【23】 風とは、そして自分とは何か
「俺の過去のことは、聞いているんじゃないのか?」
ヴィルフールたちだけであればともかく、ルドが昔のことを話した場にはトリウムの姿もあった。だからこそ、彼から聞いているのではないかとルドは思ったのだ。
「うん、まぁ、聞いてはいるけどな」
バザックはあっさりと肯定する。ならばなぜ、と目線で訴えかけてくるルドに、バザックは笑う。
「本人の口から聞いておきたかったんだ」
ルドはバザックに不審の目を向ける。よく分からない理屈だと思ったからだ。そんなルドの視線をどう思ったのか、バザックは軽く手を打ち合わせた。
「ああ、別に無理に話すことはないからな? 別に他人の過去を暴きだそうとか、そんなことは思ってないからな」
だから話したくない事柄だったら即言えよ、と笑うバザックに、ルドは胡乱な目を向ける。そういうことではない、と思ったからだ。
その視線に気付いているであろうバザックは、笑って流した。なかなか底知れない相手だとルドが警戒する中、バザックはふいに尋ねる。
「元居たところでは、何と呼ばれていたんだ?」
どういう意図があって放たれたのか分からないその質問に、ルドは眉根を寄せる。けれどバザックにとっては重要なことらしく、ルドの答えを待っていた。言いたくない、とルドが言えば、バザックは先ほどの言葉通りそれ以上のことを聞こうとはしないだろう。しかし隠しておくような事柄でもないので、ルドは口を開く。
「そのまま、だ。主に名前」
「そうか、名前か」
バザックが安堵した顔つきになる。その意味が分からず、自然と探るような目つきになるルドを見返して、バザックは笑った。
「悪い。その、左腕にな。番号が書いてあるようだったから、それで呼ばれていたりしたらどうしようかと思ったんだよ」
「ああ……これか」
ルドは自身の左腕、刻印のある場所へと視線を落とす。今は布に阻まれて見えないが、どのようなものであるかを即座に思い描くことが出来る。物心ついたころにはすでに刻まれていた刻印は、ルドにとっては自身の一部のようなものなのだ。
「これは単純に、記録として残すためのものだからな。普段はこれでは呼ばない。逆に呼びにくいからな」
「そうか」
じゃあ名前で呼ばれていたんだな、と。確認の問いかけに、ルドは首を横に振った。
「いや。俺は“成功作”……“風の成功作”と呼ばれることが多かった」
ゆっくりと首を横に振り、ルドは言葉少なに答える。
“成功作”。この名が与えられるものがどれほど少ないか、ルドは身を持って知っている。数多く居た子供たちの中で、ルドが知るのは自身を含めた三人だけだ。他の場所にあと二人ほどいるらしいが、会ったことのないルドはその辺りのことは分からない。大体にして、子供たちにはあまり情報のもたらされない場所だったのだから。
「“風の成功作”、か。しかし風という言葉がつくってことは、他にも成功作がいるのか?」
「ああ。俺が知る限りでは“雷”と“反逆者”。他にも“火”と“水”がいるらしい」
「雷、火、水は分かりやすいんだが……“反逆者”?」
首を傾げるバザックに、ルドはそうだろうな、と思う。
「何に対しての反逆なのかは、俺も知らない。ただ、長年の研究の賜物だって、研究者連中が期待してたことくらいだな。知ってるのは」
それ以上をルドは告げなかった。あの少年に関しては機密事項が多く、知らないことが多いのも事実だ。だがそれ以上に、今ここで語るべき事柄ではないように思えた。
「研究の賜物、ねぇ」
何か思うところがあるのか、バザックはそこで言葉を止めた。その表情に何か苦いものが浮かんでいることに気付き、ルドは彼を見上げる。
「しかし成功作ってことは、お前も被験者だったのか?」
「あ? ああ……」
「そうか。苦労したな」
うんうんと頷かれて、ルドは怪訝な表情を浮かべた。苦労したな、と言われる意味がよく分からなかったからだ。ルドにとってはそれが当たり前のことだったのだから。
