【24】 自分を変えてみるということ
『地吹雪』へと戻ってきた二人を迎えたのは、暮れていく黄昏を思わせる瞳だった。呆れ果てたという感情を惜しげもなく顔に貼り付けたクーレンは、ため息と共に二人を見やる。
「こんな時間に子供を連れ出して、しかも喧嘩を吹っかける馬鹿がどこにいる。この超絶馬鹿が」
その呆れの原因は、九割以上がバザックにあるらしい。道端の石ころでも見るような視線を向けられて、バザックは謎に胸を張った。
「喧嘩じゃないぞ、腕試しだ」
「お前みたいな超絶馬鹿、滅んでしまえっ」
罵声と共にクーレンはバザックを殴り飛ばした。いつの間にか見慣れてしまったその光景に、ルドは冷めた目を向ける。
「まったく。おい、ルド。これに何か妙なことを言われなかったか?」
あっさりと友人を物扱いしながら、クーレンはルドに視線を向ける。不思議な色合いを持つ彼の瞳は、バザックとはまた違う感覚を受けた。
「いや……別に」
その瞳から逃げるように目を逸らしながら、ルドはそっけなく答える。その様子にクーレンは眉根を寄せた。
「おい、バザック。何を言った?」
そのルドの様子に何か勘違いをしたらしい。クーレンは冷えた目をバザックに向け、詰問口調で問いかける。
「いや、俺の昔とか、風についてとかだけど?」
「訳が分からん」
しかしその答えをあっさりと切り捨て、クーレンはルドに向き直った。
「別に、そんなことしか言われていない」
尋ねられることは分かっていたので、ルドは先に答える。クーレンはしばらく黙っていたが、ややあってそうか、と低く呟いた。
「なんか、俺って信用なくないか?」
「あると思っているのか、この阿呆が」
「いや、情報屋は信用第一だぞ? 副職だけど」
「知るかっ」
またもよく分からない言い争いを始めている男二人は放置して、ルドは先ほどバザックに言われたことを頭の中で繰り返す。風、自分、過去。いくつもの単語が頭の中で回る。
「ルド?」
呼びかけられて、ルドは顔を上げる。瞬間、黄昏色の瞳とぶつかった。いつも冷えた印象を受ける、不思議な色合いの瞳は結晶を思わせる。美しいが、決して波立つことのないような。それが錯覚でしかないと理解していても、そんな印象がクーレンにはあった。
「つまらなさそうな顔をしているな」
唐突な言葉に、ルドは面食らったような顔をする。それに構うことなく、クーレンは一つ鼻を鳴らした。
「まぁ、世界なんて別に面白いものではないがな。毎日が同じようなことの繰り返しで、何が変わるわけでもなく。くだらない人間がひしめき合っていて、くだらない会話やくだらない争いを繰り広げている」
紡がれる言葉は、静かな奔流のようだった。強さはない。ただ、流れていく。
「好きにやっていてくれと思っても、生きている以上は関わらずにはすまない。放っておいて欲しいと望んだところで周囲はそれを認めようとせず、あまつさえ孤独だと勘違いする有様だ。価値観を押し付け合い、常識だとかいう集団の論理に従わされる。ろくなことなどないな」
それはおおよそクーレンの言いそうにない言葉のように思われた。しかし妙にしっくりと来るその口調が、どこまでが本心であるのかを惑わせる。無表情のまま内心で困惑しているルドの横で、バザックは楽しげにそれを聞いていた。
「続いていく日々に何か意味があるわけでもなく、特別なものがあるわけでもない。生きているという実感があるわけでもなく、世界は今にも崩れ去りそうな砂上の楼閣のようにしか感じない」
砂上の楼閣。
その一言に、ルドは表情を変えないながらも体を強張らせる。それは少し前まで、ルドが感じていたものとほぼ同じで。何もかもが夢のような、幻のような、崩れていく砂でしかないような。
何の価値も持たないかのような。
「けれど」
ふいに口調が変わった。表情もわずかながら柔らかなものへと変化する。先ほどまでのどこか遠くを見るようだった眼差しは、静かにルドへと向けられていた。
「それも確かに一面だが、意外とそうでもない気もしてくるものだ。世界の中に、何か価値のあるものを一つでも見つけられたらな」
