【17】 騒がしくも懐かしい人たちとの再会
唐突に騒がしくなったことに気付き、ルドは顔を上げた。
簡単な昼食を取った後、ルドはさっさと二階にある自室へと上がってきた。『地吹雪』の子供たちの面倒を見たり、トリウムの手伝いをしたりしているヴィルフールは、たとえ『地吹雪』の中にいたとしても自室にいる時間が短いことを知っているためである。
あの暴動のとき以来、ルドは何となくヴィルフールを避けるようになっていた。その理由はルド自身にもよく分かっていない。ただ、なんとなく居づらさを感じるのだ。それはヴィルフールに原因があるわけではなく、むしろ自身に原因があるのだろうということは理解していたが、それだけだ。
それが彼に怪我をさせてしまったことによる罪悪感のためだということにまで、ルドは気付いていなかった。むしろ、ルド自身が考えないように節があるせいかもしれない。ヴィルフールがこちらを気にしているのも気付いてはいたが、だからといって自分から近寄る気にはなれなかった。サーレもどこか様子を見るように放置しているので、それ幸いとばかりにルドは距離を置くようにしていた。
そうしてヴィルフールを避けるようになってから、自然と人をも避けるようになっていた。それは単純に、ヴィルフールの周りに人が集まることが多いからだった。少し離れてみると、彼に人望があることが本当によく分かる。
ただ、それだけではなく。何かを考えるのも面倒で、何かに関わるのも億劫で。そうして色々なものから離れていた彼だが、聞こえてきたいくつかの声たちに呆気に取られる。
それは一月以上も前に、去って行ったはずの声たち。けれど、確かに再会を約束していた声たちでもあって。
それを聞きながら呆然と立ちすくみ、それでも動く気にはなれずルドはその場に棒立ちになっていた。けれど迷っている間にも、事態は進んでいるもので。
軽やかな足音が、廊下を駆けてくる。それはドアの前で止まり、一拍の間を空けた後、ノックの音へと変わった。コンコン、とリズム良く叩かれたその音にも、ルドは返答を返せなかった。どうするべきか、迷ったからだ。
しばしの、空白。
返答がないと分かると、もう一度ノックの音がする。先ほどまでよりも控えめなその音は、どこか困惑しているようだった。
それで、その音が誰のものなのか、ルドは今度こそ確信する。この叩き方は、間違いない。ふっと脳裏に、鮮やかな銀の輝きがよみがえった。
それでもルドが返答を返せずにいると、さらに二つ、足音が近づいてくる。音を立てず、気配をほとんど感じさせない足音と。几帳面なまでに規則正しく、響く足音が。
「いないのか?」
「いや、いるだろ。風がそう告げてるし」
繊細さを感じさせる男の声に、おおらかな男の声が答える。
「お前の感覚はさっぱり分からん」
「あら、でも、バザック君の感覚ってよく当たるのよね」
ため息が落ちると、それに柔らかな声で女性が笑う。そしてもう一度、リズム良くノックの音が響く。
「おーい、開けるぞー?」
再び、声が響いて。今度は答えを待たず、ドアが開けられる。
立っていた三人を見て、ルドは目を細めた。バザックと、クーレンと、アリア。一ヶ月以上前に、本来彼らが住んでいる東部の街へと帰っていった、三人組。
「いるなら返事をしろ、ルド。俺の妻にいらん心配をかけるな」
「うわ、出たよ愛妻家発言。なんか俺、最近こればっかり聞いてる気がするな」
苛立たしげに眉根を寄せたクーレンに、バザックが明るい笑い声を上げる。クーレンはそんなバザックの頭を殴り飛ばした。
「やかましいわ。未婚者のお前に、そんなことを言われる筋合いなどないっ」
「うわ。お前、それさりげなく痛いぞ。っていうか、それは仕方なくないか?」
「俺が知るか!」
きっぱりと怒鳴り返したクーレンに、バザックはまったく堪えていない顔で笑う。疲れたように額を押さえる夫の肩を微笑みながら軽く叩いて、アリアはルドに向き直った。
「ごめんなさいね、驚かせて。久しぶり、ルド君。調子はどう?」
優しい、声だった。他に表現のしようのないくらい、優しい声。柔らかな陽だまりを思わせる声に、ルドは知らず知らずのうちに肩から力を抜いた。ふっと、今まで背負っていたものが不思議と抜け落ちる。
「元気、だ」
そう答えたルドだが、その表情は答えと反して明るいものではなかった。背負っていたものがふいに抜け落ちたためか、妙に疲れたような表情をしている彼に、クーレンは思わずその顔でか、と突っ込みそうになった。だが、間一髪でバザックがそれを止める。
しかし、その止め方に殴るという方法を選択したため、雷の激しさを思わせる瞳でバザックは睨みつけられた。一応手加減はしたんだがなぁ、とばかりに軽く肩をすくめるバザックの頭を、今度はクーレンが叩き倒す。
「お前、いきなり人の頭を殴るな! どういうつもりだ!」
「ちょっと待てクーレン、それは絶対にお前が言えたことじゃないと思う」
