【25】 大切なものを見失わないように
三人を見つけるなり、アリアは笑みを浮かべる。柔らかなその笑みは相変わらずで、本当にどうしてこの人がこのクーレンの妻なのだろうかと、見る人を真剣に考え込ませるものだった。
「良かったわ、二人ともそこにいたのね。ルド君も出かけたって聞いてたけど、帰ってたのね。お帰りなさい」
「あ、ああ。ただいま……」
この和やかなだけの笑みには何か力でもあるのだろうか。ルドは真剣にそう考えるくらい、彼女には逆らえたためしがない。今も素直に挨拶をした彼に、アリアは嬉しそうに笑う。
「アリア。何か用事だったんじゃないのか?」
その間に、やや不機嫌な表情をしたクーレンが割り込む。子供にまで嫉妬をするな、というバザックの呟きは彼の耳に届かなかった。
「ええ、そうなの。クーレンとバザック君を呼びに来たのよ」
ぽん、と手を叩いたアリアはにっこりと笑う。バザックも含まれていたが、自分が対象に入っていたので良しとしたらしいクーレンも、それに微笑み返す。
「トリウム君が呼びに行ったはずなんだけど、なんだか怯えて戻ってきちゃったから。何かあったの?」
けれど次いで放たれた言葉に、クーレンの微笑みが固まる。あーあ、とバザックが大仰に空を仰いだ。
「そうか、トリウムが、か」
わずかに俯いて、クーレンは一つ喉を鳴らした。その様に、一部始終を見ていたルドは彼が静かに怒っていることを察する。それをもっと早くに察していたであろうバザックは、肩をすくめて見せた。お手上げ、ということだろう。
「クーレン?」
「いや、なんでもないんだ、アリア。それより用事なんだろう?」
「ええ、そうみたいよ。早く行ってあげて?」
それはある意味でトリウムに対する死刑宣告にも等しい言葉なのだが、アリアは気付いていないようだった。ほんわかとした笑みに送り出されて、クーレンも微笑み返して頷く。
「そうだな」
そうしてアリアに背を向けた彼だが、その瞬間に笑みの種類が一変した。獲物を狙う肉食獣を思わせる光を瞳に宿し、そのままの表情で微笑んでいる。
あー、厄介な奴、というバザックの呆れた呟きを聞きながら、ルドは彼に心底恐怖を覚えた。色々な意味で、敵に回すと厄介そうな人物だという印象がさらに強くなったからだ。
「うん、まぁ。何かあったら俺が止めるから、うん。行くかー」
「バザック君?」
「いや、アリア、なんでもないから。気にするなって」
じゃあまた後でな、とアリアとルドに手を振って、バザックは先に歩き出したクーレンの後を追った。その姿を、ルドはなんともいえない目で見送る。
「ルド君」
残ったアリアに声をかけられて、ルドは彼女に視線を向ける。
「さっき帰ったところなんでしょう? 良かったら、何か飲まない?」
しばしの逡巡の後、ルドはその言葉に頷いた。バザックと戦い、さらにクーレンたちと話した後であるので、喉が渇いていたことは確かだったからだ。
台所に着くと、アリアはルドを座らせて飲み物の準備を始めた。何か温かいものを入れてくるわね、と言い残し、準備をしている彼女をルドはぼんやりと眺める。手際よく準備を進めていく様は、感嘆するようなものであった。手馴れていないルドがやっても、ああてきぱきとは動けないだろう。だからこそ、よくイズウェルに怒られているのだから。
そうしていると、準備を終わらせたらしいアリアがカップを二つ持って戻ってくる。
「はい、どうぞ」
ルドは差し出されたカップを受け取る。温められた牛乳が入っていて、ルドは少し珍しいな、と思いながらそれをゆっくりと口に含む。そして意外な甘さに少し目を見張った。
「蜂蜜を入れたのよ。北部だと少し珍しいでしょう?」
