【5】 少年と周囲との関係
ベッドの上に寝転んでいたためか、ルドは気付くとうたた寝をしていた。襲ってくる睡魔を振り払う気も起きず、そのまままどろみの中へと入っていく。
だが、無粋ともいえる扉を叩く音によって、強制的に現実へと帰還させられた。
「……うるさい……」
思わずルドが呟いたのと同時に、扉が大仰な音を立てて開いた。わざとそうしたとしか思えないその音の響きに、ルドは不快気に眉根を寄せる。
だが、入ってきた人物はそんなことお構いなしだ。大またに歩み寄ると、上からルドの顔を覗き込む。
「ルド、寝てるのか?」
薄目を開けてその顔を見たルドは、うっとうしそうに体ごと逸らした。毛布を引き寄せ、そのまま体を包み込む。
「って、おい。その反応はあんまりじゃないか?」
さすがに相手は苦笑した。
やってきたのは、黒い髪と瞳を持つ青年だった。歳は二十代前半くらいだろう、精悍な顔立ちをしている。
ここに来てから、ヴィルフールやサーレの次にこちらに構ってくる相手だ。頻度が低いのは、単に彼には他にもすることが多くあるためだろう。何せ彼は、この『地吹雪』の管理をしている責任者である。名をトリウム=フライネという。
「おい、ルド。飯食い損ねるぞ。ヴィルとサーレが、降りてこないと言うから呼びに来たんだが。それとも、具合でも悪いのか? 何か簡単なものでも持ってくるか?」
「……余計なお世話だ」
よく喋る、と思いながらルドは辛らつに言い放った。トリウムはため息をつく。
「その調子だと大丈夫そうだな。でも、食事は取っておけって。いつ食べられなくなるかなんて分からないからな。それに、体力だって落ちるだろう」
本当に余計なお世話だ、とルドは舌打ちをした。ヴィルフールとサーレが筆頭だが、どうしてこうも自分に構うのか。
「おい、ルド? 聞いてるのか?」
ルドはもう、答えようとしなかった。無言の拒絶を感じ取ったトリウムは、大きくため息を吐く。
「分かった、俺はもう行くが……」
そのとき、言葉を遮るようにノックの音が響いた。
青年はルドを見やるも、彼は一向に動く気配がなかった。仕方なく、トリウムが向かいドアを開ける。
「あら、トリウム君。ここにいたのね」
やってきたのはアリアだった。その手には、パンとスープの乗った盆が持たれている。
トリウムは、ええまぁ、と苦笑した。アリアはそれにおっとりと笑い、入るわね、と断りを入れてから足を踏み入れる。
「ルド君。調子はどう?」
ルドはやはり答えなかった。が、わずかに肩が反応するように震えた。
「気分が悪いのなら、早く休んだ方がいいわ。まだ、ここに来て三日しか経っていないんだもの。本調子じゃないでしょう?」
答えを期待しない口調で、アリアは柔らかく言葉を紡いでいく。ベッドの横にある小さな棚の上に盆を置き、ふわりと一度、ルドの頭を撫でる。少年の肩がかすかに震えた。
俺にはとても出来ないまねだなぁ、とトリウムは密かに感嘆する。培ってきた経験の差なのか、アリアはとても自然に彼と接する。それこそ母親のように。事実、彼女は二児の母であるが。
そんなことなど気付きもしないアリアは、扉のところに立ったままだったトリウムのほうを振り向いた。
「それじゃ、行きましょうかトリウム君。あなたもまだ、夕食を食べていないでしょう?」
「ええ、まぁ」
苦笑するしかないトリウムに、アリアはやはりおっとりと笑った。
「じゃあ、ルド君。何かあったら呼んでね」
「じゃあな」
その言葉を残して、アリアとトリウムは去っていく。パタン、と扉の閉まる音がすると同時に、ルドはのそりと起き上がった。
「……苦手だ……」
何となく、ルドはアリアが苦手だった。穏やかで、穏やかすぎて、なんだか逆らえないのだ。うぅむ、と小さく唸り、ルドは肩を落とす。
ただ、決して嫌いではないということにまで、彼の思考は行き着いてはいなかった。まだ気付いていない、というべきだろうか。それは子どもが母に抱く憧憬によく似ているということに。
