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Through the Past  作者: 冬長
一章
9/32

【8】 それは次に会うときまでの約束

 唐突に告げられた言葉に、その場にいた全員が怪訝そうな目を向けた。

 それらを受けて、“風”の二つ名を持つ男は快活な笑みを浮かべる。そしてもう一度、同じ言葉を繰り返した。


「じゃ、俺らそろそろ帰るから」

「あのですね、バザック先生」


 頭痛でもするのだろうか、頭を押さえながらトリウムが口を開く。普段は飄々とした態度を崩さない『地吹雪』の代表者たる青年も、ことバザックには敵わないらしかった。


「何ですか、いきなり。せめて事前に一言告げておいてくれませんか。昨日とか」

「敬語、似合わないぞトリウム」

「人の話を聞いてるのか!?」


 バザックの的外れなツッコミに、トリウムは瞬間的に礼儀を取り払った。気持ちは分からなくもないので、誰もそれを咎めようとはしなかった。


「で、バザック。今までの話を総合、しなくても分かることだが。言ってなかったんだな?」


 呆れている、としか表現しようがないだろう表情で、クーレンが額を押さえながら告げた。彼の方は別に、トリウムのように頭痛を覚えてはいない。しかし、そうでもしないとやっていけないような気分だったのだ。

 そんな協力者に、バザックは豪快な笑みを浮かべた。はっはっは、と響く重低音の笑い声は、肯定に他ならない。嫌でもそれを感じ取ってしまったクーレンは、その頭を遠慮も何もなく殴り倒してから、トリウムの方を向いた。


「悪かった。まぁ、そろそろ帰ろうと思っていたことは確かだから、このままお暇させてもらうが」

「いえ、お世話になったのは俺らのほうなので、俺らが礼を言うべき立場なんですけどね。だから、ここで先生たちを引き止めるなんて迷惑な真似もしませんけどね。あのですね?」


 トリウムは、そこで一旦言葉を切った。そして、視線を出来る限り向けないようにしながら、怖いんですけどっ、と叫ぶ。それは切羽詰った、心からの叫びだった。

 何せクーレンは、殴り倒したバザックの頭を踏みつけていたからだ。時おり、ぐりぐりと足が動き、踏みにじっている。繊細な顔立ちにうっすらと微笑を浮かべたその姿は、悪魔のようにも見えた。

 その足の下から小さく呻き声が聞こえてきて、トリウムの顔がさらに引きつった。“風”の二つ名を持ち、東部と北部を中心として名を馳せている男を足蹴に、ましてや踏みつけることの出来る人間など、どこを探しても彼しかいないだろう。


「ああ、気にするな? トリウム」

「無茶言わないで下さい、クーレン先生っ」


 トリウムの主張の方が、極一般的な反応だろう。しかし、バザックと友となってから人格崩壊が加速したといわれるクーレンは、にっこりと笑い、踏みつける足に力を込めた。


「気にするな。どうせ死なん」


 そういう問題じゃない、と叫ぼうとしたトリウムの前に、しかし救いは現れた。手触りの良さそうな銀の髪を三つ編みにした女性が、荷物を引きずるようにして現れたためだ。


「あら、クーレン、ダメじゃない。子どもたちの教育に悪いわよ?」


 彼女の口からにこやかに紡がれた言葉は、やはり激しくずれていた。だが、クーレンの足をどかせるだけの力はあった。

 妻に視線を向け、クーレンは先ほどまでとは違う笑みを浮かべる。優しいその笑みは、バザックに向けていたものとは天と地ほどの差があった。そして彼は、そうだな、という端的な呟きと共に、バザックの頭から足を退けた。


「あー、死ぬかと思った」


 微塵もそんなことは思っていないだろう、と突っ込みたくなるほどのん気なことこの上ない口調で呟いたバザックは、アリアに気付いて軽く片手を挙げた。


「よ、アリア。荷物をまとめてくれたのか?」

「ええ、大体これで全部だと思うけれど。忘れ物がないか、ちょっと確認してきてくれる?」

「分かった」


 バザックは頷き、すぐに立ち上がる。先ほどまで踏まれていたとは思えないほど早いその動作に、クーレンは嫌そうに眉根を寄せた。もっと踏んどけば良かった、という呟きを聞き取ってしまった不幸なトリウムが、泣きそうに顔をゆがめる。

