【4】 大切な、左腕に刻まれた刻印
ルドがあの奇妙な一行に出会い、奇妙な場所に連れて来られてから、すでに三日が経過しようとしていた。
その間に、ルドが知ったことはいくつもある。
まず、ここはウィルステル北部にある、サリッシュウィットという街だということ。北端に近い街の中では最も大きいところで、『最後の溜まり場』とも呼ばれる街らしい。
またここに来る前の自分は、そのサリッシュウィットからやや離れた場所の荒野を、さ迷いつづけていたということ。
そして自分は孤児たちの集団の中に、一時的に引き取られたのだということ。ヴィルフールやサーレも、そうしてここで暮らす孤児の一人であるということ。
だが、ルド自身がどこから来たのかは分からなかった。本人にも分かっていない事柄でもあったのだが、ルドは結局、名前以外のことを周囲に何一つとして語っていなかった。
ただルドが驚いたのは、このサリッシュウィットでの暮らしが、前にいた場所とはあまりにも異なるということだ。
同じウィルステル、しかも北部であるため、自分の元いた場所とあまり距離は離れていないはずである。しかし、この違いは何なのだろうかと驚き、いちいち戸惑うくらい、ルドの今までの暮らしとは違っていた。
実験も訓練もなく、検査があるわけでもない。そして妙に子供も大人も、馴れ合って暮らしているような感を受ける。こんなことでは、いざ周囲の人間が敵に回ったとき、戦えるのだろうか。
ルドにとっては、何もかもが不思議だった。
不思議といえば、他にもある。それは。
「ルド、いた!」
「一人でさっさと消えるな。いや消えてもいいが、一言声を掛けろ」
柔らかな薄紅色と、淡い水色と。目立つ髪色二人組、つまりはヴィルフールとサーレが、ルドの元へと駆け寄ってくる。
彼ら二人は、理由は不明だが何かにつけてルドの世話を焼いていた。分からないことがあれば手を差し伸べ、一人で集団から離れていても放置しておいてくれるが、戻る時間になるとこうして迎えに来る。
「良かったよ、近くにいて。……それにしても珍しいな。サーレがちゃんと、意味の分かる言葉を、脈絡を持って、話してるよ」
ルドのところまで駆け寄ってきたヴィルフールは、ホッとしたように笑ってから、思い出したようにサーレを見る。
サーレは腕を組み、憮然とした表情で答えた。
「俺は突発言語製造機か」
「ほらね、意味が分からない」
ヴィルフールは肩をすくめてから、ルドの顔を覗き込む。
「帰ろう。もうすぐ夕飯時だよ」
「戻らんと食いっぱぐれるぞ」
軽く肩を叩いて促すヴィルフールと、来いとばかりに掌を自分のほうに引き寄せるような仕草をするサーレ。
訳の分からない筆頭に上げるとしたら、この二人が一番だろう。他にも孤児は大勢いるが、最初は興味本意で寄って来ても、睨みつけると大抵が怯えて近寄らなくなるというのに。
ヴィルフールもサーレも、初対面の印象など良くもないはずだ。ヴィルフールはいきなり首を絞めたし、それを助けようとしたサーレとは軽く一悶着を起こした。それなのに、なぜかこの二人、やたらと構ってくる。
第一、こうも人に構う理由が分からない。他人など放って置けばいいのだ。野垂れ死のうが何だろうが、関係のないことだというのに。
「おい、早く来いよ」
そんなことを悶々と考え、ぼんやりとしてしまっていたルドは、サーレの声で我に返った。すでに歩き出している二人を見て、不承不承といった風に彼らの後に続く。なんにしても食事が取れ、屋根がある場所というのは、ルドにとっても必要なものだった。
そのため、色々と考えながらもとりあえず、ルドは二人について戻る。
彼らが、『地吹雪』と呼んでいる集団の、元へと。
あちこちが簡単に修繕してある、古びた建物。その場所こそが、孤児たちが集まって暮らしているところであり、ヴィルフールやサーレの家であり、ルドが一時的に身を寄せることになった場所である。
三人の姿を見ると、すでに戻ってきていたらしい他の子たちが、口々におかえり、と彼らに声をかける。ヴィルフールは生真面目に、サーレは適当にそれに応えるが、ルドは終始無言のままだった。
「いよぉ。お前らが最後だぞ、三人組!」
いつの間に三人組になったんだ、というのはルドの内心の叫びだったが、声に出していないため相手に伝わるはずがない。
大きな声で三人を出迎えたバザックは、大げさな仕草で手を振った。
「おっさん、医師と治癒師は?」
サーレは特に気にした様子もなく、手にしていた包みを近くの台の上に置いた。彼の中で、バザックの呼び名はおっさんに、クーレンの呼び名は医師に、アリアの呼び名は治癒師に決定しているらしい。