彼は自分にとって価値のあるものを見つけ出したのだろう。紡ぐ声は静かに響き、見つけ出したものを誇るような声だった。
「お前、結局それって惚気じゃないか」
バザックが堪えきれなくなったように笑い出す。それを横目で見やり、クーレンは何とでも言えとばかりに鼻を鳴らした。
ルドは呆れたように、それでいて何か未知のものでも見るような目でクーレンを見る。価値のあるものといわれたところで、ルドにそれが思いつくはずがなかった。クーレンもそれは察したのだろう、空を見るようにして考える。
「とはいえ、見つからないこともあるがな。まぁ、自分が嫌であれば、いっそ思いっきり変えてみるのも一つの手だがな」
「自分を変える?」
先ほどまでの話よりもさらに分からない。ルドは眉間に皺を寄せてオウム返しに呟く。
「そうだ。まぁ簡単にならば、まずは印象だな。髪型、服装、あとは態度」
「あー、お前のあれ? 一時期、えらく不評だった」
バザックが納得したように手を打つ。それを見やり、クーレンは非常に嫌そうな表情をする。すがめられた片目が、それを如実に物語っていた。
「あれの何が悪い。人がせっかく丁寧に接してやったというものを」
「いや、お前が普段から傲岸不遜を貫いてたせいだと思うけど? それに接してやったとか言ってる時点で、あんまり丁寧じゃないし」
バザックの意見はどちらかというと正論に近かったのだが、クーレンは一つ鼻を鳴らしただけでそれを黙殺する。聞く気がないというよりは、むしろ彼の言葉を受け入れる気がないらしい。
「何を、したんだ?」
少し好奇心に駆られてルドは尋ねてみる。クーレンはルドに視線を戻し、やや考えるような仕草をした。
「そうだな。先ほども言ったように、態度を変えてみただけだ。それだけでかなり印象が違うようでな。周囲の反応はいっそ笑えるぞ? くだらん下衆どもが」
「いやお前、最後の一言はなんだ? 何で吐き捨ててんの?」
やはり妥当なバザックのツッコミを再度無視して、クーレンは一つ咳払いをする。
「とにかく態度を変えてみたんだ。俺の場合は一度、丁寧にしてみた」
「……丁寧?」
クーレンの態度は粗雑というわけではない。むしろ気難しいともいえるほどに几帳面だ。ただ態度が偉そうに見えるところがあるため、あまり丁寧さを感じないだけである。
ルドとしてはクーレンが几帳面であると言うことは分かっていたため、その丁寧にしたというのはよく分からない。そのため怪訝に思っていると、クーレンは理解したのだろう。こういうことだ、と言って、その実演を始めた。
瞬間、ルドは全身の毛が逆立ったような錯覚を覚えた。
黄昏色の瞳が細められる。口元が上がり、唇が弧を描く。
それはいわゆる、満面の笑みというやつだった。別段おかしいわけでもないのだが、普段の彼を知っている者たちにとってその表情は恐怖しか呼び起こさないものだ。普段の彼は傲岸不遜、妻と娘以外に笑いかけることなど滅多になく、ついでに気が短いのである。そして怒らせると後々まで厄介だというのは、彼と親しいものたちの間ではすでに定評である。
そしてその表情のまま、彼は口を開いた。
「まぁ、こういうところなのですが?」
言葉は滑らかで、丁寧だった。滑るように耳に入り込んでくるその声は、決して相手に不快さを感じさせない。
しかし、どこか胡散臭いのだ。どこが、といわれてもルドは答えるすべを持たない。しかしとにかく胡散臭い、胡散臭いのだ。ルドは思わず、一歩退きそうになる。
「あ、先生たち。そこにいらっしゃ……」
そこに運悪くトリウムが現れた。彼は満面の笑みを浮かべているクーレンを見て、それを面白そうに眺めているバザックを見て、そして明らかに引いているルドを見て。
何も言わず、踵を返した。
「あははははははー!!」
分かりやす過ぎるくらい分かりやすいトリウムの態度を見て、バザックは堪えきれずに大爆笑した。トリウムが去っていくのを笑顔のまま見送ってから、クーレンはやや俯いた。やや俯き、軽く眉間の辺りを押さえる。そして。
「くっくっくっくっく……」
肩を震わせて漏れたのは、暗い笑みだった。思わずさらに一歩退くルドの横で、バザックは肩をすくめる。
「出た、暗黒笑い」
