第四章 ラドナ、勝利する
よろしくお願いします。
一斉に飛び出した二十二頭の競走馬達が馬群を形成する。ラドナは、咄嗟にそれに反応することが出来なかった。馬に乗るのも初めてなのだ。仕方のない事だろう。最初、ラドナはしがみついているだけで精一杯だった。ラドナは馬群の中に閉じ込められてしまった。
美しく刈り揃えられた芝生の上を馬達が気分良く駆け抜けて行く。ラドナは徐々にそれに釣られていった。疾走する気持ち良さ。それが心の中に溢れて来た。ラドナには父の仕事の魅力をこの時はっきりと理解出来た。
これ程の解放感は他ではそう味わえるものではない。
「お楽しみの所、邪魔をするがな」
自分の世界に浸っていたラドナに、帽子がそう声を掛けてきた。
「もう最初の曲がり角が来るぞ。油断してるなよ」
帽子の言う通りだった。他の事を考えている場合ではない。スタートから十数秒後、最初のコーナーが目前に迫っていた。幸い、ピートは折り合いがついていた。ラドナが右手の手綱を引くとピートは見事に右回りのコーナーを曲がって行った。
「やった!」
「意外とやるじゃないか。小娘」
帽子に褒められてラドナは少し照れ臭くなった。
「けどこれからが本番だぞ。この馬群。お前、どう捌くつもりだ?」
相変わらずラドナとピートは馬群の中程。内ラチ沿いに閉じ込められていた。既に目前には最終コーナーが迫っていた。ラドナは前を行く馬達を見た。瞬間、ラドナには見えた気がした。抜け出すまでの道筋が。
これはラドナが天より授かった大いなる才能であった。本人がそれを自覚するのは、少し未来の話になるが。
「いける」
「いけるって、お前……うわわわわっ!」
最終コーナー手前、ラドナは一気に手綱をしごいた。ピートはそれに答え、加速を開始した。他の馬も加速を始め、猛スピードで馬郡は最終コーナーに差し掛かった。
「お前、こんな速さで、死ぬ気か!」
「大丈夫!」
ラドナの言葉通り、帽子の心配をよそに、ピートが他の馬にぶつかることは無かった。ピートはラドナの導きに答え、右へ、左へ、一頭二頭と次々に前の馬を交わしていった。
最終コーナーを曲がり切る直前、ラドナの左前方が大きく開けた。前を行く馬が外に振れたのだ。それを見たラドナは左手に握った手綱を強く引っ張った。ピートはそれに即座に反応し、最後の直線、馬群の外で前方は完全に開けた。
「やるじゃないか! 小娘! ひゃははははは!」
帽子はラドナの頭の上で、感嘆の言葉を放ち、はしゃぎ立てていた。
その後はもう独壇場だった。ピートは先頭に立つと後続を突き放し、鞭も必要のない馬なりの快勝であった。
ラドナにはいまだ俄かに信じられなかった。自分が馬に乗り競争に勝利した。夢のように感じた。しかし、そんな気持ちは大観衆の歓声が全て吹き飛ばした。観衆はこの勝利を讃えていた。ピートだけではない。確実に騎手であるラドナを讃える声も大きかった。大きな達成感がラドナの胸に溢れた。
「声に応えてやれ。手でも振ってやれよ」
「こ、こう?」
ラドナが観客に向かって手を振ると、観客は歓声を上げ、大きな拍手が轟いた。
興奮冷めやらぬ中、ラドナとピートは馬場を後にした。装鞍所へと戻ると、馬主さんが嬉しげな満面の笑みで出迎えてくれた。ラドナはピートから降りると、馬主さんと強く握手を交わした。
「ありがとう! 素晴らしい騎乗だった!」
馬主さんはラドナと握手を交わした後は、ピートと頬を摺り寄せ合っていた。この勝利がどれほどに嬉しいかが伝わって来た。無事に仕事を達成出来たことに、ラドナは安堵感を抱いていた。
