【20】 助けてくれて、ありがとう
トリウムを迎えた紫の瞳は、酷く冷たいものだった。分かってはいたものの、苦い気持ちになるのはどうしようもなく、彼は苦笑する。
夕食後。早々に自室へと戻ったルドのところへとトリウムは訪れたのだが、彼の態度は相変わらずだった。どうもルドとは相性が合いにくいのか、彼はなかなか自分に心を開こうとはしない。何かと事情のある子供と接してきたトリウムにとっては珍しいことでもないのだが、だからといって慣れられることでもなかった。やはり、悲しい。
そう思ってため息をつくと、さらに彼の不機嫌さの度合いが上がる。纏う空気までもが冷ややかになり、トリウムは自身の態度の失敗を悟って悲しく肩を落とした。
「なぁ、ルド」
「なんだ」
やはり声は冷ややかなままだったが、それでも返答があったことにトリウムは若干安堵する。以前であれば、返事すらしてもらえないことも多々あったからだ。
「ひとつ、聞きたいことがあるんだが」
ルドは眉根を寄せる。早く言え、ということを態度だけで語るその姿に、彼は少しだけ笑いを誘われた。けれどここで笑ってしまうと、まず間違いなく彼の機嫌を降下させてしまうので、表情に出すことはなかったが。
「ヴィルのことなんだけどな」
瞬間、ルドの機嫌は急降下した。同時に部屋の温度までもが下がったように感じさせる冷たい拒絶の気配に、トリウムは苦く笑うしかない。
出て行け、と。声なき言葉が、命じているのを感じる。それでも今のトリウムは、それに従う気は起きなかった。
「避けられているんじゃないかと、気にしているようなんだが。何か、あったのか?」
一言発するたびに、ルドの機嫌が地に落ちていくのを感じる。それが分かっていても、トリウムには言葉にしないわけにはいかなかったのだ。
尋ね終わると、トリウムはそのまま黙る。ルドも、答えようとはしない。異様なほどに重苦しい沈黙が、部屋を包んでいた。部屋を一歩出れば他の子供たちの姿もあるだろうに、その喧騒さえも届かないように。風さえも吹くのを遠慮しているかのように、一つとして物音が響かなかった。
「関係、ない」
長い、長い沈黙の後。ルドがようやく搾り出した言葉は、それだけだった。それ以上の言葉を拒むかのように背を向けた彼に、トリウムは視線を向けた。
「悪いけど。関係、あるんだ」
静かに吐き出された言葉に、ルドは振り返りもしない。それでも、トリウムは言葉を続けていく。
「俺は『地吹雪』の責任者だからな。全員、守る義務がある」
一度言葉を切ったトリウムは、そっと息を吸い込んだ。すぅっと、酸素が体の中を賭けていくのが分かる。必要なのは、胆力。そして冷静に見据える目だと、先代の責任者からトリウムは教わっていた。
アイリーンと話していて、トリウムには思ったことがある。それは彼の拒絶が、完全な拒絶ではないということ。何かを求めて足掻いているように見えるその姿を、放っておくことは出来ない。
なぜなら、彼はもうすでに『地吹雪』の一員なのだから。
「それはお前もなんだ、ルド」
瞬間、ルドの肩が震えた。それはかすかな、震えでしかなかったけれど。確かな、反応だった。
「本当に、一人にして欲しいのなら、そうする。けど、今のお前は放ってはおけないんだ、俺には」
静かな声に、迷いはない。それでも、気遣う気配がある。
ルドの周りを、ざわりと風が、取り囲む。濃くなっていく風の気配を感じて、トリウムは息を呑んだ。
「関係ないと、言ったはずだ」
振り返ったとき、紫の瞳は底冷えするような光を湛えていた。
「俺に……」
一瞬、言葉が途切れたのはなぜなのか。トリウムは驚きながらも、あくまで冷静に彼を観察していた。何かを耐えるように一度唇を噛み締めたルドは、わずかに俯いた顔を上げると同時に叫んだ。
「構うなっ!」
呼応するように、風が吹き荒れる。子供たちとの騒動は多いものの、さすがに能力を解放した、しかもかなりの戦闘力を持つような子との荒事の経験はないトリウムは、さすがに表情を引きつらせた。
「ルド!」
けれどそこに、意外な声が響く。
いや、意外ではないかもしれない。なぜなら、ここはルドの部屋であると同時に、彼の部屋でもあるのだから。けれど、この時間に彼が部屋にいることは基本的にないことを知っている二人には、やはり意外だった。
