トラブル
遠く離れたグリーンウッド領から、馬車に揺られること計四日。
早くも胸の内に飛来する郷愁の想いを振り切って、私はセレスティア王立学院にやって参りました。
懇意にしている貴族家の別邸だという下宿先の部屋に僅かな荷物を運び込み、初めて女性としてグリーンウッド家の者ではない誰かと接したのがつい昨晩のこと。喜んでいいのか悲しんでいいのか……対応して頂いたメイドさんには全く怪しまれることはありませんでした。
まあ……まさか目の前の女性が実は男性じゃないか、なんて考える方はいないでしょうが。
しかし、この数ヶ月メイシアさんに淑女の何たるかをみっちり叩き込まれたとは言え、私の心にはまだまだ不安が付き纏っていました。
…………だってそうでしょう!?
こんなひらひらしたスカートを履いて、落ち着く訳がないじゃありませんか!
いくら丈が膝下まであるとはいえ、少し風が吹けば私の人生はお終いですことよ!?
…………あれ、ですことよって正しい言葉遣いでしたっけ?
自信はありませんが、何かおかしいような…………?
とは言えセレスティア王立学院の制服はしっかりとした生地を使用しているので、風に吹かれてスカートが逆さになるといった事態はそうそう起こらないでしょう。もしそうなった際は前だけは何としても隠します。その為の練習も致しました。風の代わりにスカートを捲る役をして頂いたメイシアさんがやけに張り切っていたのを、昨日のことのように思い出せます。
メイド服の女性が女装した男のスカートを捲り、それを必死に抑える……という傍から見れば滑稽なその練習の結果、後ろだけであれば絵的には何とか誤魔化せるのではないかという結論がお上から発せられました。
とても可愛らしいお尻をしていらっしゃいますね、とはメイシアさん談。
要は、そういった決定的なものさえ見られなければまず露見しないだろうと結論付けられるほどに、私の女装は完璧らしいのです。あの鉄面皮のお父様ですら、フル装備の私を見て目を丸くしていらっしゃいました。
だから、普通にしていれば大丈夫だとは思うのですが。
それでも不安なものは不安で。
そもそも、男が女装をして人前で普通にしていることのハードルが高い気がします。私は好き好んでやっている訳ではありませんし。
…………とは言え、他の誰でもないマールの為ですから。
精一杯頑張ろうと私は思うのです。
「…………あ」
そんなことを考えながら歩いていると、目の前にとても豪奢な門が姿を現しました。
大きな石造りのその校門は、これでもかと言わんばかりに意匠が散りばめられていて、花、天使、戦乙女、王冠、剣などがとても精緻に彫り上げられています。聞けば、セレスティア王立学院創立の頃から生徒たちを見守り続けているとのこと。
────この門をくぐることがセレスティア王国ないしはその周辺国において、どれだけのステータスであるのか。
それを考えると、俄に身が震えます。若干下半身の風通しがいい事も影響しているかもしれません。
「…………よし!」
一つ気合を入れると、私はしっかりと石畳を踏みしめました。
◆
セレスティア王立学院は敷地がとても広いため、門をくぐってもすぐに校舎があるわけではありませんでした。地図によると五分ほど歩かなければいけないようです。私は歩くのが好きですから寧ろ望む所でしたが、面倒くさがりのマールは嫌がるかもしれませんね。
周りを見渡せば、ちらほらと歩いている生徒がいます。緊張が顔に張り付いている所から察するに、私と同じ新入生でしょうか。
その強張った視線が時折こちらに向けられている気がして、私は静かに周りに目を走らせました。
「…………?」
それは気の所為ではなく、どうやら私は周りの方々から視線を集めているようでした。
まさか女装がバレたのかと思い慌てて制服を見直してみますが、特におかしい所は見当たりません。メイシアさんの言葉を信じるのならば私の女装は完璧なはずなのですが。
私の特異な事情を抜きにしても、ジロジロと見られるのは決して気持ちのいいものではありません。
出来れば辞めて頂きたいのですが…………悲しいことに私には原因が思い当たらず、だからと言ってその理由を直接誰かに聞ける勇気の持ち合わせもありませんでした。
つまり、我慢するしかありません。
極力意識を目線の先、進行方向のみに向け私は歩を進めました。道の端に等間隔で植え付けられているセレスティアサクラはセレスティア王国の国樹であり、田舎町の出身とはいえ一応セレスティア王国の一員である私は少し心が安らぎました。
「…………ん?」
周りの目が気にならなくなる不思議な力、セレスティアサクラ・パワーを一心に集めながら歩いていると、ありえないものが私の目に飛び込んできました。
────なんと、私の守護樹木であるセレスティアサクラに一人の女子生徒がよじ登っているではありませんか!
ここは私の故郷であるド田舎のグリーンウッド領ではなく、かの有名なセレスティア王立学院なのですよ?
通っているご子息ご令嬢は皆一流の貴族家のご出身ばかり。木登りなんて朝飯前よ────などという腕白令嬢がいるはずがありません。どうやら私の眼球は齢十五にして故障してしまったらしいです。ああおいたわしや。
女子生徒が登っている木の元には人だかりこそ出来ていないものの、彼女は明確に注目を浴びていました。
丁度進行方向でしたので私も近寄りながら視線を向けていると…………なるほど、彼女の目的が分かってきました。
彼女の目線の先、地上三メートル程の枝の先に小さなセレスティアキャットが体を縮こまらせていました。彼女は降りられなくなった子猫を助けようとしているのでしょう。
しかし、困ったことに子猫が乗っている枝はとても人間は乗れる太さには見えません。彼女もそれが分かっているのか、木にしがみついて枝先の猫に呼びかけることしか出来ていないようでした。
…………何にせよ、危ないことには違いありません。直ぐに辞めさせるべきでしょう。
そう決心し彼女の元へ歩を進めたその時、再三に渡る呼びかけに応じたのか猫がとてとて……と枝元の方へ歩き出しました。彼女はそれに気が付き必死に腕を伸ばします。やがて猫が彼女の手元に収まろうとしたその時、ミシ……という嫌な音が私の耳朶を叩きました。
「────危ない!」
自分が女性だ、という事は一瞬で脳内から飛んでいき、私は気が付けば全力で駆けていました。
彼女が足をかけていた枝が折れ、彼女が腕の中の猫に意識をとられてロクに反応も出来ず落下していく様がスローモーションのように私の脳内を駆け巡っていきます。
「届いてっ!」
落下していく彼女と石畳の間に体を滑り込ませるように、私は仰向けに反転しながら思い切り飛びました。