そして、ルドは置いていかれたパンとスープに視線を向けた。パンは冷えているが、スープはまだ温かいようだ。食欲という名の誘惑には勝てず、ルドはそちらへと手を伸ばし、盆を手に取った。
スプーンを手に取り、スープを口に運ぶ。美味しかった。
「…………」
ルドはなぜか、ため息を吐いた自分に気付いた。それがどうしてなのか分からず、ルドは首を捻る。
一人で食事を取るのは数日振りだった。この三日間、なぜかヴィルフールやサーレが近くにいたために、一人で食べるということはなかった。荒野をさ迷い、丸二日眠っていたとは思えないほどの回復力を見せたルドは、目を覚ました翌日にはさっさとベッドを出ていた。そのため、食事も『地吹雪』の他の子供たちと一緒にとっていた。
けれど、その前はというと、一人で食事を取るなど当たり前のことだった。荒野をさ迷っていた頃はもちろん、以前にいたところでも一人で冷めた食事を取るなど当たり前だった。
それなのに、一人での食事は妙に、味気ないような気分に襲われた。
「ルドは? どうだった?」
食堂へとやってきたトリウムとアリアを見るや、ヴィルフールは開口一番に尋ねた。
「さぁ。とりあえず調子が悪そうだったから、食事を置いてきた」
「それはトリウムじゃなく、治癒師だろ」
サーレがそちらのほうを見もせずに、あっさりと言い切る。トリウムは手ぶらで行ったが、その後を追うようにして行ったアリアが簡単な食事を持っていったのを見ているからだ。
「……お前も、かわいくないよなぁ……」
「ふぅん」
サーレは生返事をして、パンをかじる。興味なし、と顔に書かれていた。
「帰ってくるときは、調子が悪そうには見えなかったんだけど。まぁ、まだ数日しか経ってないしね。仕方ないかな」
ヴィルフールはサーレを放っておくことに決定したらしく、ルドのことのみを話している。彼も意外と自分の調子を崩そうとはしない。
そんな彼らに、バザックは楽しげな笑みを浮かべる。それに気付いたクーレンが横から彼を小突いた。
「そういえば、先生たちはいつまでいらっしゃるんですか?」
ふと思い出したようにトリウムが尋ねる。バザックは苦笑した。
「なんだか、誰からもそれを聞かれてる気がするな。さっきヴィルたちにも言ったが、そんなに長いこといるつもりはないさ」
「娘たちを両親に預けてきているからな」
クーレンが微笑し、アリアが頷く。そっか、とトリウムが小さな呟きをもらした。
「悪いなぁ……なんか、毎回毎回、来てもらって」
「あら、ここは私の故郷だもの。なんとなく放っておけないからよ」
アリアが柔らかく笑う。それだけで空気が和むような、彼女特有の笑みだ。
「ま、ゾイス師にばかり任せておくのもな。あの人、最近は技師装具のほうを多く手がけているだろう?」
「相変わらず、手足をなくす人間は後を絶たないからな。紛争に能力戦に地雷に、よくもまぁ、という感じだ。ここサリッシュウィットは」
クーレンが目を細めて、辛らつな言葉を吐く。
「それでも俺らは生きている、と。うん、詩人だねぇ」
「……どこがだ?」
ほぼ全員が、トリウムに胡乱な目を向けた。
ヴィルフールとサーレは食後、いつもよりも遅めの時間に部屋へと戻った。今はルドを一人にしておいたほうがいいのではないか、という判断からだ。
「起きてるかな、ルド」
「さぁ。とりあえず、治癒師が食器を取りに来たときは、まだ起きてたらしい」
サーレは簡単に答え、部屋をノックする。彼らの部屋でもあるのだが、ルドを気遣ったためだろう。何も告げずに部屋に入ると、彼がひどく警戒することが分かったからだ。
扉を開けると、明かりもつけていない部屋の中は暗かった。その状況から、寝ているのかもしれない、と思いながらヴィルフールは足を踏み入れる。
だがその瞬間、横からサーレに腕を掴まれて、ヴィルフールはたたらを踏んだ。不審に思って視線を向けると、彼は仕草で待て、と示した。
「ルド、起きてるのか?」
サーレの声に、ベッドの上でのそりと何かが動いた。ルドはどこか緩慢な動作で起き上がると、二人に視線を向ける。紫の瞳が、剣呑な光を帯びて二人を見据えた。