だからこそ驚き、二人は目を丸くしてヴィルフールを見やる。ルドとトリウムの間に、飛び込んできた彼を。
「ヴィル!?」
けれどそこは、風の吹き荒れる真っ只中だ。トリウムに向かおうとしていた風が、間に入った彼へと向かう。トリウムが叫び、ヴィルフールへと手を伸ばすが遅い。
「っ!」
ルドも唇を噛み締める。唐突に飛び込んできた彼に驚き、焦ったルドは、風の制御が出来なくなっていた。止められない風は、刃となってヴィルフールへと向かう。
鼓動が一つ、嫌な音を立てた。数日前、ヴィルフールが怪我を負ったあの瞬間が、ルドの脳裏をよぎる。しかも今度は、他でもないルド自身が放ったものだ。
けれど、止められない。焦りは波長をずらさせ、風の感覚を失わせる。
もう駄目だ、と。トリウムと、ルドの二人が、思ったのと同時に。
柔らかな風が、ヴィルフールを包み込むように吹いた。繊細さを感じさせるその風は、向かってきた風の刃を霧散させる。
「大丈夫か」
しんと、単調な声が落ちる。安堵の息を吐き出して、トリウムはその声の主を振り返った。
「サーレ。助かった」
「ああ」
部屋の入り口付近にいたサーレは、足音を立てずに部屋へと入ってくる。それを横目で確認して、ヴィルフールはまっすぐにルドに向き直った。
「ルド?」
心配そうに尋ねてくる声音にも、表情にも、瞳にも、理不尽な攻撃に対する怒りは見えない。それが返って、ルドを苛立たせた。
「んで……っ」
「え?」
「なんでお前は、いつもいつも、俺の前に立つんだよ!?」
今も。そして、暴動のときも。ヴィルフールはルドの前に立ち、彼を守ろうとした。自分を守るだけの強さも持たないのに、両手を広げて、恐れを抱きながらもまっすぐに。
「どうして、俺を助けようとするんだ! 放っておけばいいだろう!?」
華奢にしか見えない少年は、外見を綺麗に裏切って、どこまでも守るために在り続ける。それがルドには不思議であり、苛立ちを覚えるものでもあり、また彼に近寄ることを恐れる原因でもあった。
いつか自分は、自分の存在は。この少年を、壊してしまうような気がして。
「俺は、お前に守られるほど弱くはない!」
それが偽りだと分かっていても、ルドにはそう叫ばずにはいられなかった。
確かに、ルドは純粋な戦闘力でいけばヴィルフールよりも格段に強い。だからといって、それが強さに直結するとは、今のルドには思えなかった。それは、少し前であれば決して考えられなかった思考で。戦うことが全てと信じ、何かを守るなど馬鹿らしいと思っていたあの頃には、決して思わなかったこと。
そう思うようになったことが、果たして強さであるのか、弱さであるのか。それすらルドには分からない。ただ、恐れだけがあった。
「ルド」
ヴィルフールの声が、穏やかに耳に滑り込む。決して強制などしてはいないのに、不思議と染み入るように入り込んでくる声。
「だから、なんだね」
ヴィルフールはルドの正面に立った。赤紫の瞳は、やはりルドをまっすぐに捉えていた。
「君が、僕を避けていたのは」
納得したようにヴィルフールは頷く。ルドは何も、答えようとはしなかった。
そのまま、しばし沈黙が降りる。トリウムとサーレは二人を見守る体勢を取っており、ヴィルフールはルドの言葉を待ったためだ。ルドは俯いたまま、口を開こうとはしなかった。
そのまま、どれくらい時間が経っただろうか。のろのろと緩慢な動作で顔を上げたルドは、視線をヴィルフールではなくサーレに向ける。サーレは、眉根を寄せた。
「サーレ。お前は、気付いているんだろう?」
何を、と。声もなくサーレは問いかける。おぼろげながらにその問いの意味を理解しながら。
「あいつらの。俺が殺した奴らの、左腕だ」
それが指し示すものが何であるかを、すぐに理解したサーレは瞳を細める。サーレから話を聞いているヴィルフールも、困ったようにサーレとルドの間で視線をさまよわせる。
「お前の左腕と、同じ刻印か」
この場でただ一人、知らなかったトリウムだけが息を呑む。
「そうだ。俺の左腕、知っていたんだな」
「お前が『地吹雪』に来たとき、面倒を見たのは先生たちのほかには俺とヴィル、それにトリウムだからな」
簡潔に理由を述べたサーレに、ルドは小さく頷く。そうしてから、彼は俯いた。
