【1】 荒野を駆け行く一台の車と、一人の少年
軽快に車のエンジン音が響く。運転席に座っている男は、上機嫌にハンドルを握っていた。
短く刈った黒髪に、楽しそうに前を見据える黒い瞳。精悍とも無骨とも取れる顔立ちをした、体格のいい男だ。武闘家といえば誰もが納得しそうな外見をしている。年齢は三十代半ばくらいだと思われるが、その纏う雰囲気ゆえか、どこか若々しくも見えた。
そんな彼は、思いっきりアクセルを踏んで、車を運転していた。
整備されていない荒地で、飛ばしているために冗談にもならないほど車体が揺れているのも、男は全く気にしていないようだった。
「バザック……おま、少し、飛ばしすぎ……っ」
そんな彼の横、つまり助手席に座っていた男が、さすがに業を煮やしたのか非難の声を上げる。もっとも、気を抜けば舌を噛みそうになるため、途切れ途切れではあったが。
「ん? 何だ、クーレン?」
しかし運転している男、バザックは、そんな彼にすっとぼけた言葉を返す。クーレンと呼ばれた助手席に座っている男の表情が、瞬間的に怒りへと変わる。
「危ないって言ってんだろうが! てめ、事故でも起こしたらどうする気だ!」
そうしてバザックを睨みつける瞳は、深く沈みゆく黄昏時の空の色をしていた。金というにはやや薄い色合いの白金の髪が、運転の揺れのため、時おりふわりと舞い上がる。年齢はバザックと同じくらいだが、気難しささえ感じさせるような繊細な顔立ちのためか、彼と違い歳相応に見える。とはいえ、今は怒りのために台無しとなっているが。
「どうって……全員、お陀仏?」
「おいこら待て。アリアに何かあったら、お前の腹かっさばいて、臓器売り飛ばしてやるからな!?」
「……うわー、シャレにならないセリフだな、おい」
具体的かつ想像のつきすぎる光景に、バザックはやや表情を引きつらせた。
「何か、呼び、ました、か?」
そんな彼らに、後ろから声がかかる。口調が途切れ途切れなのは、やはりこの運転の荒さのためだろう。
それは、後部座席に座っている女性からだった。
さらりと長い艶のある銀髪は、丁寧に三つ編みにされて肩に乗せられている。深紅の瞳が、穏やかな光を湛えて二人の背を見つめる。柔らかく暖かな雰囲気を持つ女性は、この揺れの中でも小さく微笑みかける。
「いや、なんでもない、アリア。この馬鹿に説教を……ってか、いい加減、飛ばしすぎだって言ってんだろが!」
「うぉおい!? ハンドル握るなって、そうしても速度は落ちないだろ!?」
「だったらさっさと減速しろ! 至急! 先輩命令だ!」
「いつだよ、卒業して何年経つと思ってんだ。ってか一応、歳は同じ……」
「いいから速度落とせ!」
騒ぐ前の二人に、アリアが小さく笑う。本当は笑っていられるほどのん気な状況でもないのだが、この二人と一緒にいると、この程度のことは日常茶飯事になってしまう。ひとえに慣れだ。
もっとも、こうした騒動の種は主に、バザックの無茶にあるのだが。そしてバザック本人は自分の行動を無茶なことと認識していないため、改善される気配もない。堂々巡りである。
ようやく減速し、それなりの速度で走り出した車に安堵の息を吐いて、クーレンは呆れ果てた表情でバザックを見た。
「まったく、何であんなにかっ飛ばすんだ」
「荒野をのんびり走ってても、面白いことなんか一つもないぞ。むしろ早く向こうに着かんといかんし」
「それはそうかもしれんが、それで事故でも起こしたらどうする気だ! あの速度じゃ本当に死ぬぞ! 死なずとも、よほど運が良くない限りは重傷だ! 殺す気か、俺らを!」
「安心しろ、そんなミスは起こさないから」
堂々と言い切ったバザックを、クーレンは横から殴りつけた。
「阿呆! 万が一ってことがあるだろうが!」
「大丈夫だと言って……」
「やかましいわ、この底なし体力! 化け物!」
化け物と言われ、バザックは納得のいかないといった表情で首を捻った。
「俺は人間だぞ? 飯は食うし、睡眠はとるし、何よりあと数十年もすればちゃんと死ぬ」
一体、バザックの中での『人間』の定義は、どういうものなのだろうか。後ろで聞いていたアリアは、何よりもそれを疑問に思ったのだが、クーレンは再びそんな彼を殴りつけた。
「そーいう意味じゃないんだよ! 大体、お前、自分を一般人とか認識してるんじゃないだろうな!?」
「いや、その辺りは定義が曖昧だから、俺としても何とも言えんがなぁ。違うのか?」
「一般人!? 馬鹿も休み休みいえ! どこに国一番の格闘大会で、初出場、しかも十三歳とかいう年齢で優勝する一般人がいるんだ!」
