(1)
波打つ砂浜から夕日の沈む春の海へ向かって。
代寺大一は吠えていた。
海沿いの道路はがらりとしていて、時折人が通っても制服姿の背中を見ては「青春だな」と穏やかな心持になって帰路につくばかりで、誰一人近づいて声をかけようとする者などはいない。
しかし当の本人はそれどころではないほど荒れ狂っていた。激しい感情の高ぶり。声は喉を破き、涙は目からあふれて落ちる。大一はここに来てからもう小一時間こんな調子だ。しかしこれが泣かずにいられようか、聞くも涙語るも涙の失恋譚。
早まる鼓動、乾く唇、震える指先足の先。まさか手紙一枚置くことでこんなに間抜けな姿になるとは大一は思ってもなかった。
(入れた!入れてしまった…!)
下駄箱にラブレター。あまりにも使い古された好意のアピール。
それゆえに効果てき面な呼び出し方。ここ数日悩みに悩んで書き連ねた17文字…これなら間違えるはずない。実は携帯で呼び出したほうがいいんじゃないかとか、トークアプリ使えばいいじゃんとか、普通に口頭で誘えば?とか友人からありがたいお言葉を賜ったものの、ぜえぜえ言いながら一人で完成させた会心の一文。――「放課後、2Cの教室で待っててください。」
「あ、でもまだ直したいような。」
もはやただの呼び出しに直せるところなどない。
指をばらばらと動かして空を這わせる。わかっちゃいるがもどかしい。
とにかく賽は投げられた、あとは。目を強く絞り顔をしわくちゃにしながら、いかんともしがたい指先をガシッと抑え込んで固いこぶしを握った。外から声が聞こえてきたので慌ててその場から立ち去る。彼はしたり顔だがまだ手紙を入れただけである。やがて朝一の昇降口には生徒たちが集まってくる。
そして件の下駄箱に近づく人の影。
大一はその日友人たちと何を話していたかぼんやりとしか覚えてない。たぶん初デートプランを言わされた気はする。あと手をつなぐタイミングとキスのタイミングを教えられた気がする。時々恋人同士の甘い会話を思い描いて鼻の下を伸ばし、来たるべき日の準備などはどこの薬局なら気づかれないかと悶々としていた。友人の一人が売っている箇所を教えてくれたり自販機型も教えてくれた。
ちなみに大一の友人グループは誰一人として交際経験はない。相手も別にOKを出していない。
放課後になった。
心を落ち着けるため教室から遠く離れた別館のトイレにこもっていた大一は顔をはたいて2-Cへと向かう。足取りはどこかぎこちなく、肩は震えるほど緊張していた。
大一が恋に落ちたのは昨年の秋ごろの文化祭。実行委員とかクラス委員とかそういうのではなく、文化祭の出し物で外装の担当をしている彼女を見てから。
大一は友人たちと食品の発注担当。細かく在庫の確認をしていると時々廊下の方から嬌声が聞こえた。気になって目を向けた先にいた無邪気に笑う彼女の姿。普段では見られなかった、そんな無垢な表情に大一は射抜かれてしまった。自分でも気づかないうちに彼女に初めて声をかけていた。「そろそろこっち終わりそうだから、何か手伝うことある?」
その時なんと返されたかは覚えていないが一緒に行動するきっかけではあった。その後も大一は声をかけ続けて彼女も笑いながrそれに応えていた。と思う。
やがて秋が終わり冬を越えて春を迎える。日に日に気持ちが収まらなくなっていくのがわかっていた。両親に相談するのは気恥ずかしく、友人と話すと茶化しあう。これはもう自分で解決すべき自分だけの問題なのだ。
呼び出しするだけでも一苦労、誰かを強く想うことがこんなに苦しいことだとは思ってなかった。だからこそ大一は今日、今まさに告白へと向かわねばならない。伝える言葉は何度も何度も何度も反芻した。
上履きのゴムが廊下に吸い付いてキュッキュと音が響く。窓からは夕陽が差し込んでぼんやりと陰りが見えた。2C教室の扉、いつものなめらかなスライドドアがまるで黒鉄のような威圧感を放つ。中からは人の気配。手紙が通じたことに少しだけ胸をなでおろす。入る前の儀式なのか、深い深い深呼吸をして整える。
(…ガラッと勢いよく扉を開けて、背筋はピンとして、ゆっくり歩く。ちょっとだけ世間話をして、いい感じのところになったら言う…)
「好きです!俺と付き合ってください!」
心臓が跳ねる。まだ大一は中に入っていない。慌てて扉を見上げると教室の札はきちんと「2-C」だった。告白バッティングしたのか?突然の出来事によくわからない思考に至る。不意を突かれ先ほどとは違う胸の高鳴りが全身を震わせる。
大一は恐る恐る扉を開けて隙間から中をうかがった。
「あの…」
彼女が、いた。自分がこれから告白する相手が。
夕日を背にしているからか表情はわかりにくい。うれしそうな照れているような顔をしている、とは考えたくなかった。そしてもう一人、相手の男がわからない。今のセリフを言うはずだった男は、教室の外でこわごわと中をのぞいている。ラブレターに自分の名前を入れるのを忘れたのだろうか。間違いなく書いたはずだがこんなことは…
「…好きなんです!笑う仕草とか部活に一生懸命なところとか正直なところとか、全部」
「私その…」
相手の声色を聞いてもいまいちピンとこない、大一よりも大きな男の影が彼女と外野の自分の間に立って告白をしている。しかも言いたいことを全部代わりに言ってくれていることに驚く。
好きだ、あのその、甘くてこそばゆい会話が続いている。…でもそれは…。
「俺はここに来るべきじゃない人間だけど…先に言わせてほしかった。」
男が彼女に詰め寄る。それは…。
「うん、私ね…」
それは俺のしたかったことなんだよ!