このとき怖いんだよな、と人事のように笑うバザックに、クーレンから視線が向けられる。暗い光を宿した黄昏色の瞳は、まっすぐにバザックを射抜き。
「黙れこの野郎!」
瞬間、彼はバザックを殴り飛ばした。いつもの状態に戻り、ルドは安堵したような馬鹿らしいような、微妙な心境になる。
「あっはっはー。まぁ、見慣れない人にはどうしてもそうなるんだって」
「やかましいわ!」
「まぁ、そう怒るなって」
「無理言うな!」
不機嫌も絶好調なのだろう、何を言っても怒鳴り返してくるクーレンにさほど気にした様子もなく、バザックは軽く笑う。
「まぁ、お前も色々あったしなぁ。うん」
「性格が変わったとでも言いたいのか?」
ハッと笑い飛ばしたクーレンに、バザックは首を傾げる。
「いや、性格は別に変わらないだろ? 短気なところとか、たまに嫌味なところとか、相手によってはさりげなく思いっきり見下してるところとか。初対面のときから別に変わってないって」
「さりげなく貶してるのか? お前は」
「いや、事実を述べているだけだが」
間違ってないだろ、とあっさりと言い切ったバザックをクーレンは睨みつける。眼光で人を殺せるのなら絶対にバザックは死んでいる、と思うような殺人的な目だった。
「まぁ、怒るなよ。いいだろ、昔がどうであれ何であれ、お前、今幸せなんだから」
その瞳を正面から見返して、なおかつ意見を言えるものはごくわずかだ。その一人であるバザックは、少しも臆した風もなく言い放つ。
ふん、と一つ鼻を鳴らし、クーレンは肩をすくめた。怒らなかったところを見ると、それは事実なのだろう。ルドはクーレンがどのようにして過ごしてきたのかを知らない。知るはずもない。ただ、その事実だけは感じ取れた。
「話は逸れたが」
一拍の間をおいて、クーレンはルドに向き直る。ルドは一歩退くことのないよう、腹に力を入れて彼を見返す。まったくもって戦う力など持たないにも関わらず、彼を圧することが出来るのはこの男くらいのものであろう。
「自分を偽るのもいい。演じるのもいい。自分がもっとも生きやすい生き方を選べばいいのだからな。他人に気を遣う必要などまったくない。全ての選択は個人に既存するべきであり、それを他者が追随するなど無意味なことだ。無論、それによって害を受けたと言うならば、それもまた一概に無意味とはいえないが。とりあえず、俺は人の勝手で俺自身や妻や娘が迷惑を被るようなことがあれば、問答無用で相手を潰す」
「クーレン、言っていることに一貫性がないぞ。ついでに無駄に分かりにくい」
「黙って聞け」
バザックの突っ込みを振り返りもせず、一言で切り捨てて。クーレンはそのまま言葉を続ける。
「この場合の偽りとは、何も自分自身を欺くことではない。人は誰しも、暮らしていく上で仮面を持つ。そこに良いも悪いもない、何か一つでも隠し事を持たない人間が存在しないのと同じように、それは生きていくうえで必要なことだ。罪悪を感じる必要はない。だからこそ人間は理性を持ちうるのだからな」
本当に彼の言葉は、静かでありながら激しさを併せ持つ、奔流のようだった。やや分かりにくい言い回しは癖なのか、彼なりのこだわりなのか、バザックが何か言っても聞き入れようとはしない。
「だが、自分の気持ちには正直であるべきだ。仮面を持たない人間がいないのと同じように、感情を持たない人間もまた存在しない。いるとすれば、そう思い込んでいる、自分をきちんと理解していない者だけだろう。怒り、哀しみ、憎しみ、喜び、楽しさ、嬉しさ。言葉としてあらわしていくと数限りないが、そうした感情を持ち合わせないものなどいない。それもまた当たり前のことだ」
話しつかれてきたのか、クーレンは一度言葉を切り、少し深めに呼吸をする。それでも言葉を止める気はないのだろう。すぐにまた口を開いた。
「だからこそ、自分の気持ちには素直であるべきだ。無論、それら感情を素直に表に表すというのは難しい。人間には体面があり、またそれまでに築いてきたものがある。一朝一夕で自分の態度を改める、もしくは性格を変えることが出来れば誰も苦労はしない。けれどそれが可能な場所がどこかになくては、生きていくのは苦しく億劫なものになるだろう。ゆえに人は、どこかにその場所を見つけ出しておかないといけない。安息を、な」