「それは、俺が努力したから」
「さらに翌年にはその賞金で医学部に入学し、便利屋をやりながら留年もせずに卒業しやがるし!」
「いやそれも、俺が努力したから」
「おまけに本業医者、副業情報屋とかふざけた肩書きを持ち、“風”の名で裏社会でも知れ渡っているお前の、香家とすら関わりを持つお前の、どこが、一般人だ!」
「不思議だな」
「その言葉、そっくりそのままお前の存在に当てはまるんだよ、この変人!」
『人間』ということには納得してもらえたらしいが、結局は『変人』ということでバザックの評価は決定したらしい。
何がそんなに変なんだ、と不可解そうに首を傾げる彼に、クーレンはほとほと呆れ果てたとばかりにため息をついた。アリアはそんな二人の会話に、肩を震わせながら必死に笑いをかみ殺している。
実に賑やかに、先程よりはゆったりと車は進んでいく。
「……やっぱ、飛ばさないか?」
「却下だ。このがたがた道を、あんなに飛ばしていったら本気で事故になる」
「車を浮かせていくか?」
「それを可能な人間が俺のすぐ横にいるのは知っているが、やめろ。無駄に使うな、念のために」
バザックは仕方がないとばかりに、その言葉に頷く。それは本当に不承不承といった感じであった。
「サリッシュウィットは大丈夫かしら」
ふいに、アリアが口を挟む。やや愁いを帯びたその声音に、クーレンがかすかに眉根を寄せた。
「……東部で伝え聞いた情報程度では、何とも判断しがたいな。無事であるよう、祈るしかない」
「だから、飛ばそうと言って……」
クーレンは再びバザックの頭を殴った。
「それで事故を起こしたら元も子もないだろうが。医者は体が資本だと、常々言っているのは貴様だろう!」
バザックは仕方がないとばかりに肩をすくめる。それを見て、クーレンは苛立たしそうに舌打ちをした。
「と、そういえば」
「何だ!?」
ふいにバザックが呟き、クーレンが噛み付くように言い返す。どうも、だいぶ苛立っているらしい。
「いや、最近、この辺りで噂になっていることを思い出してな」
「噂?」
しかし、彼の持ち出した話題には興味を持ったらしい。
何と言っても、バザックの副業は情報屋である。それも名が知れ渡るほど、腕のいい情報屋だ。いたってそうは見えず、妙に体格のいい壮年の男としか誰の目にも映らないが、それは事実だった。
「ああ。何でも、この荒野を通りかかる人を無差別に襲って、物を奪っていく奴がいるらしい」
「……野盗か追いはぎか? といっても、珍しいものでもないだろう?」
彼らが今進んでいるのは、ウィルステル北部の荒野である。ここを移動する人間などそうはいないが、紛争などで荒れ果てた地域だ。町を焼け出され、こうした荒野をさ迷い、通りかかる人間を糧に生きようとするものも珍しくはない。
「まぁ、な。だけど、まだ、子供らしいんだ」
「子供?」
アリアが首を傾げる。
「ああ。年のころは十代前半くらいらしいが、特徴なんかは頭からすっぽりと布を被っているせいでよく分からないらしい。んで、おそろしく強いとか」
「強いって……どのくらいだ?」
「北部に来ていた傭兵たち十人くらいを、一人で虐殺できるくらいに」
しんと、車の中が静まり返った。
「いや、さすが北部。物騒さに磨きがかかっている」
「納得するな馬鹿野郎」
クーレンは再び、バザックの頭を殴った。
「まぁ、この辺りは本当、物騒だな。ここ数年で、本当に物騒さに磨きがかかっている。北部だけじゃない、東部も西部も、南部もだ。ひょっとしたら首都もかもしれん。そう遠くないうちに、東部も戦火に巻き込まれるかもしれんな」
「……縁起でもないことを」
「事実だ。実際、最近では北部で村一つが滅ぼされる、なんて事件も起きている。紛争の名残か、略奪かは、俺も掴んではいないがな」
まぁ、後者の線が妥当だな、とあっさりと言ってのけるバザックに、クーレンとアリアは何とも言えない表情をする。
「まぁとにかく、それで付いたそいつの通称なんだけどさ……」
そう、バザックが言いかけた矢先。
強い、強い風の音が、した。吹き付ける風に、車体がわずかに斜めに傾く。
「おぉっと」
バザックが口元に笑みを浮かべて、車を止めた。あのまま突っ込めば、目の前に発生した竜巻のような風によって、巻き上げられるか無残に切り裂かれてしまうだろう。
「な、何……?」
アリアが不安そうに声を上げる。
「おい、まさか……」
クーレンが表情を引きつらせる。
「噂をすれば何とやら、という奴かな」