「アリアに付き添ってるよ。だいぶ精神力を使用したからな、今は休んでるんだ。……しかし、俺も医者なんだけどな、サーレ」
さすがに苦笑するバザックに、サーレはそうか、と頷いた。その態度から察するに、バザックも医者だという事実を認めただけで、呼び名を変える気はないらしい。
「つーか、今はお前らも若いけどな、おっさん候補ではあるんだからな」
「そうか。んで、トリウムは?」
サーレは見事なまでに流した。
「まだ、外の見回りに行ってるよ。戻るまでよろしくとさ」
しかし、バザックも別に気にしてはいないらしい。あっさりと答える。サーレはそれに頷くと、外套を脱ぎ始めた。
「そういえば、バザック先生たちは今回、いつまでいるんですか?」
すでに外套を脱ぎ終わったヴィルフールが、片手に外それを持ったまま尋ねる。
「そうだな、はっきりとは決めていないが……そう長くは居ないだろうな。今回はまだ被害が小さいほうだから、あとはこっちの奴らでどうにかなるだろうし……俺はともかく、クーレンとアリアをいつまでもこっちに居させるわけにはいかないからな」
「そっか……クーレン先生たちの娘さん、まだ二歳でしたよね」
納得したようにヴィルフールが頷く。サーレが首を傾げた。
「医師の娘って、俺らの三つ上じゃなかったか?」
「それは上の娘さんだよ。そうじゃなくて、下の娘さんの方」
「あぁ、なるほど」
サーレが納得したように頷く。
ルドはそんな一連の会話を聞いていたものの、すぐに自分の部屋へ戻ろうと歩みを進める。
「あ、ルド」
そんな彼に気付き、ヴィルフールが声を掛けるが、ルドは振り返りもしなかった。
「飯には来いよ」
サーレがそう声を掛けると同時に、廊下の角を曲がって彼の姿は見えなくなる。
頑なに拒絶するかのようなルドの背を見送った三人は、顔を見合わせた。
「三日たつけど、相変わらずだね」
「まぁ、まだ三日目だからなぁ。結構かかるもんだって、やっぱ」
「そうだな」
少し残念そうに苦笑したヴィルの頭を、バザックが慰めるかのように軽く叩いた。サーレが軽く上体を逸らして天井を仰ぐ。
「まぁ、そのうち話すようになるだろ」
「そうだけどね……」
「慣れないんだろ」
サーレの呟きに、ヴィルフールが彼を見やる。サーレは彼の方を見ず、天井を仰いだまま言葉を続ける。
「慣れないんだろ、人と接することに。優しさとか、ぬくもりとか、そういったものに慣れてねぇんだ。どう接していいのか分からない、そして自分に向けられる感情の種類が分からない。どんな育ち方してきたんだか知らねぇけどな、あいつの目はそんな目してる。悲しいことも寂しいことも知らないような、気付いていないような目だ」
ヴィルフールは少し驚いたように、そして意外そうにサーレを見た。
「……何だか、自分がそうだったような、言い方だね」
すると、サーレは視線を下げ、普段と変わらぬ表情でヴィルフールを見た。何を考えているのか掴みにくいといわれる、彼独特の、澄ましたような表情だ。紺碧の瞳はどこまでも無感動で、どこか人間味が欠けているような印象を受ける。
「いや。俺はそうでもない。俺は……」
そこで、サーレの言葉が止まった。何かを思い出すように、どこか遠くを見るような目をする。目の前にいるヴィルフールではなく、その向こうにいる、誰かを見るような目を。
「……サーレ?」
ヴィルフールは不思議そうに、そんな彼の名を呼んだ。その声には、どこか心配そうな響きも混じっている。
サーレと出会ってから日の浅いヴィルフールは、彼の過去を知っているわけではない。まだ十二歳であるとはいえ、自分もサーレも、孤児としてここに引き取られた身だ。その間に、どんな悲しいことや苦しいことがあったのか、知りはしない。だからこそ、何か余計なことを言い、辛いことを思い出させてしまったのではないかと心配したのだが。
ややあって、そのままの表情でサーレが紡ぎ出した言葉は。
「……花、見に行きてぇな」
という、非常に意味の分からないものだった。ヴィルフールは思わずこけそうになる。
サーレの中では、何かしらの理由があってこの言葉にたどり着いたのかもしれないが、それをヴィルフールに察せという方が土台無理な話である。もっとも、サーレが理解してほしいと思っているかは謎だが。
本当に何考えてるんだか分からない、と頭を抱えるヴィルフールに、見ていたバザックは苦笑する。
「お前も、手札を見せたがらない奴だよなぁ」
「手札?」
カードの類は持っていない、と真面目な顔で言い切ったサーレに、バザックは軽く肩をすくめた。
「ま、いいや。しかしお前ら、初対面の印象、最悪だったっぽい割には、あいつのこと気に掛けるよなぁ」