再び沈黙が訪れた。今度は、トリウムもヴィルフールも言うべき言葉が見つからなかったためだ。トリウムは困惑していたし、ヴィルフールは言葉を捜しあぐねていた。サーレは見守る姿勢に徹するつもりのようで、自分から話そうとはしなかった。
そのまま沈黙が続くかと思われたが、破ったのは意外にもルドだった。
「あの、刻印は。俺たちが所属する場所と、自分が何であるかを示すものなんだ」
俯いたまま、ぽつぽつと紡ぎだされ始めた言葉に、全員が驚いてルドを見つめる。視線が集中する中、ルドは顔を上げようとせずに言葉を続けた。
「察していると思う。俺がかつて居た場所は、俺が殺したあいつらと……同じ場所だ」
その言葉の意味を、重みを理解して。全員が厳しい表情になった。
「俺がいたのは、ある施設だった」
ルドは座りなおすと、そうして昔のことを話し始める。ゆっくりと、思い返すようにしながら。
「施設といっても、この地吹雪のようなところじゃない。実験と、戦闘訓練を行うための施設だ」
息を呑む音を聞きながら、ルドは目を細めた。少し記憶を探るだけで、昨日のことのように思い出すことが出来る。『地吹雪』に来るよりも、荒野をさまよっていた頃よりも前。あの場所で暮らしていたころの、記憶。
「大人にも行っているようだったが、主に実験は子供が中心だった。俺もその、実験体の一人だ」
言って、ルドは左腕を前へと突き出した。そして一気に、袖をめくり上げる。
「この刻印は、その実験体たちに刻まれるものだ。何の実験に使っているのか、いつから実験を始めたのか、それを記すためのものだ」
むき出しになった左腕と、そこに刻まれている刻印を見ながら、ルドは淡々と言葉を紡いでいく。驚いたような、困惑したような雰囲気が漂っていることも感じてはいるが、ルドにとってそれは当たり前のことだった。
「俺はそこに、物心付いたときにはすでにいたように思う」
一度言葉として昔のことを話し出してしまうと、そのまま止まらなかった。
「気付いたときには、俺はすでに実験体だった。毎日が実験と戦闘訓練、それに知識を得るための勉強……その繰り返しだった」
あの頃、何を思ってそれを繰り返していたのか。どんなことをして、どんな風に暮らしていたのかは昨日のことのように思い出せるのに、何を思っていたのかだけが思い出せない。
「そうして、気付いたときには俺は“成功作”と呼ばれるようになっていた」
ただ、必死だったように思う。次々と行われていく実験に、訓練に、勉強をこなしていくのに必死で。
それをしないと生き延びることが出来ないと、気付いていたから。
「成功、作……?」
それまで黙っていたトリウムが、ためらいながらもルドの言葉を繰り返した。
「そうだ、“成功作”。数々の実験と、戦闘訓練に耐え切った実験体をそう呼んでいるんだ。つまり……」
「“失敗作”もあるということか」
サーレの放った一言に、トリウムとヴィルフールはハッとしたようにサーレを振り返った。サーレは何も言わず、視線をルドに固定したままだった。
「そうだ。実験は過酷なものも多いし、戦闘訓練は死者が出ることも珍しくはない。そんな中で、精神の均衡を失うものも少なくはないんだ」
その言葉に、ヴィルフールは暴動で襲ってきた者たちを思い出す。どこか壊れたような表情をした彼らの中には、まだ幼さを残している少年や少女の姿もあった。
「まさか、あのときの暴動の人たちは……」
「お前が推測しているとおりだろう。俺も推測の域を出ないが、あいつらは“失敗作”だ」
トリウムとヴィルフールが息を呑む。サーレは黙ったまま、視線をルドに向けていた。
ルドはやはり一度も顔を上げようとしないまま、言葉を続けた。
「“失敗作”と認定されたものは、処分されると聞いている。ただ、その処分というものがどういうものであるのかは、実際に見たことがないから分からない」
「つまり、あの野放しにされていたのも処分の一つかもしれないということか」
サーレが淡々と告げる。ルドはそれに頷いた。
「ただ、基本的には……」
「殺される、か」
おそらくは、と。告げたルドの言葉を最後に、誰も口を開けなくなった。
ルドは拳を握り締める。話したところでどうなるというものでもないのは、分かっている。それでも彼らには、言っておかなくてはならないことがあった。
「だから……」