バザックが一人、飄々とした笑みを浮かべ、気軽な動作で肩をすくめる。実に気楽だ。
「そうそう、さっき特徴が全く分からないといったがな、まぁ一応、姿を見た奴もいるんだ。扱う属性が属性だし、単に頭から布被っているだけだから、要するに外れることもあるわけで」
そしてさらに、淀みのない口調で、先程の続きを話している。これはよほどのん気なのか、それとも余裕なのか。
「青い髪に、紫の瞳。風を纏いて、北の荒野を駆け抜ける様から」
だが、クーレンとアリアは知っている。これが彼の性分であり、また経験から培われてきている落ち着きなのだと。傲慢ではなく、どこか飄々とした態度の中に、それでも真摯に見定める余裕を持ち合わせているのだということを。
ガラスの向こうに、十代前半と思しき子供の姿が見える。灰色に見える布は、元の色なのか薄汚れているためなのか、判別できないほどにぼろぼろだった。子供の周囲を吹く風が、時おりその布を舞い上がらせる。その隙間からわずかに青い髪が見える。そして刃を思わせる、感情を持たないかのような冷たい紫の瞳も。
「“蒼紫の朔風”とな」
バザックは言って、笑う。同時に強く、彼らの乗った車の周りを風が舞った。
それは周囲の砂を舞い上がらせ、車の姿を外界から遮断するかのように、覆い隠す。まるで、彼らを守るかのように。
「お前ら、絶対車から出るなよ」
「馬鹿野郎、誰が好き好んで争いになんか関わるか。俺らにまで被害を拡大するなよ。怪我するならお前一人にしろ」
「りょーかい。善処するさ」
馬鹿野郎、絶対にだっ、と悪態をつくクーレンを放置し、バザックは素早く車から降りた。
「気をつけて」
「おう」
心配そうな表情を向けてくるアリアに軽く手を振ると、車の前に立つ。
「さて、と。いっちょやるか」
バザックは気楽に腕を伸ばした。肩の調子を確かめるかのようにぐるぐると回し、軽く関節をほぐす。
そして彼がニッと笑うと同時に、周囲を覆っていた風が、止んだ。
それと時を同じくして、子供が彼の方へと突っ込んでくる。弾丸のような勢いを持っていたが、その直線的な軌道は軽く体を捻るだけで避けることが出来る。
それを実行したバザックだったが、次の瞬間。
「よっ」
通り抜け様に繰り出された短剣を、相手の腕を払うことによってかわす。だが、すぐに相手は体勢を立て直し、バザックに蹴りを放つ。それも片腕で受け止めるも、重い痺れが駆け抜けた。
バザックは子供を突き飛ばすようにして、一度彼から距離を取る。
戦い慣れている、と瞬時に悟る。あの年頃の子供に、出来る動きではない。
「一体、どんな育ち方してきたんだか」
バザックは思わず唸る。クーレンが聞いていたら、お前が言うか、と呆れ返って蹴りをお見舞いしてくれそうな呟きである。
そうしている間にも、相手の子供が襲い掛かってくる。軽やかな身のこなしで、一息にバザックの元へと近づいたかと思うと、その勢いを殺さずに一撃を首元へと閃かせる。バザックはそれを片手で制し、カウンターを叩き込もうとするも。
瞬間、相手の子供の掌から、風が放たれた。
バザックはかすかに目を見開くも、慌てた様子はなかった。自らも手に風を纏わせると、それで受け止め、弾く。
「!」
子供の方が驚き、息を呑む音が響いた。初めて警戒を覚えたのだろう、飛び退るようにしてバザックから離れた。
「そうか、能力持ちだったな」
この世界には、スピリット・パワーと呼ばれる特殊な能力が存在する。自然界の波長と、自身の波長を合わせることにより自然の力を操るというものだ。四元のどれか一つの属性を扱えるのが基本であるが、ごく稀に雷や重力といった属性を操るものもいる。
他国では珍しいもの、もしくは異端として扱われるスピリット・パワーだが、なぜかここウィルステルでは、能力を持って生まれてくる人間が圧倒的に多い。そのため、子供やバザックのように、能力を使えるものは珍しくはない。
そしてバザックと子供、二人の属性は双方とも、風である。
ギラリと、布の合間から除く子供の紫の瞳が、嫌な光を宿して煌く。敵意、憎しみ、そんな感情がちらついている。
「……子供の出す殺気じゃないな」
バザックは他人事のように呟く。刹那、子供が彼に襲い掛かった。
本気を出したのだろう、それは先程までとは比べ物にならない速さだった。走り寄りながらバザックに風の刃を放ち、自身は彼の懐へと飛び込む。そして、短剣に纏わせた風だけでなく、バザックの背後からも風の刃を放った。