保存が利くから持ってきやすいのよ、とアリアは笑う。そうしながら、彼女はルドの斜め前に当たる位置に腰を下ろした。ルドはよく分からないので、適当に相槌を打ってもう一口飲む。
「美味しい?」
「ああ」
素直な感想を口にすると、アリアは嬉しそうな笑い声を響かせる。そうしてから、彼女も自分用に入れてきたものを一口飲んだ。
「バザック君に誘われて、外に行ったんでしょう?」
ふいに尋ねられ、ルドはカップを口につけたまま頷く。そうなの、と一つ頷いて、アリアは次の質問を投げかける。
「強かったでしょう、バザック君」
質問の順序をすっ飛ばしたその質問に、ルドは一瞬答え損ねた。その際、飲み込むところを間違えたらしくルドは少々むせた。
「あらあら、大丈夫?」
少し驚いたらしく目を見張り、アリアは立ち上がってルドの傍まで来ると彼の背をさする。何度かその動作を繰り返されて、ルドは大きく息を吐き出した。
「大丈夫だ」
「そう?」
安堵したようにアリアも息を吐く。そんな彼女に、ルドは半眼を向けた。
「なぜ分かった?」
「え?」
「闘った、と」
それがバザックのことを指していることに気付き、アリアは小首を傾げた。
「だって、バザック君だもの」
その一言で全ての説明が付くらしい。にこやかに笑っての答えに、ルドは脱力した。一方で妙に納得する気分にさせられるのも、なんだか酷く虚しい。
そんなルドの背を軽く叩いて、アリアは座っていたところへと戻る。
「ねぇ、ルド君。そういえば」
そうしてしばらく、二人ともゆっくりとホットミルクを飲んでいたのだが。思い出したように呟いたアリアへと、ルドは視線を向ける。
「大切なものって、見つかった?」
忘れかけていたその質問に、ルドは一瞬固まる。
「い、いや……」
忘却の彼方に葬り去ろうとしていたことへの罪悪感からか、ルドは口の中で呟くように答える。
「そうねぇ、案外難しいものね」
しかしアリアはあっさりと頷いた。
「じゃあ、前に約束したとおり、私の大切なものを教えるわね。私はね、大切なものはやっぱり娘たちかしら」
「娘?」
そういえば、前にヴィルフールたちから娘がいると聞いたような気がする、と思いつつルドは問い返す。そうよ、と頷いたアリアの顔は、今まで見た中で一番嬉しそうなものだった。
「上の娘はルド君、あなたと同じくらいの歳よ。下の子はまだ二歳だけど。とっても可愛い子たちなのよ。本当、一度会わせてあげたいわ」
アリアはいつも、優しい表情をしている。けれど今の彼女は、その中でももっとも優しい顔を浮かべていた。娘たちのことが本当に大事なのだろうと、ルドにも伝わってくるくらいに。
「上の娘は利発ね。よく気の利く子なのよ。外見的には私に似たみたいだけど、内面は私とクーレンを半々にして足したような感じだって、バザック君が言ってたわ」
それはどんな感じなのか、ルドにはさっぱりと想像が付かなかった。気難しく暗黒笑いを発するような夫と、天然過ぎるくらいにおっとりとした妻の間から生まれた娘がどんな風に育つのか、ルドにはまったく分からない。性格を半々にして足したような感じといわれると、なおさらに分からない。
色々な意味で沈黙してしまったルドに気付かず、アリアは言葉を続ける。
「下の娘はのんびりした感じかしら。でもきっと、感受性が豊かな子なんだと思うのよ、私は。どんな風に育っていくのか、楽しみだわ」
アリアは柔らかく目を細める。ルドは何度か、彼女のその表情を見たことがある。子供たちと話すときや慰めるとき、彼女はいつもそんな表情をしていた。
それが何なのか、ルドはずっと考えていた。ただ、娘たちの話をしている彼女を見て、そしてその話を聞いて、ふっと一つの単語に思い当たる。
「……母親、なんだな」