たとえそれが、自分の首を絞める選択にしかならなくとも。
「もう、俺に構うな。俺は、あいつらと」
自分が手にかけた、壊れた表情をした“失敗作”たちを思い出す。
「同じなんだ」
彼らと自分のどこが違うというのか。確かに自分は、“成功作”と呼ばれていたかもしれない。高い能力を有しているかもしれない。
けれど、それが何だというのか。彼らと自分の間に、一体何の差異があるというのか。
壊れていると、いうのならば。
それは、自分も同じではないか。
「ルド、それは違う」
トリウムが困惑したように、それでもきっぱりとした口調で言う。だが、ルドは首を横に振った。
「違わない。俺は……戦うことしか知らない。人だって、簡単に殺せる」
わずかに顔を上げて、ルドは口の端を歪めるようにして笑う。見ただろう、と。問いかけるような笑みに、ヴィルフールは視線を落とした。
「だから、俺にこれ以上、関わるな……」
どこか力なく呟いて、ルドはうなだれた。酷く、自分が弱くなったような気がした。
「ルド」
どう返すべきか考えあぐねているトリウムの横を、静かに事態を見据えているサーレの横を、抜けて。ヴィルフールが進み出た。そっと床に膝を着いて、俯いてしまったルドの顔を見上げる。
「あの、さ」
まっすぐに見上げてくる赤紫の瞳から逃げるように、ルドは顔を背けた。視界の端に、それを遮るように薄紅色の髪が映る。
「君にずっと、言いそびれていたことがあるんだ」
こちらを見ていないことを理解した上で、ヴィルフールは微笑んだ。
「遅くなったけど。助けてくれて、ありがとう」
視界の端に映ったその表情に、ルドは愕然とした。ふっと、全身から力が抜けるのを感じる。
どうしてこいつは、全部聞いた後でもそんな反応が出来るのか。どうしてそんな、礼なんかを言っているのか。彼が怪我をしたのは、他でもない自分のせいだというのに。助けたのなど、結果論でしかないというのに。それなのに、どうして。
苦味を伴う不思議な感覚が、ルドの中を流れていく。泣き出したいような、笑い出したいような、不思議な感情が。
返事をすることも出来ず、そのまま固まってしまったルドをヴィルフールは静かに見据えていた。そんな二人に、トリウムは歩み寄る。
「ルド、礼を言われたときは、どういたしまして、だぞ?」
トリウムは少しふざけたように笑って、けれど真剣さを感じさせる声で言う。
「そうだな。どういたしまして、だ」
サーレもしれっと頷いたのを見て、ヴィルフールは苦笑した。状況というよりはこの二人についていけていないルドは、どこか困ったような表情をしている。
「ほら、ルド」
トリウムに促されて、ルドは唖然とした顔で彼らを見渡す。なんだか、初めて会ったときもこんなやり取りをしたような気がすると、ぼんやりと思い出す。
「あ、ああ……どういたしまして」
流されるようにして答えたルドに、ヴィルフールは笑った。晴れやかな顔で。
「うん。本当にありがとう、ルド。助かったよ」
過去も現在も、全て受け入れた上での言葉だった。偽りなど見出せない、言葉だった。だからこそルドには分からなくなる。どうして彼らが、こうして自分を受け入れようとしてくれるのかが。
呆然として見上げることしか出来ないルドに、トリウムは微笑む。ルドはそのときになってようやく、トリウムの笑顔を初めて見たことに気付いた。思えば今まで、彼にはまともに接しようとしていなかった。
トリウムは何も言わなかった。ただ、ルドの雰囲気に何か違いが生じたことを雰囲気で感じ取ったのかもしれない。拒絶されることを覚悟するようにゆっくりと、トリウムはルドに手を伸ばした。
トリウムの手が、ルドの頭に触れる。頭を撫でられたというのは、記憶に残る中ではルドにとって初めての経験だった。以前であれば確実に反発を覚えていただろうその感覚に、不思議とそのときは嫌悪を抱かなかった。
受け入れるまではいかなくとも、撫でられることを黙って甘受しているルドに、ヴィルフールは安堵したように微笑む。静かな、先ほどまでとは違う静けさが落ちる。それはそっと翼で護られているかのような、優しい静けさ。
サーレはその光景を黙って見守っていたが、ややあって視線を外した。ふっと視線を向けたその方角が北であることは、そしてその先に何が視えているのかは、サーレにしか分からなかった。