 バザックも聞き取ってはいるのだろうが、気にしてもいないのだろう。そのまま悠々と、荷物の確認をしに歩き去ってしまう。長い付き合いというものは、二人の間から限りなく常識というものを取っ払ってしまったらしい。こんな長い付き合い方は嫌だな、と失礼限りないことを考えつつ、トリウムはアリアに視線を向けた。

 彼女と出会ってからクーレンの人格崩壊が修正されたとも、別の方向に捻じ曲がったとも言われている女性は、そんなことなどつゆ知らず穏やかな顔で笑う。どうしてこの人がクーレン先生の妻をやれるんだろう、というのは、トリウムの偽らざる本音だ。そして、大多数の人間の意見でもあるだろう。


「もう、すぐに行かれるんですか?」


 軽く頭を振り、様々な感慨を一気に振り払ったトリウムは、確認すべき事柄を優先した。それにクーレンは笑って、頷きを返答とした。


「一週間、お世話になりました」


 アリアの柔らかな声が響くのと、最後の確認を終えたバザックが戻ってきたのは、同時だった。




 ルドは『地吹雪』の他の面々と共に、去っていく車を見送っていた。自分をここに連れて来た張本人である三人は唐突に、慌しく帰っていった。

 それを見ながら、ルドはぼんやりと昨日のことを思い出していた。

 トリウムや他の面々は彼らが帰ることを知らなかったようだが、ルドは知っていた。いや、気付いた、とでも言うべきだろうか。


『ルド君』


 それは昨夜、一人で外を見ていたときだった。アリアに声を掛けられて、ルドはゆっくりと振り返る。


『ここには馴染んだ? バザックはもう、大丈夫じゃないかって言ってたけど』


 ルドは何も答えなかった。いや、答えようとしたのだが、言葉が見つからなかったのだ。困惑したような紫の瞳を見返して、深紅の瞳が柔らかく微笑んだ。


『明日でちょうど、一週間ね』


 それが、ルドが『地吹雪』へと来てからの日数であるということはすぐに分かった。


『ヴィル君とか、サーレ君とかとはよく一緒にいるわよね。最近は、一緒にお仕事にも行ってるんでしょう?』


 ヴィルフールやサーレは、普段は何かしらの仕事を探してきてはやっている。最近はバザックやクーレンの手伝いをしていることも多かったが。


『別に』


 それは事実でもあるのだが、ルドは素っ気ない答えを返した。


『うーん、もうちょっと時間がいるのかしら?』


 アリアは柔らかく微笑んだまま、ルドには理解できない呟きを落とす。

 ルドはアリアから目線を外すと、窓の外へと視線を戻した。広がる景色は、広がるだけだった荒野でも、雪の降り積もった白と黒のみの景色でもない。乾いた大地は変わらなかったが、そこには人の営みがあった。並んだ建物。道を通る人々。全てが知らない、見ない光景だった。


『珍しい?』

『さぁな』


 やはり、ルドの答えは素っ気ない。

 だが、アリアは笑みを浮かべて、彼の頭を軽く撫でた。瞬間、驚きに勢い良く飛び退ったルドは叫びこそしなかったものの、全身で何をするんだ、と訴えていた。それに、アリアは明るい笑い声を響かせる。


『うん、大丈夫そうねっ』

『……は?』


 全くもって意味が分からなかった。困惑に瞳を瞬かせるも、アリアはにこにこと笑っているだけだ。思わず、ルドは助けを求めるかのように周囲に視線を向けた。とはいえ、ヴィルフールもサーレも部屋に戻っている状況では、助けを求める相手などいなかったのだが。

 そこでようやく、ルドは己の行動に気がついた。助けを求めるなど、今まで一度たりともしたことがなかったというのに、何を探しているのだろう。

 どうして、誰かがいたら助けてくれるかもしれない、などという、よく分からない期待を抱いているのか。

 自分の行動に絶句してしまったルドに、アリアは何を思ったのか。再び手を伸ばし、彼の頭をそっと撫でた。

 それを振り払う気力もなく、なされるがままになっているルドに、アリアは微笑む。それは柔らかな、優しい笑みだった。ルドがここに来るまでに、見たことのない種類の笑み。けれどここに来てからは、何度となく見た笑みだった。


