十五.まどろみの涯:響唄
はじまりの記憶は、雨のなかにあった。
***
体を隠すような場所もなく、隠すだけの体力もなく。
おわるのだ、と思いながら、意識はうずくまっていた。
たたきつける水の粒に、ぬれそぼったからだがヒリリとうずく。
意識を生につなぎとめているのは、生きなければ、という執念にもにた欲求ただそれのみだった。
ピクリ、と耳がふるえる。
とまらない水音の向こうがわから、何者かが近づいてくる気配を感じてのことだった。
逃げるための力は、とうの昔についえていた。
気づかれぬよう息を殺したのもつかの間、投げかけられた奇妙な響きに、意識は終わりを覚悟する。
この臭いを知っている。二つ足の生きものだ。仲間を殺し、食べるでもなく去っていったあの生きものの仲間だ。
ならば己も殺されるのだろう。そう思うのは、極自然なことだった。
唐突に、冷えきった体には灼熱にひとしいぬくもりに頭をふれられて、意識はうなりを一つこぼす。
些細すぎる抵抗にひるむ様子もなく、ぬくもりは意識を空に持ちあげていた。あばれる間もなかった。
連れていかれた先は、乾いた木が燃える臭いのする場所。
朦朧とした感覚のなか、乾いた布の上に横たえられたことを知る。ひとしきり体についた水滴をぬぐわれ、次には口をこじあけられて暖かいものを流しこまれた。弱々しく牙を立ててみたものの、黄色い血が流れても二本足のいきものは止めようとはしなかったので、意識は甘んじてそれを受けざるをえなかった。抵抗を重ねるだけの力は、まだ残っていなかった。
危険だ、と体が言う。歩けるだけの力が戻ったらすぐにでも逃げなければ、とかすむ頭で思っていた。
その時だった。
唄が聴こえた。低い声だ。一瞬だけ、世界が鮮明になる。
昔、そうだったように。全ての音が聴こえ、すべての光が見えた。
うすく目をあけてみれば、薄黄色ににごった視界のなかで、二本足のいきものが唄っていた。
仲間と連絡をとるときにするようなそんな唄ではなく、奇妙に静かな…毛を優しくつくろわれていた頃を思いだすような唄だった。
いきものの前足から、血の臭いがする。
この牙が、あの傷をつけたのだと思うと、どうも居心地が悪い。なぜだ。なぜ、そんなことを思う。
「 」
伸ばされた前足から、逃げることはきっとできた。噛みつくだけでもよかった。
「 」
喉元を撫でられて。眼を閉じた。命取りだ、と身体が言う。
けれど、二本足の生きものはそれ以上何もしなかった。ただずっと唄いながら意識の喉をなでていた。
次に目覚めたときにも、二本足の生きものは唄っていた。唄いながら、意識に食事を与え、やはりその喉をなでた。
逃げる気は、いつのまにか消えていた。
助けられたのだ、と気づいた。その時に、意識は二つ足の生きもののものになった。
***
眼を開けても、世界は真っ暗だった。
むせかえるような土いきれと、血のにおい。
雨が降らないことに、救われた気がした。
何が起きたのか、考えるまでもなかった。
いつものように、あの生きものと狩に来た。空から落ちた獲物を銜えて、あの生きものの元に帰ろうとして。
そして・・・
何か、ひどく不快なにおいがした。
耳をふせたくなるような、高い音がする。あの生きもののいる方からだ。
近づくにつれ、かぎなれた臭いが強くなる。
なぜだ。これは、あの時の、あの生きものの血のにおい。
そのそばにかけよろうとしたその瞬間に、灼熱が身体を焼いた。
「 」
嫌な、においがする。
あの生きものと一緒にいるところを何度もみた、二本足の生きものが、たくさん。
「 」
血のにおいがする。
意識は大地を蹴って飛び掛った。
あの生きものに、何をした!
「 」
灼熱が、何度も身体を焼く。
食いちぎった肉は、あの生きものがくれたものよりずっと不味い。
「 !」
「 !!」
意味の分からない音の羅列は、怒号だということだけが分かった。
爪を振りかざし、牙を立て、何度も吼えた。吼えて吼えて吼えながら、爪を振るう。
灼熱。土いきれ。震える空気。
二つ足の生きものの方が、多かった。動けなくなった身体に、突き刺さる熱。
「 」
遠ざかる足音が、荒々しく響く。視界はもう、霞んで、見えない。
生きなければ。その衝動に襲われる身体は、あの生きものの吐息が聞こえないことに気づいていた。
あの唄は、もう聴けない。あの優しい空気は、もうどこにもない。
思う間にも、世界が遠ざかっていくのを感じた。痛みも、もう感じない。鼻も駄目になった。耳もだ。
それなのに、唄が聴こえた気がして。あの二本足の生きものが、唄っているような気がして。意識は眼を閉じた。
あの、小屋のなかでそうしていたように。