「……お前らか」
それはあまりにも素っ気ない言葉だったが、ヴィルフールは思わず彼を凝視した。
この二日。訊かれたことに答えることはあっても、それは「はい」か「いいえ」かという程度のもので。ルドが自分から喋るということは皆無だった。
だからこその驚きに、ルドは気付いているだろう。だが、ルドは何も言わない。
「寝てたか?」
そしてサーレも、やはり淡々と言葉を紡ぐ。どこか感情表現の乏しいその口調は、ヴィルフールが彼と出会ったときから変わっていない。
「……いいや」
「そうか」
サーレはヴィルフールの背中を軽く押した。それにハッとしてヴィルフールが振り向くと、サーレが顎で部屋を示す。入るぞ、ということなのだろう。
「明かりつけるぞ」
「ああ」
サーレがルドに断り、明かりをつける。ルドはベッドの上で上体を起こしたまま、二人のほうを見ていた。
「夕食は? あれで足りた?」
何となく、ヴィルフールも声を掛けてみる。ヴィルフール自身としても意外なことに、気負うことなく言葉が出た。
「……そんなに食料もないだろ」
「……そう言われると、見も蓋もないんだけどね」
しかしルドの的を射た返答に、ヴィルフールは肩を落とす。
実際、気候の面から見ても厳しいここ北部において、食糧事情は厳しいものがある。その上、情勢も荒れており、物資の流通という面ですら問題が発生しているのだ。今はバザックたちが物資を運んできてくれたためしのいでいるが、今後はどうなるか分からない。
そのような状況なので、そう言われても無理はなかった。特に、バザックたちが来るまでの間、トリウムがあまり食事を取っていなかったことを知っているヴィルフールとしては、尚更だ。
「どうにかなるだろ」
「サーレ……君は楽観的すぎ……」
緊張感のないサーレの言葉に、ヴィルフールは肩を落とした。
「心配せずとも、動きの鈍らない程度には食べる」
「そ、そう?」
ルドの素っ気ない言葉に、ヴィルフールはそれ以上何も言いようがなく、自分のベッドのほうへと向かう。サーレも同じように、自分のベッドへと向かった。彼はやはり、いつもどおりだ。
寝る準備をしながら、ヴィルフールは横目でルドを窺った。彼はやはり上体を起こしたまま頬杖をつき、面白くもなさそうな表情で壁を見ている。その横顔から、何を考えているのかはうかがい知れなかった。
もっとも、何を考えているのかよく分からないというのは、サーレでだいぶ慣らされている。とはいえ、喋る回数の少なさにおいてはサーレと比べるべくもないが。しかし、サーレはかなりの頻度で分からないことを言うので、理解度という点においてはあまり変わらないかもしれない。
そこまで考えて、ヴィルフールはため息をつきたい心境にかられた。どうも、厄介な性格をした人が周囲に多い気がする。そして多分、気のせいではない。
「なに、ため息なんかついてるんだ?」
実際に、ため息が零れ落ちてしまっていたらしい。無表情のままのサーレに尋ねられ、ヴィルフールは肩をすくめた。
「なんでもないよ」
「そうか」
「そう」
「ふぅん」
実のない短いやり取りを交わしながら、二人は寝る準備を着々と整えていく。その間、ルドは黙ってそれを眺めていた。
特に話すこともなく、沈黙が続く。とはいえ、寝る準備などそう時間のかかるものではない。すぐに終えてしまったヴィルフールはベッドに腰掛けた。
サーレはまだ寝る準備が終わってなく、黙々と作業をしている。彼は元々、口数の多いほうではない。
そしてルドのほうに視線を向けると、彼と目が合った。
「…………」
しかし、特に話題が思い浮かばず、双方無言のままとなる。非常に居心地が悪い。
どうしよう、とヴィルフールは思い、サーレのほうに視線を転じようとしたそのとき。
「…………おい」
話しかけられて、ヴィルフールは一瞬、動きを止めた。
「え、あ、なに?」
そして、返事をするときに少しどもってしまった。まさか、ルドが声を掛けてくるとは思ってもみなかったからだ。
「明日は」
「明日?」