スピリット・パワーは、自身の波長と自然界の波長を合わせることにより発動する能力であるため、基本的に自身を基点として放たれる能力だ。そのため、遠隔操作はもとより、出現する場所が自身を基点としないということは、それだけ制御者の技能が高いということだ。その一点だけでも、子供の能力がいかに高く、また能力を扱うための訓練を受けているかということが分かる。
だが、バザックはその上をいく能力者だった。
子供が放った風の刃を受け止め、あるいは弾き、あるいは勢いを殺させ、全てを無傷でかわしきる。さらに飛び込んできた子供の右腕をとり、易々とその短剣を奪い取ると同時に。
背後から襲いかかる風を、そして子供をまとめて、風で吹き飛ばした。
無論、そんなバザックの動きを察した子供も、防御しようとかなりの風を自身に纏わせた。だが、バザックの風はそれを易々と打ち破り、子供を地面へと叩きつける。
頭に被っていた布が完全に取り払われ、いまやその容貌が露になった子供、否、少年はぼんやりと、目の前に広がる空を見つめていた。障害物のない荒野では、仰向けに寝転んだとたん、視界に入るのが空の青一色となる。珍しく晴れ渡った北部の空は薄く、淡い色をしていた。
それを視界に納めながら、少年はぼんやりと、信じられない、と繰り返し心の中で呟く。
自分の能力を、あっさりと上回る相手がいることが、信じられなかった。「あの場所」では、自分は最強だと。少なくとも、風使いとして上回るものはいないといわれ、実際にそうだったはずなのに。
あっさりと。本当にあっさりと、易々と。負けてしまったことが、信じられず。
帰りたい場所にも帰れず、最強であるはずの自分がこうもたやすく負ける。その現実が信じられず、信じたくなく。
少年はそこから逃れるかのように、重くなった体と、徐々に閉じてくる瞼の向こうに広がる闇に、身を任せた。
「終わったのか」
風が止んだのを見計らい、車からクーレンとアリアが降りてくる。バザックは二人のほうを振り返ると、一つ頷いて返答とする。
「確かに、恐ろしく強かったなぁ、この子供。まぁ、まだまだ成長途中だが……」
「安心しろ。俺だったら三秒ともたずに殺られている」
クーレンが呟くが、それは卑屈でもなんでもなく、彼の本心だった。実際、車から見ていた二人の戦いはそれだけ凄まじかった。目にも留まらぬというよりは、二人の動きが捉えられないところすらあったのだ。もっとも、二人とも風使いであるため、それを利用してスピードを上げていたのだろうが。
「その子は……」
バザックが片膝を付き診ている少年の横にやってきたアリアは、心配そうに彼を見た。
「ああ、大丈夫だ。命に別状はないさ。……しっかし、ひどくやつれてやがるな……」
バザックの言葉どおり、少年の姿は凄まじいものだった。身に付けているものはぼろぼろで、元の色が分からないほど薄汚れてしまっている。砂や埃で曇った肌、適当に放置されぼさぼさになった髪、そして疲弊しやつれた顔。どれを見ても、痛々しいという言葉以外に出てくるものはなかった。
アリアはバザック同様、少年の横に膝を付く。そして、そっと彼の傷口に手をかざした。
その手に現れたのは、清らかな水だった。それで一度、傷口を洗い流した後、彼女は治療を開始する。水がしみこむようにして、傷口を癒し、塞いでいく。
水と地の属性にのみ宿る、治癒の能力。水使いであるアリアは、それを使用しているのだ。
「……なぁ、バザック。お前、この子、どうする気なんだ?」
そんな彼らの様子を見ていたクーレンが、バザックに声をかけた。バザックはくるりと振り返ると、ニヤリと笑って見せた。
「決まってるだろ。連れて行く」
「……本気か」
「本気も本気。というか、俺はいつでも本気だぞ?」
はっはっは、とよく分からない理屈と共に笑い飛ばすバザックを、クーレンは実に嫌そうに見つめた。
「……あら?」
ふいに、他に傷がないかを軽く確かめていたアリアが、小さく声を上げた。
「アリア、どうした?」
「いえ、この子の腕……」
二の腕の切り傷を治癒していたアリアが、少年の袖を引っ張って肩口まで露にする。肉のあまり付いていない腕の肩口近く。そこに、小さく文字が書かれていた。正確に言うと、肌に掘り込まれていたのだ。
「……こりゃ、相当な訳ありかもしれんな」
「……おい、バザック」
「余計に、だ。連れてくぞ」
言うが早いか、バザックはひょいっと少年を抱えあげる。まるで荷物か何かを持ち上げるかのようなその扱いに、アリアに非難の声を上げられ、ついで彼女の声を聞いたクーレンに殴られたりしながら、彼らは車へと戻った。