泡沫を泡沫のままつかみ取れるのか
『泡沫の夢って表現、かなわない夢の表現によく使われます』
今日はそんな「泡沫」という言葉について考えていきたいと思います。
そもそも「泡沫」には“うたかた”と“ほうまつ”という二つの読み方があります。簡単に前者は水面に浮かぶ泡、後者はそのまま泡やあぶくという意味を持ちます。それでいて、“うたかた”の方が消えやすく儚いものの例えとしてよく使われています。
「我が恋は
水面に浮かぶ
あぶくかな」
として儚い恋を表現したり、
「泡沫に
己の夢を
思いはせ」
とストレートに伝える場合もありますね。
しかしこの場合の「泡沫」というものは「儚いもの、消えやすいもの」として考慮されているため、基本的には叶うことのない、今でいうところの「エモい」という感情が合うのでしょうか。「自分でも叶わないと想っているが、諦めきれないで今でもそのことを想ってしまっている」ような感じですね。
それでは「泡沫の夢」とは叶うことがない夢なのでしょうか。と聞かれれば答えはノーでしょう。決して泡のような夢で叶えることがいくら難しいとしても可能性が完全にないとは言い切れません。だって「泡」が残っているではないですか。その「泡」はシャボン玉のように割れやすいし、時間が過ぎ去っても半自動的に割れてしまいます。ただし「泡」として残り続けている限り、その「泡沫の夢」はつかみ取ることはできるでしょう。
しかしほとんどの場合「泡」のままその「夢」を受け取ることはできません。だって「泡沫の夢」ですから。しかし、その泡が消え去ったとしてもその泡の残骸は残り続けます。シャボン玉が割れても液が残るでしょう。それと同じです。その残骸を私は「夢の跡」と表現します。だってその夢を「泡」としてなんとかもがき続けた形跡は決してゼロになるわけがないからですね。その「夢」を「儚い」という感情だけでとどめてしまうのはあまりに現在を生きる私たちにとって悲しい事です。
その「泡」を次の何かに生かすかを考えて生きていけば人生は開けていきますかね。