(9)
一歩、一歩、とそこに何もない空気を蹴りイブと並んで歩いていく。耳をかすめながら風が二人を横切っていく。
「現王様。」
「あ、はい。」
イブがこちらを見つめる。何かを期待するようなそんな仕草で、手を差し伸べた。
「おひとつ私と踊っていただけますか?」
えっ、と大一の肝が冷える。社交ダンスというものか、そこまではさすがに普通の高校生は嗜んでなどいない。例のごとく固まった大一を見てイブが残念がる。
「あら、今はそんな気分ではありませんのね。」
「いや、そうじゃなくて…」
そもそも経験値が全くないことはできない。踊りの足運びぐらいはどこからかデータを持ってこれるだろうが、体が動かせるかは別の問題である。踊りはできない。そう言ってしまっていいのか。本物は『王』、超上流階級。貴人との踊りなど造作もないはずだ。イブがまた前に向き直って大一によりかかる。
「情けない…。」
イブがパッと突然つぶやいた大一を見た。
「どういうことですか?」
口に出していたらしい。答えようによってはせっかく気を許してくれた彼女をまた傷つけることになる。パクパクと口を動かして何とか話そうとする。不安げなイブの瞳。こんなことをこれからもずっと繰り返していくのだろうか。
(いや…。)
「ごめん。俺、踊りが出来なくて…」
大一は正直に話すことを選んだ。
「なるほど。」
イブは深く頷く。そのあとの反応が少し怖かった。彼女はするりと腕をほどき大一から二歩、離れた。
「現王様。」
「はい…。」
顎に手を当てて考えるようなポーズをとる。
「先刻から少し引っかかっていたのですが、実はいろいろとご無理をなさっているのではないですか?」
その通り、過去から無理やり連れてこられて変わり身をさせられてるのだ。とは極秘である。
「言葉遣いも、私たちとのふれ合いも。プレゼント一つですら。お話で伺っていたこととまったく印象が違っていて…」
イブは『王』のことを見透かしているようだった。偽物だとばれたらどうなるんだろう。それに大一はまだ好意を与えてくれる彼女たちに何も返せてない。先ほどようやくささやかな髪飾りを渡したばかりだ。そうだ、まだ気づかれてはいけない。大嘘付きなりの意地がある。
「…イブのいう通り、その…女の子にこんなにアプローチされたことなくて。」
肺から息を全部出し切る。
「どうしたらいいかわからなくて、初めてのことばっかりで。それでも俺は…遠い星を離れて来てくれたみんなを迎え入れたいんだ。」
情けない。言葉にするだけで自分が何も持っていないことを気づかされる。気の利いた男らしさなど用意できていない。イブはまだ考える風をやめない。
「でも最後は君たちみんなが幸せになれるよう頑張るから。」
もうこの時点で泣き出しそうだった。何の根拠もない意志を伝えただけだ。震える唇を上あごでかみしめる。まぶたが重く閉じられた。
「みんなが幸せに…そうですか。」
イブの両手が大一の顔に添えられる。指が空気に触れて少し冷えて来ていたようだ。
「私たちは皆、現王様のご寵愛を賜ろうと必死なのですけれど。幸せになれるのは一星だけが王家の通例なのですが。」
なでなでと頬を愛おしそうに滑らせる。誰にも邪魔されない空の上で、二人はしばらく見つめあっていた。
「立派ならんと着飾られていたのを、ここまでさらけ出して…ふふ。」
イブは目じりを下げてほほ笑む。
「私、それでもあなた様の一番を狙っていますわ。」
「まっまだ、決めるのは…」
「存じております。」とイブ。そっと撫で続けていた手を離される。頬にはまだ彼女の手の指先の温度が残っていた。
「王妃に選ばれることが何よりの至上。この上ない幸せなのですが……我らが現王様はそれ以上の幸せを私たちにお与えになられる、ということですね。」
口元には不敵な笑みを湛え、少し上目遣い。先ほどよりも強く何かを望むような、そんな表情をしていた。彼女が大一の両手をとって向かい合う。
「現王様、できないのなら踊りは私が教えて差し上げますわ。」
「わっ。」
不意に力強く引き込まれ、よろけてしまう。イブは華麗に距離をとり、決して転ばさないように立ち回った。
「1・2・3…1・2・3…」
軽やかな足取り。イブの翡翠の目は大一をとらえて全くそれない。
「今度あるダンスパーティで…」
彼女が言いかけた時――突風が吹き付ける。
「あっ。」
よろけるイブをとっさに引き寄せる。今度は大一の胸元にイブが顔を寄せる形になった。
「大丈夫?」
大一がイブに目を落とすと彼女は擦る様に頷く。だがそれでは終わらなかった。
「ああーっ!」
後方のビークルから叫び声が聞こえる。思い切り振り返ると、手すりのそばにいた何人かが下界を見つめている。その中にはルオンとマリーもいた。
何を見ているんだ?彼女たちの目線の先に小さな何かが動いているのを脳がとらえた。
マリーにあげた髪飾り!イブの肩を支えしっかり立たせると、大一は。
「えっ?」
驚きの悲鳴があがる。
大一は体を頭から倒して、靴が自動で真下に移動する勢いを利用し、階段を駆け下りるように空から落ちていった。
コスモスの髪飾りがひらひらと風に乗って舞う。
(あんなに喜んでくれたのを!)
大一は必死だった。はるか上空で『王』を呼ぶ声が聞こえた気がするが、そんなことは問題ではない。絶対に落とさない一心で天を下る。想像以上に空気を強く蹴ることができる。前のめりの姿勢は崩さない。
もう少し!
ダンスの時のぎこちない足さばきはどこへ行ったのか。舐めるように足の裏は空をとらえ続ける。肉眼でもとらえられるところまでたどり着いた。地上の建物がはっきりと大きくなってくる。
あとちょっと!
ごうごうと耳で鳴り響く強い風圧。腕を伸ばせばつかめる。今日一日で三人が笑ってくれていた。一つでも欠けてはいけないんだ。吹き出る汗が尾を引く。体のいたるところが風圧に押し返されて震える。もう一つ力を込める。腕を伸ばし手を開く。五本の指があともう少し先の髪飾りまで伸びていく。大一の体はもう地面と水平になるよりも深く傾いていた。
(とった…!)
ついに指がコスモスをとらえた。地上にいる人々のざわめきが大一の耳に届いていた。