そうしてクーレンは、大きく息を吐き出した。どうやら話し終えたらしい。
とはいえ、彼の言葉の奔流は分かりにくいものだった。眉間に皺を寄せ、考え込み始めているルドにバザックは苦笑する。
「要するに、さ。自分を変えてみるってのも一つの手だが、根本的にそれを変えるのは難しいってことだ。いや、根本的じゃなくても難しいな。それまでの行いや振る舞いによる周囲の印象や評価は、どうしても付いて回るものだし。さっきのクーレンが良い例だな」
「ふん」
不機嫌そうに一つ鼻を鳴らし、クーレンはそっぽを向いた。少しだけ子供っぽい友人の仕草に笑いをかみ殺しつつ、バザックは説明を続ける。
「ただ、自分の感情には素直にあれ。もしくは吐き出せる場所を、自分にとって安らげる場所を見つけておけ、と。そういうことさ」
要約されて、ルドは納得する。だからといって、素直に頷くことも出来なかった。それがどれほどの困難を伴うものであるか、ルドはよく理解していた。かつての場所に、そんな人間など一人もいなかった。ルド自身、他人を気に掛けようともしなかった。
だからこそ、分からない。そもそもからして、自分がどんな人間であるかさえよく分かっていないのだ。それを素直になれ、と言われたところで、頷けるはずもなかった。
「自分のことを完全に理解している人なんていないさ」
だが瞬間、バザックが呟くように言う。その言葉に、ルドは考えを読まれたような気がして、心臓が跳ね上がる。
「まぁ、そうだな。どこまでが本当かなんて分かりもしない。だったら考えるだけ無駄だ。全部ひっくるめて自分なんだからな」
やはりクーレンの言葉は分かりにくかった。だが、彼はそれ以上の解説をする気もないらしい。意地が悪そうな笑みを浮かべ、ルドを見やる。
「まぁ、自分を変えるのは難しい。だが一つのきっかけとするならば、いい方法はある」
ルドは怪訝な顔になる。それを見返して、クーレンはこともなく告げた。
「今までの自分を全部捨ててみることさ」
「おいおい、まーた極端に走るなお前は」
中間って発想が薄いよな、とバザックは大笑する。自覚はあるのか、喧しい、と半眼でクーレンは切り捨てる。
「方法は難しくはない。自分を知っている人間のいないところに行けばいいんだからな。まぁ、実行するのは難しいがな」
肩をすくめながら、クーレンはこともなげに言う。そんな彼にバザックは苦笑を浮かべた。おそらく、かつてそれを実際に考えていたのが彼自身だろうと読んだためだ。
「まぁ何にしても、自分の道を貫くといい、ということさ。その過程を選ぶのは自分自身だ。他人へ害を加えることは問題だが、迷惑程度なら上等だ。他人に迷惑をかけずに生きられる人間など存在しないのだからな、いっそ掛けまくれ。迷惑上等だ。ただし俺以外にな」
ルドは呆れてクーレンを見やる。あまりにも論理が無茶苦茶である。
「そこで自分を含まないから、お前は説得力がないっていわれるんだよ」
ルドと同感だったのだろう。バザックが苦笑すると、クーレンは呆れたように振り向いた。
「何を言う。なぜ俺が他人に迷惑を掛けられねばならん。俺に迷惑をかけていいのは妻と娘たちだけだ。後の人間など、知るか」
「言い切るのが凄いと思うぞ、俺は。というか、それ、そろそろ聞き飽きたから。あんまり聞きすぎて食あたり起こしそうだから」
「人の家族の話を聞いて、言うに事欠いて食あたりとはなんだ、貴様っ」
「家族の話っていうか、ほとんど自慢話か惚気だからなぁ」
そう言っていても、バザックが真剣に嫌がってはいないことがルドには分かった。楽しげに笑いながらの言葉であるので、ルドでなくとも分かるだろう。普通であればうっとうしいだけだろうに、彼はそれに付き合っても別段平気らしい。懐が広いのか神経が図太いのか、判断に迷うところではある。
「クーレン、バザック君ー」
そこに、柔らかな声が響いた。同時に、軽い足音も近づいてくる。
三人が視線を向けると、ちょうど話題に上がっていたクーレンの妻アリアが、ひょこりと顔を出した。




