
その反面、欠点もある。一定以上の集中力が必要であり、その上雑念が入るとそれすらもダイレクトに入力されてしまう。一言で表すと「思考のダダ漏れ」である。特に慣れないうちは、失敗しやすいらしい。
“らしい”と言うのは、双葉は開発者であり、自分に合わせて開発したため、失敗らしい失敗をしていないからだ。
「書き込みたい」思いながら内容を浮かべれば書き込めるし、雑念は「書き込みたい」と思わなければ良い。少し練習すれば慣れると思っていた。
開発当初、部下や他の職員達はこの制御に苦心していた。意図しない内容を書き込んでしまったり、逆に書き込みたいのに出来ないと言った具合に、思うように制御出来ないでいた。
だが兄の一彰や、≪タロス≫で同じシステムを使いこなしている直也達はすぐにコツを掴んで使い始め、すぐに利便性を理解するようになった。
また、システムの改良によって他の者達も容易に使いこなすことが可能となり、研究所内の多くの場所に採用された。
そういえば、このシステムを見学に来た外部の人間から、「ただ寝ているだけで金をもらえて羨ましい」と嫌みを言われたことがあった。
確かに外から見ると、豪華な椅子に目を瞑り座ったまま、身じろぎ一つしないのだから、寝ているようにしか見えないのは事実だ。
だけれど頭は常時フル回転しているから疲れるし、眠くなる暇など無いのだ。
「休暇中のメンバーに問題無く引き継ぎ出来るように、準備をお願いします」
最後は双葉が締めくくり、ミーティングは終了となる。
昨日部下達が書き上げたソースコード用に、双葉が八個のウインドウでテストコードを同時に書き上げていく。ついでに新人のソースコードを確認していく。
(む。これは……)
新人は、今年四月に研究所に入ったばかり。今は五月初旬で、全体の研修が終わってから、双葉の下に来て二週間と経っていない。
十八歳の細身な少年だ。元々プログラミングが得意で、初日はここの設備を見て目を輝かせていた事を思い出す。部下達、そして双葉の目から見ても、将来の有望株と考えている。
慣れるまでは無理に直接操作モードを使わずに、キーボード入力でも良いと説明している。だが、好奇心が大きく勝っていたようでガンガン使っていた。見ていたソースコードも、直接操作モードで作成したものだが……。
『昼は牛丼とカツ丼、どちらにしようか? いやしかし、定食も捨てがたい』
唐突に、ソースコードこの一文が現れた。きっと、書いていたのは昨日の昼食前だったのだろう。
(コメントアウトしてあるから、テストでは引っかから無かった、と)
直接操作モードに慣れる前は時々見かける、些細な“事故”だ。実害は無いから、指摘する必要も無いだろうと考える。
(親子丼もオススメだよ)
心の中で独りごちる。
既に食堂のメニューは全制覇し、裏メニューにも手を出している双葉。料理が出来ない双葉には生命線とも言える場所である。一部から“食堂のヌシ”と呼ばれていることは、本人は知らない。
“食堂のヌシ”。カッコイイ響きでは無いが。
ここの料理人は腕が良いのでハズレは無い。その中でも、親子丼のトロトロ卵がお気に入りだった。
並列で作り上げたテストコードを実行しながら、彼の書いた別のソースコードを開いて確認していく。
読み進めていくと、手……、ではなく、思考が停止した。
『この部署に入れて、本当に良かった。
周りの人たちもとても優しいし、室長は美人だし。
室長は、いつもはおおらかでポワッとした雰囲気だけれど、周囲にちゃんと気を配っている。“包容力のある癒やし系”か。
ポッチャリ気味の体型と、大きな胸がマッチして素晴らしい。
抱きしめられたい。マジでギュッとされたい。
ところで、彼氏はいるのだろうか……?』
削除。
削除ったら削除。
(あー、もう! ちょっと思考が漏れすぎ! ……今のうちに指摘しないと!)
双葉を褒めている(?)ようだが、思考ダダ漏れの癖が付く事は、彼にとって非常にマイナスだ。しかし、この内容で指摘すると、凹むことは確実。
とりあえず、“牛丼とカツ丼”で悩んでいるソースコードを使って指摘しておく。このコメントにも気付いて、慌てふためく事は疑いないけれど。
しかし気付かないふりをするのが、優しさというものだろう。たぶん。
メッセージを送って数秒後、新人君から『ご指摘ありがとうございます。気をつけます』と返信が来た。
更に一分後、突然新人君のリンクが切れた。あのコメントに気付いて、激しく動揺したに違い無い。
(まあ。仕方ないか)
直接操作モードは、感情の起伏にも大きく左右される。自分のように慣れていなければ、少しの動揺でリンク切断する事もあるのだ。
さらに数十秒後、またメッセージが来た。
『すいません! 他にも変なこと書いてあるかもしれないので、ソースの確認を待ってください! 絶対に見ないでください!!』
あのコメントを読ませまいと、キーボードで必死に入力したのだろう。並々ならぬ危機感が感じられる。
(既に手遅れだけれど)
別に単なる部下が、何を考えようが気にしない。それが大人というものだ。……四歳しか違わないが。
素知らぬ振りで「了解。更新しておいてね」と返事を出し、自らの作業に戻る。
明日まで仕事をした後は、待ちに待った十日間の休暇だ。
聞いている直也の予定は、明後日まで研究所でメンテナンスや色々な作業。その後四日間が休暇だ。しかし最終日は、夕方に前線に戻るため、実質は三日半程度となる。
当初、直也と二人きりで出かけようとしたが、直也から「休暇の予定は、彩が決めているので……」と言われてしまった。仕方なく彩華に直也の予定を聞いたところ、全て埋まっていると言われ、自分も参加したいと頼み込んだのだった。
その彩華から、昨夜、休暇初日の予定が来た。直也達と水族館に行った後、予約しているレストランで会食をするそうだ。参加する直也、あけみ、彩華は同じ隊で、自分だけ研究所所属でアウェーな感じがするため、妹の三奈にも同伴を依頼している。
直也と行動する約束を取りつけてから、脳内で様々なシミュレーションを繰り返した。百通り以上のパターンを検討し、気付いた事があった。
(もしかすると直也との仲に進展があって、家に呼ぶ事になるかもしれない)
このパターンは可能性が低いものの、無視すべきではない。
そこで、極めて重大な問題に気付いた。
家の中は“あまり”綺麗では無い。家事が滞りがちなのだ。だから、直也を家に招くためには、まず大掃除が必要不可欠だ。
普段は、部屋に脱いだ服や下着が散らかっていたり、台所に洗っていない食器が積み上がっていたり、洗濯機から洗っていない洗濯物が溢れていたり、出し忘れたゴミ袋が、部屋の隅に積まれていたりとか、“その程度”の事だ。
それも、昨日帰ってきたばかりの三奈が、少し片付けてくれた。作業中の三奈は、目から光が消え失せ、無言で、淡々と、機械的に動いていたように見えた。本当に、良く出来た妹である。
あと二日あれば、双葉だけでも家の片付けは出来るだろう。目的さえあれば、ちゃんと出来る子なのだから。
明日からの予定を考えながらも、自分の作業をしっかりこなしていく双葉であった。