まぁ、俺の言葉の意味はきっとそのうち分かるさ、とバザックは笑う。教えて分かるものではないからだ。状況や環境、考え方や価値観といった他を知ること、つまりは経験を積むことでしか見えてこないことなのだ。まだ十三歳であるルドは、機会さえ得ることが出来ればこれからさまざまなことを見聞きしていけるだろう。
「しっかしまぁ、実験ねぇ……どんなことをやってんだ?」
「投薬と訓練の繰り返しだ。波長の強さを検査するものと、扱い方の特性を検査するものがある。あとは基本、実技だ」
バザックの言葉はほとんど独り言のように呟かれたものだったが、ルドは律儀に答える。隠しておくようなことでもないと、彼自身は判断したからだ。
「薬の副作用が強いものが多いんだ。狂う奴らの過半数はそれが原因だと聞いてる」
「お前の体は大丈夫なのか?」
「一応、検査は受けていた。今は知らんが、どうもないってことは大丈夫なんだろう」
バザックは顔をしかめ、軽く肩をすくめる。
「今度、一度検査をしとかないとなぁ。今回は無理だから、次に来るときは道具を持ってくる」
「は?」
「検査、だ。何か副作用が残ってたりしたら大変だろう。潜伏期間っていうのもあるんだぞ? 二十年とか三十年とか経ってから、出てくる病気だってあるんだ。いいな?」
やや厳しく告げられるバザックの言葉に、ルドは気付いたときには頷いていた。無意識のままに放たれる強制力に、気付いたときには屈服していたような気分だった。
「よし」
バザックはすぐに闊達とした笑みを浮かべる。晴れやかなその笑みは自然体で、不思議と人を安心させるものだった。
「しっかしまぁ、これだけの能力と戦闘力、身につけるのは苦労しただろう?」
「……さぁな」
ルドの言葉はそっけない。実験と同様、それが当たり前であった彼にとってほかに返すべき言葉が見つからないのだ。そしてそれを、ルドはどこか口惜しく思った。
それが表情に出たのだろう。ルドの顔を一瞥したバザックは、ふと顔を逸らして考え込むような仕草をする。
「なぁ。風って、どんなものだと思うか?」
「風?」
やはり唐突な質問に、ルドは胡乱な目でバザックを見やる。しかしバザックは闇夜へと視線を向けたまま、質問を重ねる。
「そう、風。俺もお前も風使いだからな。風がどういうものなのか、言葉として感覚として、理解していないと扱いこなせない。まぁ、解釈は人それぞれだけどな」
どうなんだ、と。問いかけられて、ルドは初めてその意味を考えた。
能力は、当たり前のように彼の傍にあった。投薬などの実験によって開発されたのかもしれないが、物心ついたときにはすでに使えるようになっていた。それは必ず少年の傍にあり、決して彼を裏切らない唯一のもの。
けれど、それがどういうものなのか――ルドにはとっさに、答えが出なかった。
そんな彼の逡巡を見破ったのか、不意にバザックは口を開いた。
「形はなく、見えもせず、けれど確かにそこに在るもの。どこまでも自由にして、縛られているもの。天の下にあり、地の上にあり、狭間に位置するもの。天空と大地の狭間を駆け抜く、悠久なる存在」
朗々と響き渡るその声は、その言葉は、一つの詩のようだった。彼の低く力強い、明るさを感じさせる声は、吸い込まれるようにして夜空へと溶けていく。
「知ってるか? この、言葉」
けれどその印象は一瞬で、すぐに普段の表情に戻ったバザックはルドに視線を向ける。
「あ……いや」
雰囲気に呑まれていたルドは、一拍遅れて首を横に振る。
「“四将”って知ってるか?」
「“四将”?」
聞き覚えのない単語に、ルドは首をひねる。じゃあ、とバザックは質問を変えた。
「“英雄王”は知ってるだろ?」
それを知らない者は、ウィルステルには存在しない。それはウィルステルで暮らすもの、特に能力者たちにおいては神にも等しい名なのだから。
「旧ウィルステルの建国者だろう。八千年も昔に、この国の元になる国を造り上げたっていう」
