(7)
そこは整えられた庭木に囲まれた、大きな大きな噴水があった。葉の緑と水しぶきの白が目に飛び込んでくる。
「地球だ…」
これから夕暮れのようだった。見上げるとほんのりと赤みを帯びた空が見える。大一はうれしくなってそのままその空間へ飛び込む。そのついでにもう一度こけた。だが笑っていた。
「ってて……足場が湿ってるから滑りやすくなってんだ。」
背の低い庭木が壁のように噴水への道をふさいで見える。どうしても今噴水のそばに行きたい。迂回する道を無視して、大一は生い茂る葉の壁に飛び込んでいった。葉っぱが肌をつついたりなぞったりする。こそばゆい思いをしながら大一は植込みの壁を抜けた。
「はあ…」
思っていたよりもずっと立派な噴水が現れた。大きく噴出して絶えず水煙のカーテンを作り出している。ぼんやりと映るその池のたたずまいに、まるで乙女のようにうっとりしてしまう。池の真ん中の噴水へは飛び石でたどり着けるようだった。揺れる水面が浜に寄せる波のように大一の足元までやってきていた。大一は大きく息を吐くと体についた葉をはらい落とした。
ふと水しぶきの奥に大一は人影を見つけた。目を凝らすと背丈から年若い女の子だとわかる。相手は見つめている大一に気づいていない様子だった。透明感のある薄手のショールを羽織りその下はロングドレスをまとっている。どこか気品のあるそれでいて悩ましげな表情が、白いもやの向こうから伝わってきた。彼女はもじもじと体を小刻みに揺らしている。やがて意を決したように前かがみになりスカートの裾に手をかける。
(あっ…)
この場から静かに去ろうと思ったのも束の間、スカートをたくし上げた彼女は――。
まずいとは思っても、どそれには思わず目を見開く。彼女は何やら股の近くでクダのようなものに手を添えているではないか。そこからチョロチョロと何かが流れ出ている影が見えた。
「んんっ?!」
衝撃のあまり声を上げたので、相手がわずかに宙に浮かんだのが見えた。
「っどなたですか!?」
思った通りの透き通るような女性の声がする。突然の出会いに名乗るのを躊躇してしまう。
「いや、そのすみません!見るつもりでは…!決して、その!あの誰にも言いませんので!」
これでは弁解にやましさが全開である。だがこれは予想に反して意外な発言が返ってきた。
「………あなた様が何者かは存じませんが、もしや水星人には直接お会いになられたことがなくていらっしゃいますか?」
ヘルメシアン、彼女はそういった。お会いになったどころかこの世界すら全くご存じない状態である。
うん!うん!と大一は首がもげるほど縦に振る。
「では驚かれるのも無理はありませんね。」
小さい笑い声が聞こえると、彼女が水のカーテンを割って大一の前に姿を現した。大一と同い年ぐらいなのに、落ち着き払ったたたずまい。束ねられた髪を支える丁寧な編み込みの御髪。水上を滑るように近づく姿に大一は見惚れてしまった。
「ごきげんよう、地球人様。ワタクシはル・ルオン……。」少し言いかけて歩みを止めた。「…御名はなんとおっしゃいますか。」
「あ、どうも…代寺大一です。」
大一がぺこりと頭を下げるとル・ルオンという少女は朗らかにほほ笑んだ。
「タイチ様ですね。あまりの驚き様でしたのでよもや、と思いましたが。ワタクシがあなた様にとって初めての水星人ということになりますね。大変光栄です。」
彼女はスカートの両端をもって広げお辞儀をする。余りの丁寧な礼に対して大一も反射的にもう一度深々と首を垂れた。
「ふふ、もう一度、礼はなされていたではないですか。」
くすくすと手を口元に当てて笑う。少々照れくさい。
「確かに遠目で見ると驚かれるでしょうね、これは。」
そういって彼女は手に持っていた管を伸ばして見せた。多関節の金属の管、確かに大一がイメージしていたものとは違うようだった。しかし、接続部がスカートの向こう側で実は確証が得られない。たまらず大一は聞いてしまった。
「すみません、それはどこから伸びて…」
「まあ…」
彼女はキョロキョロとあたりを見回し誰もいないことを確認すると、大一にそっとささやいた。
「お尻ですよ。」
耳にかかった彼女の吐息で体がビクンと跳ね上がる。パクパクと口を動かすことしかできない。顔中が熱い。目を泳がせてしまう。彼女はまたくすくすと笑った。
「ふふ、嘘です。加圧スーツに連結されています。」
「か、加圧…?水星は…大地下都市だから圧力がすごいって聞いてたけど…」
からかわれても何とか声を絞り出すことができた。彼女はうなずく。
「はい、ですからその差を埋めるため地球上では加圧スーツが必要になるのです。母星に戻れば、みな裸ですよ。」
「それはウソでしょ。」
「ええ。」
笑顔で返事をされる。
「ワタクシたち水星人は日々の活動の中で加圧スーツ内の廃液を定期的に排出しなければいけません。溜まったままだと脚とか体がむくんで見えて美しくありませんから。」
なるほど、合点がいった。これは水星人の特徴であり、先ほどの行為はごく自然なことであるようだ。だけどなぜ今ここで?大一は訊ねる。彼女は少し考えるそぶりをした。
「…水星人というのは、水と強い関りを持つ人類です。地球は水の惑星、我々水星人は憧憬を抱いております。だから――。」
ル・ルオンという少女は瞳を閉じる。ピンと伸びたまつ毛に水滴がついて輝いて見える。大一はその姿をじっと見守った。
「…できることならこれから住まうこの星に、ぜひとも敬意を示したい…と。願わくはワタクシの一部とこの宮殿の水とが交じり合い、末永くお側においていただけるように…と。」
大一はようやく察した。この人は『王』のもとに嫁ぎに来た姫君の一人だと。
(俺なんかじゃ到底届かないような高潔な人だ…。それに、なんというか決意と不安が入り混じったようなこの気持ちは…。)
あまりの心の美しい様を見させられ胸を打たれた様子の大一。それを見て少女はまた少しだけ笑う。
「それはともかく、タイチ様のような面白い方が宮中にいらっしゃるのであれば、きっと退屈しないでしょうね。」
少女は一歩下がって再び礼をする。
「…では。」
彼女はくるりと背を向ける。もう少し彼女と話していたかったが…。
「あっ、一つ言い忘れておりました。」
噴水へと続く石段の上で彼女が振り返る。
「そのお髪、斬新でとてもよくお似合いですよ。」
つんつんと指先でおでこのあたりを指してから立ち去った。
「あっ。」
庭木をかき分けてきたせいか、走り回った汗のせいか。ハゲた頭に無数の葉っぱがびっしり張り付いていた。