思わず呟いたルドに、アリアは一瞬きょとんとした顔をする。しかしすぐに柔らかな笑顔になった。
「そうよー。見えないって言われるけど、これでも二人の娘のお母さんなのよ」
確かに、彼女の外見は恐ろしく若い。これで子持ちだと言われても信じられないような若さだ。けれど、ルドは首を横に振る。
「いや……そんなことはないと、思う」
捉えようによっては失礼な発言なのだが、ルドは思ったままに口にした。それは、彼女の表情がとても優しいものだったから。
「そうかしら?」
アリアもそれを感じ取ったのだろう。どこか嬉しそうに、微笑ましそうに笑う。
そんな彼女の姿を見ながら、ルドの脳裏にふと少年の姿が浮かぶ。母の役に立てればそれでいいと、純粋に言い切った少年の姿。鮮やかな色彩の印象が強すぎたためだろうか、それともその言葉の衝撃が強かったためか。ただふと思い出す、その存在を。
「俺、は」
ふいに俯き、小さく言葉を放ったルドにアリアは表情を軽く目を見張る。アリアから見て、ルドは酷く不安定なのだ。強がっているかと思えば、ふとした瞬間に脆く崩れ落ちる。今にも崩れ落ちそうな装甲を、必死になって纏っているように見えるのだ。
「親を知らない」
静かに放たれた言葉に、アリアは小さく頷く。言葉を挟むことを彼女はしなかった。
「ただ、それは構わないと思ってる」
それはルドにとっては本気の言葉だった。見たことのない親を、求めようとは思わない。そうする価値を、彼は見出すことが出来ないから。
「けれど。母親を、何よりも慕っていた奴を、知っている」
少年の母親はルドも見たことがあった。けれどその女性は、ルドには到底少年が命を懸けるに値するようには見えなかった。研究員の一人であったその女性は、確かに少年を可愛がっているようだった。けれどそれはあくまでも“成功作”に向ける賛美だった。特に“成功作”の中でも貴重な少年を、彼女は溺愛したのだろう。少年ではなく、彼の能力を。
けれど。それでも少年の周囲に、彼女しかいなかったこともルドは知っている。その作り出された異端の能力ゆえに。
「そう。そのお母さんはきっと、とても嬉しいでしょうね」
アリアの声が静かに響いて、ルドは彼女へと視線を向ける。そうして、首を横に振った。
「分からない」
「そうね。私にも分からないわ。知らないことは分かりようがないもの」
静かな声は、どこか落ち着いていた。
「私はね、家族って作っていくものだって思ってるのよ」
「作る……?」
紫の瞳が、何か不思議なものを見るように細められる。それをまぶしげに見返して、アリアはゆっくりと言葉を紡いでいく。
「そう、作るの。だって、家族っていっても、結局はみんな違う存在なの。親も、子も、兄弟姉妹も。一人だって、同じじゃないのよ。だったら意見が合わなかったり、考えが食い違ったり、すれ違ったりって、当然あるわよね。でも、それを解決していきながら、一緒に生活していく。それが家族なんじゃないかしら、って」
それは願いのようだった。そうありたいと、彼女自身が望むような、願うような、そんな声であり言葉だった。
「もっとも、私の考える家族、だけどね。同じ人がいないように、同じ家族だっていないの。みんな違う、違って当たり前。だから、私は明確な答えを返せないの」
「違って当たり前、か……」
「そうよー。ほら、私とクーレンだって今は家族だけど、全然違うでしょ? そういうものなのよ」
アリアはルドに微笑みかける。どこか悪戯っぽさを感じさせるその笑みは、あまり見たことのないものだった。
「ただ私は、子供の未来は縛っちゃいけないと思ってるの。親だって人間だもの、育ててきた子供に望むことだってあるわ。でも、子供の未来は子供のもの。それだけは、絶対に忘れちゃいけないことだって思ってる」