ヴィルフールは看病をしていたというのに、ルドが目を覚ますなり首を絞められ。サーレも一戦というほどではないが、スピリット・パワーを使うような荒事を起こしている。
バザックたちは後からそのことを聞いたのだが、その割には彼らの関係は険悪になっていない。むしろ、この『地吹雪』にいる子どもたちの中で、ヴィルフールとサーレの二人が、唯一ルドと行動を共にしようとしている。他の子供たちなどは、彼のあまりの険悪さに怖がって、近寄ろうともしないのに。
「まぁ、混乱している相手が、いきなり仕掛けてくるのは珍しくはないよ。……とはいっても、目覚めるなり動けて、さらに正確に気道と大動脈を締め上げてくるとは、さすがに思わなかったけど」
ヴィルフールは苦笑する。ああ、とサーレも頷いた。
「肉体的にも精神的にも、だいぶ衰弱してたからな。目覚めてもすぐには動けないだろうってことで、ヴィルに任せてたんだが……失敗だったな。こいつ、反射神経鈍いし」
「……あっさりと言ってくれるよね、サーレ」
ヴィルフールは冷たい目でサーレを見る。とはいえ、この寒色系の少年はその程度で動じてくれるような可愛らしい神経は持っておらず、またヴィルフールとしても事実であることは分かっているので強くも言えない。
「しっかし、本当、どんな生活をしていたんだろうな……」
ここに来てから、彼がこっそりと人目につかないところで、体を動かしているのをバザックは知っている。無論、それがただ体を動かすようなものではなく、実戦でも使えるものであるということは、バザックには一目見て分かった。そして、同時に思い出すのは、彼の腕に彫られていた記号。
「究極に訳ありって奴、かねぇ」
肩をすくめて呟いた彼に、ヴィルフールとサーレは不審なものでも見るかのような目を向けた。前後関係の不明な独り言を呟く彼は、ただの意味不明なおっさんでしかなかったからである。
部屋に戻ったルドは、大きく息を吐き出した。
自室とはいえ、無論ルド一人の部屋ではない。一人一室が与えられるような居住環境ではなく、彼のこの部屋はヴィルフールとサーレと共同となっている。
最初は彼ら二人と同室ではなかったのだが、人を寄せ付けない彼の態度に同室だった子供が怯えたことと、彼ら二人が最も親しい……かどうかはともかくとしても、とりあえずルドと一緒にいてもさほど問題がないということで、こうした部屋割りとなった。
大またにベッドまで歩み寄ると、彼はそのまま倒れこむようにして横になる。青い髪が乱れて、使い古したシーツの上に広がった。窓から差し込む薄日を、紫の瞳をわずかに開いてぼんやりと眺める。
この三日間。ルドにとってのここでの暮らしは、穏やかなものだった。
とはいえ、本当に穏やかだったわけではない。バザックたちがここサリッシュウィットを訪れたのが、ここが紛争に巻き込まれたからだというのが第一の理由であるように、この辺りも何かと物騒なのだ。だがそれでも、それまで日常的に行ってきた訓練やら何やらがない生活は、彼にとっては自由であり穏やかだった。
そしてそれゆえに、彼はどこか、焦りのようなものを感じていた。
唐突に安穏とした世界に放り出されたルドは、自分の居場所をそこに見いだせないでいた。
今まで、とにかく強くなることのみを念頭においてきたため、それ以外のことが全く分からない。生活の仕方も、一日のあり方も、これまでと全く違う。
「……帰りたい……」
ポツリと口から漏れるのは、今まで滅多に口にしたことのない弱音だった。
そう、帰りたいのだ。どんな場所であろうとも、あそこが自分の居場所なのだ。
だが、帰り方が分からない。どうすれば、あの場所に戻れるのか。
そもそも、あの場所はどこだったのか。
分からない。だが、分からなくては戻れない。
堂々巡りの思考は、ただただ彼の精神を焦らせ、そして追い込んでいく。自分の居場所を見出せず、助けを求めるべき相手も分からない。何を信用していいのかも分からずに、とにかくひたすら、時間だけが過ぎていく。
「どうしろって……いうんだよ……」
呟いて、ルドは緩慢な動作で左腕に視線を落とす。ごろりと転がって仰向けに寝なおすと、天井へと手を伸ばすかのように、左腕を上げる。そして右手で袖口を掴むと、一気に肩口まで引き下げた。
二の腕に彫られている文字は、個を識別するためのもの。それは今の彼にとって、唯一自分を自分だと表すものであった。
それを確かめるかのように。彼は包み込むようにそっと、自分の左腕を握り締める。
将来、その刻印が何よりも疎ましいものとなり、自らの手で消し去る日が来ようとも。
確かにそのときの彼にとって、その刻印は、何よりも愛しむべきものだった。