『ね、ルド君。たくさんたくさん、見つけておいで?』


 何についてなのか分からず、ルドは目を瞬かせる。アリアは口元に人差し指を当てて、悪戯を思いついた子どものような顔で笑った。


『探すものが何かは、ルド君が考えるのよ。ただね、たくさん、見つけてきて欲しいの。何か、ルド君にとって新しいもの。大切だと思えるもの。そんな記憶とか、思い出とか?』


 なぜ疑問形になるのだろうかと思いつつ、ルドは黙って聞いていた。不思議な気持ちになりながら。


『思い出って、別に特別なことじゃないのよ? 毎日の暮らしが大切な、大切な宝物になるような。そんな何かを、見つけてきてほしいの』


 思い出といわれても、ルドには何も思い出せなかった。

 ただ、ふと一つだけ思い浮かぶのは、一人の少年の姿。色彩の鮮やかな、世界に祝福されたかのような少年。それはまるで、呪いにも似て。

 けれど、それは思い出とは違う。子どもたちの中で特別な存在であったことは確かだが、それだけだ。顔立ちはいたって普通の、しかし色彩だけが鮮やかなためひどく印象に残っている、そんな存在だというだけだ。何度か言葉を交わしたことがあるだけの、存在。

 けれどその少年が真っ先に思い浮かぶほどに、あの場所には思い出というものが存在していなかった。あるのは、記憶のみだ。ただ、繰り返される毎日をなぞり続けた、それだけの、記憶。

 改めて突きつけられた何かに、ルドは呆然とした。手の中にあった何かが、零れ落ちていくのが分かる。自分の中の何かが、空になっていく感覚。

 無意識に震えた手を、何かが掴んだ。かすかな熱を持ったそれが、アリアの手であるということに気付くのに、数秒もの時間を要した。


『だからね。次に私が来るときまでに、何か探しておいて? 私も、何か用意しておくから』


 約束、といいながら小指を差し出してきたアリアに、ルドは意味が分からず目をしばたかせる。知らないのね、と器用に小首を傾げて見せたアリアは、にっこりと笑みを浮かべて彼の手を取った。


『いい、こうするのよ? ゆーびきーりげーんまーんーうーそついたらはーりせんぼんのーますっ』


 自分の小指にルドの小指を絡ませて、アリアは実に気の抜ける声で歌い始めた。抗議する気力すら奪っていきそうな穏やかすぎる声に、ルドは脱力してなされるがままになっていた。


『ゆーびきった!』


 子どものように楽しげな声を上げて、アリアは小指を離した。そして、にっこりと極上の笑みを浮かべる。


『はい、これで約束成立ね。今度、私たちが来るまでに、何か用意しておくのよ?』


 もはやわけが分からない。楽しくて仕方がないといわんばかりのアリアの輝かしい笑みと、まだ小指だけを立てた状態の自分の手を交互に見て、ルドは目を瞬かせる。他に反応のしようがなかった。

 ややあって手を下ろし、ルドはアリアへと視線を向けた。


『また、って……』


 来るのか、と続けようとした言葉を、彼は喉元でとめた。聞いてどうするんだ、と途中で思いとどまったからだ。

 だが、アリアには伝わったらしかった。そうよ、と笑い、彼女はルドの顔を覗き込む。


『また、よ。今度来るの、いつになるか分からないけど。必ず来るから。ね?』


 心配ならもう一回約束しておく? と再び小指を差し出してくる彼女に、ルドは首を横に振った。それに一瞬だけ残念そうな顔を見せるも、アリアはすぐにまた笑顔になる。


『さ、そろそろ寝ないとっ。ルド君、おやすみなさーい』


 ちゃんと温かくして寝るのよー、と言い残して踵を返したアリアを、ルドはぼんやりと見送った。

 それが昨夜の会話。だからこそ、ルドは彼らが帰るのだろうな、と何となく理解していた。

 しかし。自分をこの場所へと導いた、もとい連れてきた三人は、本当にわけの分からない人たちだった、と改めて思う。大体、次に会うときまでに見つけておけ、と言われても、何のことだか分かったものじゃない。