「そうだ。かつてスピリット・パワーを持つ者たちが今よりもずっと少なく、迫害されていたとされる時代。彼らが自由に暮らせる国を作ろうと立ち上がったとされる人だ。属性は“調和者”」
ぞくり、と。背筋が凍るような感覚が、ルドを駆け抜ける。それをかろうじて内側で押しとめ、ルドは形だけ馬鹿にするような笑みを浮かべた。
「夢物語だろう」
「そうだな、“調和者”の属性を持つ者には、さすがに俺もお目にかかったことがないさ」
ははは、と冗談めかした笑みを浮かべるバザックから、ルドは思わず視線を逸らした。バザックはそれに気付いたが、少年の様子に何かを見て取ったのだろう。深く追求することはせずに言葉を続ける。
「“四将”っていうのは、その“英雄王”と共に旧ウィルステルを造り上げた英雄たちだよ。それぞれ、地水火風の四属性を司るとされている、な」
「ふぅん」
特別に興味のある事柄ではないので、ルドは生返事を返す。それに気を悪くすることなく、バザックは言葉を繋げていく。
「その一人、“轟音の旋風”と呼ばれていた風使いが残した言葉さ。風の定義の一つとして、スピリット・パワーについて研究するものなら彼らの言葉は大抵知っている」
バザックは空に視線を向けたまま、目を閉じる。知ることと、感覚として理解すること。どちらを欠いても、この能力は扱いこなせない。そうして自分の、自分だけの在り方を見出してこそ、そこに先が存在するのだ。
「あと俺が昔会った女は、こう言ってたよ。風は自由だが、自由ではない。何かに引き止められなくては霧散し、けれど留まることも出来ない、とな。流れ行くからこそ風であり、留まってしまってはもはや風ではない、と」
十年以上も昔に出会ったその少女を思い出し、バザックは苦笑する。そういえばどうしてるんだろうか、と今更ながらに思ったからだ。目つきも口も悪い、下手をすると少年のようにしか見えなかったその少女は、バザックにとって随分と印象深い人だった。実際には一度しか組んだことがないにも関わらず、こうしてはっきりと覚えているのだから。同じ風使いとしてバザックが驚くくらい、スピリット・パワーに関する深い造詣を持ち合わせていたためかもしれない。ほんの数年にも満たない期間、東部のあちこちで活躍、もしくは騒動を起こしていた彼女は、あるときを境にぱったりと姿を消した。常識では考えられないほどの田舎出身だと本人が言っていたので、そこに帰ったんだろうな、とバザックは思っている。
そこまで思い出して、少し思考が逸れたことに気付き、バザックは軽く頭を振って修正する。
「つまり、何が言いたいんだ?」
ルドは考え込むように視線を落としていたが、思いつかなかったのだろう。眉間に皺を寄せて尋ねてくる少年に、バザックは楽しげな笑みを返す。
「まぁ、どう風を捉えてるかを聞きたかったんだ。同時に自分を、な」
「自分?」
「そう、自分。風っていうのは俺たち風使いにとって、もっとも身近なものだろう? こうして話しているだけの今だって、風はすぐ傍にある」
バザックは手のひらを空に向ける。髪を揺らし、頬を撫で、駆け抜けていく乾いた風を、全身で感じようとするかのように。
「だから、風の概念はすなわち、自分に対する概念にも繋がってくるんだ。お前は、どう考える? 傍にある風を、そしてそれを扱う――いや」
バザックは笑みを浮かべる。どこか静けさを感じさせる笑みを。
「風の力を借りている自分を、さ」
「力を、借りる」
ルドは呆然と呟く。そんな考え方を聞いたことがなかったためだ。今までどう上手く風を扱うかばかりを習い、考えてきたのだから。
「そう。スピリット・パワーっていうのは自然を操る力だって考えてる奴らが多いけどな、俺から言わせればそれは違う。俺たちが操るんじゃない。やりたいことを波長として伝え、それを実現してもらう。俺たちの方が力を借りているんだ」
そっと髪を揺らしていくそよ風のように、高く天空へと全てを舞い上げる突風のように。優しさと強さと、相反する感覚を等分に混ぜ合わせたような声と言葉に、ルドは戦慄さえ覚えながら彼を見上げる。
