悪役令嬢ですか?
セレスティア王立学院内のカフェは誰でも利用できる訳ではない。
各国の公爵家以上だけが利用出来る権利を持ち、学院の規模に反して決して大きくないそのカフェは、主に聞かれたくない話をする際に利用されてきた。
「マール? 誰それ」
セレスティア公爵序列第二位・ギムレー家の一人娘マリー・ド・ギムレーは、会話相手に視線を向けることもなく、その金色の長い髪を指で梳きながら聞き返した。マリーのその仕草が、機嫌が悪い時のそれであることを心得ているセレスティア王立学院一年・ジョゼット・フォン・スヴェーリエは背筋を伸ばし、一層気を引き締めた。
伯爵家の生まれであるジョゼットにとって、学院の三年生であり公爵令嬢────それも第二位だ────でもあるマリーは正に天の上の人物と言っても大げさではなく、スヴェーリエ家の主な商いである造船業の一番のお得意様でもあるギムレー家の御令嬢とあっては、まだ王族であるアラン様の方が失礼を働きやすいほどであった。
ジョゼットはマリーと昔からの知り合いであったが、その辺りの事情は幼い頃から両親にきつく言い付けられていた為、仲のいいお姉ちゃんというよりは、決して逆らえぬ上司のように感じていた。
「私の、クラスメイトなのですが。フルネームはマール・フォン・グリーンウッド。御存知ないでしょうか」
「グリーンウッド? それって確か、どこかの子爵じゃなかったっけ」
マリーは相変わらず指で髪を梳かしながら、記憶を掘り返す。確かそんな名前の子爵がいたような。子爵の名前などいちいち覚えていないから自信はないが。目の前にいるジョゼットの家名すら、マリーは怪しかった。
「確か、子爵令嬢だと言っていた気がします。どうして学院にいるのかは分かりませんが」
「そ。で、それが何なのよ」
マリーの印象では、ジョゼットは無駄話をするタイプではない。どうしてその、どこぞの子爵令嬢の事をカフェを利用してまでわざわざ話すのか、それが分からなかった。
ジョゼットはこの先の言葉を言うか言うまいか、少しだけ逡巡し、ここまで来たら引き返せぬと覚悟を決め口を開いた。
「────アラン様が、どうやら気に入っているようなのです」
髪を梳くマリーの手が、止まった。
カフェに入って初めてマリーはジョゼットに視線を向ける。ジョゼットは気圧され、顔を僅かに強張らせた。
「本当なの、それ」
まるで刃物のようなマリーの視線は、そのままアランへの気持ちの現れでもあった。
「はい…………アラン様は放課後、もう二度もマールを訪ねて来ています」
公爵序列第一位のローレンティア家には令嬢はおらず、つまり今セレスティア王国で最も爵位の高い貴族家の令嬢はマリーだった。マリーは学院を卒業したらアランと結婚するものだと思っていたし、許嫁でこそ無いものの、幼い頃からそういう話は何度もあった。物心ついた頃から社交界で何度も顔を合わせてきて、少なくともお互い嫌い合っている訳ではないのは実感としてあったし、セレスティア学院で、そして同じ教室で二年間過ごしてきて、マリーはよりアランとの未来を想像するようになった。それはもうすぐ現実になるはずだった。
「…………ジョゼ。暫くそのマールって子を見張ってなさい。何かあればすぐ私に伝えること。いいわね」
マール?
…………どこぞの子爵令嬢だか知らないけれど、そんな田舎者に私の幸せを侵されて堪るものか。
マリーの心の内で今まさにドス黒い炎がメラメラと燃え盛っていくのが、付き合いの長いジョゼットには、自分の事のように分かるのだった。
◆
晴れやかな青い空は、まるで私の心を写しているよう。
そう、例え教室で浮きに浮きまくっていても、私は学院に通うのが楽しくて堪らないです。
「フラウさん、遅いですよ! もっとキビキビ歩かないと!」
エーデルワイス館の誇る立派な庭園、その長い遊歩道を私たちは歩いています。
「なんで朝からそんなにテンション高いのよ…………」
天気とは反対に、フラウさんの表情はどんより曇り空。けれど彼女が朝ローテンションなのはいつもの事なので、特に心配することではありません。
マールとして学院に通うようになって一週間ほど経ち、私はある程度この生活に慣れ始めていました。今思うと、早々にフラウさんにバレてしまったのは僥倖でした。家ではある程度気を抜くことが出来ますし、ロズウェナとして話せる相手もいる。その事がどれだけ私を助けているのかはなんとなく分かりました。
エーデルワイス館の敷地を出るころにはフラウさんも余所行きのキャラを全身に張り付け、すっかり通い慣れた通学路を歩き、セレスティア王立学院に到着しました。素の性格を知っている私からすればフラウさんの猫被りは相当なもので、しかもこれを十年以上続けていると言うのですから、素直に尊敬に値します。
毛足の長い絨毯を踏みしめて教室に向かっていると、廊下からでも分かるほどの喧騒が私達のクラスから漏れていました。私たちのクラスは、本当に上流階級の集まりなのかと疑う程度には賑やかなのですが、それでもこれほど五月蠅いことは今までありませんでした。何か事件があったのかと思うほどです。
教室の入り口から首を出して、ちらちらと廊下を見ていた男子生徒と目が合います。
名前は…………確かジョン。ジョン・アレキサンダー・ハミルトン。彼は私の姿を認めると、凄い勢いで首を引っ込め、教室の喧騒はより一段と大きくなりました。
…………嫌な予感というものは、どうしてこうも当たるのか。
私たちが教室に入ると、さっきまでの喧騒が嘘のように物音一つしなくなりました。教室前部にある大きな黒板に目を向けると、喧騒の原因が分かりました。そこにはこう書かれていました。
『田舎に帰れ マール・フォン・グリーンウッド』