そうしてアリアは言葉を締めくくった。深紅の瞳から除くのは優しさだけではない。強い意志と、それに伴い現れる厳しさ。己への戒めから現れたであろう厳しさだったが、ルドを驚かせるには充分だった。何せ彼女は、いつも優しい表情を浮かべている印象しかなかったのだから。
ルドは父も母も知らない。だからこそ、それがどういったものなのか見当も付かない。
ただ何となく、彼女が親だったら良かったのに、と。漠然と、そう思った。
「ねぇ、ルド君」
次にかけられた声は、優しいものだった。深紅の瞳も今までと同じように、柔らかく細められている。
「見失ったら駄目よ。あなたの、本当に大切なもの」
忘れないでね、と。小さく響いたその言葉に、ルドは眉根を寄せる。ただ分からないながらも、気付いたら頷いていた。
そんな彼に優しく笑って、アリアはそっとその頭を軽く撫でた。そして、休みましょうか、と言って空になったカップを手に取った。
数日後。
「じゃ、世話になったなー」
からからと笑いながら、バザックが手を振る。それは彼ら三人が、再び東部へと帰っていく証だった。
「ありがとうございました、先生方……」
なんだかぐったりとしたトリウムが、三人に深々と頭を下げる。その様子に、アリアを除くほとんどの人間が苦笑した。クーレンの機嫌を損ねたらしい彼が、何かと精神的に苛められていたのを知っているからである。
「クーレン。次はトリウムをあんまり苛めるな?」
「ほーう。俺が何をしたと?」
確かにトリウムが受けたのといえば、時おり不穏な笑みを向けられただけのことだ。しかしバザックの言うところの暗黒笑いは、向けられるだけで恐ろしいのである。何をされるかと、戦々恐々としていたトリウムがやつれていっても不思議はない。
「いえ、大丈夫ですから、バザック先生」
「うん、ならいいんだけどな。無茶はするなよ?」
「はい」
そんな大人たちの微妙な会話を見ながら、ルドは息を吐き出す。そんな彼に気付いて、アリアが彼のところへと歩み寄った。
「しばらく会えなくなるわね、ルド君」
ルドは頷くだけでそれに答える。アリアはにっこりと笑い、彼に手を差し出した。
「また会いましょうね?」
「……はい」
小さく答えて、ルドはアリアの手を取った。それが初対面の彼から比べると、かなりの進歩であるとよく理解しているアリアは本当に嬉しそうな笑みを浮かべる。
「またね、ルド君っ」
嬉しそうに言って、名残惜しそうに手を解いて。アリアは他の子供たちとの別れも惜しみながら、ゆっくりと歩き出す。
「淋しくなるね」
「そうだな」
そうして車に乗り込んでいく三人の姿を見ながら、ルドの両脇に居たヴィルフールとサーレが呟く。ルドは頷きこそしなかったものの、内心で同意していた。あの騒がしい三人は、ほんの数日いただけでも印象がまったく違うのだ。
仕事を斡旋してもらっていたファーリットたちも駆けつけて、賑やかな見送りの中。
見送りに来てくれた人たちに手を振り、最後に車に乗り込もうとして、バザックは動きを止めた。
「バザック君?」
「おい、どうした? 忘れ物か?」
アリアとクーレンに尋ねられ、バザックは軽く頭を振った。
「いや。なんか、帰ったらいけないような気がして」
「おい。これ以上は家を空けて置けないぞ、俺らは」
「名残惜しくなったの?」
クーレンに不機嫌な目を向けられ、アリアに首を傾げられる。しかし、その二人よりも本人であるバザックが一番首を傾げていた。何か、妙に不穏なものを感じるのだ。胸騒ぎとでもいうのだろうか。
「なんだろうなぁ」
しかし留まるわけにもいかず、バザックは車に乗り込む。
そうして、三人は東部への帰路に着いた。