「ありがとうございます。じゃあ、私はこれで」
ラドナは少し急ぎ気味にその場を去ろうとした。皆が祝福してくれているのだ。名残惜しい気持ちもある。しかし、何でぼろが出てしまうかも分からない。
「待ってくれ! 是非、うちの専属騎手になってくれないか!」
馬主さんがそう言ってラドナを呼び止めたが、ラドナは急いでその場を後にした。
「ごめんなさい! 急いでるんです!」
ラドナは駆けて人混みに紛れた。馬主さんには悪いが、専属騎手なんてなれる筈もない。帽子はそうは思っていない様であったが。
「何で逃げた? いい話じゃないか」
「そんなの無理だよ。私十歳だし。何よりこの免許偽物だし……怒られちゃうよ」
ラドナの言葉が余程おかしかったのか。帽子はけらけらと笑った。
「真面目だな。小娘は」
ラドナは人混みを抜け、人目につかない細い通路に入った。理由は元に戻してもらう為である。今のままでは身動きが取れない。人混みの中にいても皆がラドナを見ていた。マールとしてのラドナは一躍有名人になってしまっていた。
「戻して。このままじゃ家に帰れないよ」
帽子は軽く溜息を吐いた。
「欲の無い小娘だな。せっかく名前が売れたのに、もう終わりにするのか?」
帽子の言うこともラドナには分からないでもなかった。憧れの騎手になり、馬に乗り、競争で勝利したのだ。あの快感をもう一度味わいたいという思いは当然湧いてくる。しかし、ラドナにはどうしても納得出来ないことがあった。
「駄目だよ。やっぱり嘘を吐くのは。私はマールじゃなくてラドナだし。騎手でもないもん」
帽子はまた溜息を吐いた。少し呆れている様子に思えた。
「損な性格してるな。小娘は。せっかく俺がみんなお膳立てしてやったのによ」
お膳立てという言葉がラドナには引っ掛かった。ラドナは自分があのピートという馬に騎乗する切っ掛けになった出来事を思い起こした。
「もしかしてあの騎手のおじさんが倒れたのも、帽子さんのしたことなの?」
ラドナの言葉に帽子は黙った。どこかバツが悪そうに思えた。
「余計なことを言っちまったか」
帽子の言葉にラドナは頭が熱くなるのを感じた。ラドナは普段から怒るということがなかった。優しい母に、愉快な牧場の仲間達。そして大好きな馬達と一緒の自然の中での暮らしには怒りなど湧くことも無かったのだ。
「何でそんな酷いことしたの! 帽子さんなんて大嫌い!」
ラドナは人生初の怒りに震えていた。目からは涙も流れていた。自分の為に酷い目に遭った人がいる。その事実が情けなかった。
「そんなに怒るなよ。殺したわけじゃないだろ」
帽子は少し落ち着いた口調でそう言った。ラドナの態度に驚いた様子が伺えた。
「でも、もうあの人はピートに乗せて貰えないかもしれないよ! だとしたら私達のせいだよ!」
事情を知らない馬主さんからすれば、騎手の人は発走直前に倒れ、迷惑を掛けて来たという認識になっても致し方ない。ラドナは、人の仕事を奪ってしまったかもしれないという思いに心を痛めていた。
「成る程な」
帽子が静かにそう呟いた。すると、その途端。ラドナも気付かないうちにラドナは元の姿に戻っていた。帽子も元の美しい麦わら帽子に戻っている。
「すまなかったな。戻してやったぞ」
ラドナは何も答えなかった。元の姿に戻して貰っても帽子を許す気にはならなかった。とにかく、今は皆の所に戻ろう。
「小娘。お前の性格、難儀だが俺は嫌いじゃないぜ」
帽子はそう言って黙った。この日、帽子がそれ以降話すことは無かった。
ありがとうございました。