「ルド? ルド、聞いてる?」


 ふいに横から声を掛けられ、ルドは目だけを動かして相手を見やる。


「今から、ゾイス先生の手伝いに行くんだけど。君も来る?」


 問いかけてきたヴィルフールと、その横に立っているサーレの姿が視界に入る。


「ああ」


 素っ気ない返事をすると、ヴィルフールは柔らかな笑みを浮かべた。じゃあ行こうか、とその方角を指差し、足をそちらへと向ける。

 それについて自然と歩き出しながら、ルドはふと尋ねた。


「なぁ。思い出って、どんなのだ?」

「思い出?」


 唐突な問いにも、ヴィルフールはいぶかしみはしなかった。サーレで慣らされているせいかもしれない。


「どんなの、と言われても……サーレ、どう思う?」

「印象に残る記憶」

「そういうことを尋ねられてるんじゃないと思うけど」


 的外れなサーレの回答に、ヴィルフールは呆れた顔をした。だが、サーレがそれ以上言葉を発しそうにないことを見て取り、うーん、と首を捻る。


「まぁ、思い出っていっても色々だしね。やっぱり、思い出したくない記憶とかもたくさんあるわけだし」

「そうだな」


 珍しく同意を返したサーレに、ヴィルフールだけでなくルドも目を見張った。二人の視線が集中する中、サーレはぼんやりと空を仰いだ。この時期の北部に多い、曇った、光の薄い空だった。


「残念……」

「いや、サーレ。意味が分からないからね?」


 いつものように訳の分からないサーレの言動に、いつものようにヴィルフールがツッコミを入れる。そんな見慣れすぎて日常のごく一部と化した光景に、ルドは冷めた目を向けた。


「えぇと……ルドは? 何か思い出ってある?」


 それに気付いたヴィルフールが、やや冷たくなった空気をどうにかしようとルドに話しかける。


「ない」


 だが、どうやら話題を間違ったらしい。一秒もかかっていないと思われるほどの即答で返され、ヴィルフールは言葉に詰まった。


「そういうお前は?」

「え」


 それどころか突っ込み返されて、ヴィルフールはさらに言葉に詰まる。サーレがなぜか無表情でやる気のない拍手を送っていることに気付き、困惑は苛立ちへと若干の変化を見せたが。


「思い出、ねぇ……うーん。僕もそこまで、思い当たる節はないんだよね。今のところ」


 悩みながらのヴィルフールの言葉を、ルドは意外に思いながら聞いていた。穏やかな彼は、とても優しい世界で生きてきたように見えたからだ。何となく視線が集まる中、何を思ったのかヴィルフールは、二人に対して慌てたように手を振って見せた。


「あ。だからって、別に悪いことばかりだったとかじゃないからね。いいことも悪いことも色々とあったんだけど、なんていうかな。どっちかというと、どれを言うべきなんだろう、というか……」


 言っているうちに自分でも分からなくなってきたのだろう、最後の方は首を傾げながらの言葉だった。彼としては珍しいことである。

 それだけ、色々と思ってきたことが多いのか。ルドには判別がつかない。ただ、不思議な感慨を覚えながら、彼の方を見ていた。


「とりあえず、全部?」

「それは記憶にある限り全部話せ、ということなのかな、サーレ」


 サーレは彼とは別の感想を持ったらしい。さらりと無茶な要求をしてくるサーレに、ヴィルフールは引きつった笑みを浮かべる。だが、サーレは空気を読むことをせず、こっくりと頷いた。そして親指を立てる。


「良し」

「良くないよっ」


 その手を叩き落として、ヴィルフールは大きくため息を吐いた。なぜだか、妙に疲れる。


「落ち着け。これもまた思い出の一幕」

「……だ、そうだよルド」


 呆れ果てたとばかりに肩を落とすヴィルフールに、ルドは冷めた目を向けた。結局、彼の聞きたいようなことが何一つとして出てこなかったからだ。


「まぁ、あれだ」


 そんな周囲の状況などものともせず、サーレはふっと空へ視線を向けた。


「今から作ればいいだろう。思い出」


 ぽつりと落とされた言葉に、ヴィルフールとルドは目を見開いて彼を見る。その当の本人は、気にも留めずに空を見ていた。

 いつもと良く似た、けれど少しだけ違う一日が、始まろうとしていた。

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