闇に溶ける短い黒髪は、月明かりの下でわずかに揺れていた。黒い瞳はまっすぐに先を見据え、静かに光を放っている。吸い込まれそうな印象を受ける瞳は、どこまでも見通すようで理知を感じさせるのに、人として接すると悠久の風のような印象を受ける。
「広いだろう?」
遥か遠くを見据えるような瞳で、バザックは言葉を落とす。
「意外と、見渡してみると広いものだろう? 空も大地も、何もかも。見えているものなんて限られているけど、その先にずっと続いているものがある。俺たちの見ているものなんて、本当に少ないものだ。見ているつもりで見えていないものもある。少し見方を変えてみただけで、見つかるものがたくさんある。何気ない日常の中に、知らないことが山のように眠っている」
どこまでも、どこまでも駆け抜けていく風のように。たとえ完全に自由ではなくとも、生きていることを精一杯に謳歌して。彼は、歩んでいく。
それはルドが今までに出会ってきた中で、一番強い印象を受ける人だった。戦闘力だけでなく、能力だけでなく。その人柄が、雰囲気が、感覚が、どこまでも大きな人だった。
「俺、は」
その言葉に突き動かされるように。紡ぎ出すというよりは押し出すようにして、ルドは言葉を形にしていく。
「まだ、分からない」
「ああ」
何を指し示すものなのか、ルドは明確に告げなかった。けれどバザックは問い直さず、ただ受け入れて頷く。
「風も、俺も」
「ああ」
「でも、たぶん。違う、と、思う」
バザックの語った風と。ルドの感じる風は、きっと違うもの。同じだけれど、別のもの。
「ああ。それでいいんだ」
バザックは頷く。
「自分を決めるのは、いつだって自分だ。人の視点や評価が役に立つときもある。けれど最終的に、決断を下すのは自分だ」
重く告げられる言葉は、彼自身の矜持のようだった。唐突に空気が重くなる感覚に、ルドは目を見開く。
「だが視点を固定するな。自分だけの視点で、物事を見るな。思いつく限り、あらゆる方向からの視点を取り入れろ。他者と交わり、他者の思想と意見を取り入れることにより、それは可能になる」
言葉の一つ一つに、重圧がかけられているかのようだった。決して強制力を感じさせない物言いであるというのに、一言が酷く重い。
「迷っていい、恐れていい。いつだって立ち向かう必要なんかない。いつだって逃げ道を用意しておいていい。進むにしても戻るにしても、踏み出す一歩は同じなんだから」
それは強く胸にのしかかるかのように。魂に揺さぶりをかけるように。全てを薙ぎ倒す風のように。
「ただし退けないときを見誤るな。自分にとっての守るべきものが何なのか、常に反芻しておけ。最優先事項とそうでないものを見極めろ。全てを守ることも不可能ならば、全てを手放すこともまた出来はしないのだから」
ふっと、バザックは息を吐き出す。唐突に空気が軽くなる気配に、ルドは浅く呼吸を繰り返す。呑まれてしまいそうなほど、それは強い気配だった。
「まぁ、難しいことだけどな」
どこか哀しげに苦笑して、バザックは緩く首を振る。そうしてから、ルドの方を向き直った。
「さて、そろそろ戻るか?」
あんまり遅くなると、クーレンやトリウムから怒られそうだからな、とバザックは笑う。そのどこか楽しそうな横顔からは、先ほどまでの感覚など微塵も感じなかった。
「あ、ああ」
促されるまま、ルドも頷いて体を起こす。服についた砂を払っていると、バザックが少し手を貸した。
「どうだ、少しはすっきりしたか?」
「は?」
「日常的にやってたんだろ? こういうの。今までやってたことをやらなくなると、感覚が狂うものだからな」
動いてすっきりしただろ、とバザックが笑う。
それは何か違わないだろうか、とルドは若干の反発心を抱いた。だが事実として何か軽くなっているような感覚を受け、言葉にする前に胸に留めた。あながち間違っていないような気がしたからだ。
「ほら、早く戻るぞー」
バザックが楽しげに言う。声は、荒野を駆けて行った。