ルドはふてくされたように視線をやや外したまま、言葉を紡ぐ。ヴィルフールは言われた意味が分からず、首を傾げた。
「明日は、何をするんだ」
どうやら明日の予定を聞いているらしい。それに気付き、ヴィルフールは微笑んだ。
「明日は街を回る予定だよ」
「……街を?」
何をしに、と暗に問うルドに、ヴィルフールは苦笑した。
「見回り、かな。救援作業の手伝い」
「……お前らが?」
ルドは思わず目を見張り、まじまじとヴィルフールを見やる。
サーレもヴィルフールも、まだ子どもだ。そうそう何か出来るようには見えない。特にヴィルフールは、そうしたことが向いていないように見えた。背丈があり、それなりに体格のしっかりしているサーレはまだしも、ヴィルフールは細身だ。背丈は他の子どもたちと変わりないくらいだが、体つきは華奢といえるほどに細い。
「そう意外かな。結構、昔からやってることなんだけど」
よく言われるけど、とヴィルフールは苦笑する。
「お前、細っこいから」
「まぁ、サーレは背も高いし、がたいもあるからね。羨ましいよ」
ヴィルフールは苦笑して、サーレを見やる。その言葉に嫌味が含まれているようには聞こえなかった。
「身長は、それなりに伸びるんじゃないかと思うんだけど。どうも、筋肉はつきにくい体質をしてるみたいなんだよ。どうしても細く見えるし」
深くため息をつくヴィルフールに、サーレは眉根を寄せた。
「ヴィル、お前その顔で筋肉ついても似合わないから、やめとけ」
ヴィルフールは女性と見まごうようなことこそないものの、繊細な顔立ちをしている。咲き誇る花の色をした髪も、濡れたように輝く宝石のような赤紫の瞳も、少年の姿に華やかさを与えている。すでにそれだけの美貌を兼ね備えた美少年は、成長すれば美青年になることが現段階で確定している。
しかし、それが本人の望みと一致するかというと、そうではない。
「でも、なめられるっていうか……馬鹿にされるんだよね。迫力がないみたいで」
確かに、迫力という点においては欠けるかもしれない。ルドは、顔に迫力を求めるってどんなんだ、と密かに疑問を抱いたが。
「まぁ、お前の顔は極めれば使えるぞ?」
「どんな極め方だよ……ついでに、運動神経にも難ありだからね、僕は」
「ああ、お前、反射神経と動体視力、皆無に等しいから」
「……納得されると、ものすごく腹が立つものだね、サーレ。言わないでくれるかい?」
ヴィルフールはにこやかな笑みを浮かべたまま、サーレを見やる。澄んだ彼の声は柔らかく、涼しげだ。だが今は、それに冷え冷えとした何かが追加されていた。顔立ちが整っているだけに、瞳にうっすらと浮かび上がる怒りの様は、妙な迫力があった。
なるほど、極めれば使える、とルドは密かに納得した。
そのとき、急に振り向いたヴィルフールと目が合う。思わず動揺を表に出したルドに、ヴィルフールはやはり柔らかく笑った。その瞳には、すでに先ほどまでの不機嫌さなど微塵も残っていなかった。
「とにかく、僕たちの明日の予定は、街を見て回ることだけど……ルドも来る?」
尋ねられて、ルドは驚きに目を見開いた。
それはヴィルフールたちの問いに対する驚きではなく、自身に対する問いかけだった。
なぜ、わざわざ彼らの予定など聞いたのだろうか。別に、一緒に行動するつもりなどないというのに。
きっと、ただ、いつもどこかへといなくなる彼らが、何をしているのか、気になったのだろう。本当に、うっとうしくなりそうなくらい、彼らはやってくるから。
そう無理やりに自分を納得させて、ルドはヴィルフールから視線を逸らした。そしてベッドの上に倒れこむと、毛布を頭まで引き寄せる。
「ルド?」
ヴィルフールの困ったような声に、ルドは素っ気なく答えた。
「……気が、向いたらな」
それだけ言って、ルドは彼らの存在を頭から追い払った。余計なことに煩わされて、寝入れなくなりそうだったからだ。
だから、ルドは知らない。
そんな彼の頭上で、ヴィルフールとサーレが視線を合わせて、かすかに笑みを交し合ったことを。その笑みに、喜びが滲んでいたことを。