廊下の端まで響き渡る大音。吹き飛ぶ勢いで扉が開かれる。突然の乱入者に中の二人が驚く。
「お前、何だよ!」
第一声はこれだった。
大一は目じりが裂けるほど大きく目を見開き男を下からにらみつける。先ほどまで強張っていた肩は荒々しく上下し、呼吸が激しく乱れている。相手の男は一瞬虚を突かれたようだが、やがて少し口元を緩ませた。
「ああ…彼女に告白するんでしょ?」
「あの、し、代寺くんさ…」
彼女が男の後ろから少し心配そうに大一の顔を覗き込んだ。だが、大一は男から目を離さない。聞かなければならないことがある。
「さっき、ここに来るべきじゃないって言ったな?」鼻息が荒い。「お前まさか、今日ここで俺が彼女に告白すること知ってたのか。」
そうでなければこんなことにはならない。対して相手の男は涼しい顔で答えた。
「そうだよ、俺もあんたのラブレター、みたからさ。」
下駄箱には扉はついているが鍵などついてはいなかった。だから誰もが中を確認することはもちろん可能だ。でもいつ…?相手は続ける。
「俺、好きだから先輩のこと。取られたくないじゃん?まあでも…」横目で彼女を一瞥する。「後から告白しても結果は同じだったかもね。」
ここで大一は初めて彼女の顔を見る。申し訳なさそうな、辛そうな、自分が求めていたものとは違う顔をしていた。
ベトリとした嫌な汗が体を冷やす。照れなどのいとおしいモジモジではなく、言っていいのか迷っているようなためらい。彼女はスカートの前で指の腹を五本とも合わせていた。相手の男をうかがい、その次に大一の方を見る。彼女の様子に合わせて大一は何か声をかけたかったがどうしてもできない。彼女の次の言葉を待って硬直してしまっていた。
教室の壁掛け時計がコツンコツンと分を刻む。窓の外から金属バットの音が聞こえる。緩やかに影が深まっていく。彼女の表情は隠れてしまった。
「私もラブレターは見たよ。だから、先にSが来たからちょっと驚いちゃって…」
ようやく彼女が話し始めた。S――長身の男を気にかけるように話を続ける。
「Sは入ってきたばかりの部活の後輩でね。結構いい子なんだよ。入ってから二月ぐらいだけど仲良くしてて…」
全然違う。自分が訊きたい話はそれではない。Sを擁護するばかりであえてその話題を避けてるのか。
だとしたらそれはつまり、もう…答えは決まっているようなものなのか。
「正直言って、別に先輩はあんたのこと何とも思ってないでしょ。」
代わりに言ってくれた。「そんな言い方…」と彼女は止めたが否定はされなかった。
――グラグラする。いったい今まで何をやってきたのか。
「S、答えはまた今度でいいかな…」
「うん」
いたたまれなくなったのか二人だけで会話をすませ、彼女は先に2-Cの教室を出て行った。Sも疲れがきたのか伸びをする。その姿は自分よりも二回りも大きく見えた。そして、
「俺が告るきっかけ、作ってくれてサンキューっす、代寺大一さん。」
去り際にポンポンと背中を優しくたたかれた。