「うるさい黙れ、痛覚が欠如しているお前が言うな!」
「いや、俺別に普通に痛覚あるし。普通に痛いからな。というか、落ち着け?」
「誰のせいだと思ってる!」
いつの間にか、喧嘩になってしまった。しかも、至極くだらない喧嘩である。仮にも三十半ばを過ぎた男二人がするような喧嘩ではない。
「あらあら、困ったさんたちねぇ」
アリアは頬に手を当てて、おっとりと笑う。ルドは呆れたように目を細めた。お馬鹿さんと呼ばれなかっただけ感謝してもいいのではないだろうかと思うような、くだらなさである。
そのまま二人して、いい年をした男たちの果てしなくくだらない喧嘩を眺めていた。とはいえ、バザックの方は遊んでいるようにも見える。だがそうして待っていても、なかなか収束が着かない。困ったわね、とアリアは軽く小首を傾げた。
「ちょっと、お話がしにくいわね、これだと」
そういう問題じゃないだろう、とルドとしては突っ込みたかった。だが、このほわほわとした空気を全身に纏う、どう考えても年齢不詳としか言いようのない少女めいた印象の彼女を見ると、それを言う気が綺麗に失せた。これもある意味で才能である。
しばらく困ったように考え込んでいたアリアは、やはり喧嘩が収束しそうにないことを見て取ったのだろう。困ったわ、ともう一度呟き、頬に手を当てたまま首を傾げる。ふわりと舞う、羽を思わせるような微笑が花開く。邪気などかけらも感じさせない柔らかな、ただ優しい声が、落ちた。
「うるさいんだけど?」
決して大きくはない、声だった。強さもない、声だった。柔らかなままの、声だった。けれどぴたりと、男たちの争いが収まる。バザックは悪いとばかりに苦笑しただけだったが、クーレンは顔を青ざめさせていた。過去に何かあったのだろうかと邪推したくなるような、鮮やかなまでの顔色の変化である。
「良かったわ、静かになって」
にこりと、まったく動じていない笑みを返して。アリアはくるりとルドの方に向き直る。
「うーん、最強」
バザックのどこか抜けた呟きに、クーレンもルドも突っ込まなかった。いや、突っ込めなかったといったほうが、正しいかもしれない。
「これでお話がしやすいわね。それで、ルド君。元気だった?」
「アリア、それはもう聞いただろう……」
思わず呻くように、力なくツッコミを入れたクーレンに、アリアは頬に手を当てる。そして、そうだったわねぇ、とおっとりと呟く妻に、彼はがっくりと肩を落とした。そんなクーレンを見て、バザックが豪快に笑う。それに嫌そうな顔をしたクーレンは、しかしツッコミを入れるだけの気力がないのだろう。軽く睨みつけただけで、そのまま放置した。
ルドは本当に、肩の力が抜けてしまったのを感じた。いや、脱力してしまったといったほうが、適切かもしれない。本当に、彼らは変わっていない。とはいえ彼らと最後に会って、まだ一月くらいしか経っていない。だからこそ当たり前のことなのだが、そのあまりの変わりのなさに。気付かないうちにわずかに、ルドの顔にかすかな笑みが浮かぶ。
それに気付いたアリアは、嬉しそうな笑みを浮かべた。
けれど彼女はそれについては何も言わず、ルドと視線を合わせた。そしてにっこりと笑う。
「ね、ルド君。前の約束、覚えてる?」
唐突なその言葉に、ルドは知るか、と言いかけて。
その約束を、思い出す。そう、それは、確か。
「思い出……?」
それは何か、ルドにとっての大切なものを探しておくように、というもの。大切だと思える思い出や、記憶。そういった、もの。
この騒ぎの中で、すっかり忘れていた。いや、完全に忘れてしまっていたわけではない。けれど、それについて話すときが、こんなに早く来ると思っていなかったのも、事実で。どこかぼんやりと呟くルドに、アリアはふわっと笑みを浮かべる。
「そう、思い出、よ。良かったわ、覚えててくれてっ」
きゃぁっ、と少女めいた歓声を上げて、アリアは両手を打ち合わせる。
「でも、思い出とは限らないけどね。何か大切なもの、だもの」
笑みを楽しげなものから、穏やかなものに変えて。アリアは真正面からルドの瞳を見つめて、静かに尋ねる。
「どう? 何か、見つかった?」
柔らかな響きだった。決して強制はしない、ただ尋ねる響きだった。
だからこそ、ルドは思わず視線を落とした。答える言葉を、持たなかったからだ。大切なものなど、大切な記憶など、思い出など。ルドには、分からなかった。
そんな彼の態度から、何かを感じ取ったのだろう。アリアは屈みこみ、ルドと視線を合わせる。
「じゃあ、また後でお話しましょう。私の見つけてきたもの、聞かせてあげるわっ」
楽しみにしててね、と笑って、アリアは姿勢を正した。そして、後ろで待っていたクーレンとバザックを振り返る。
「さて、それじゃあ……」
そのときだった。ドアをノックする音が響いたかと思うと、トリウムが顔を出した。
「お話中、失礼しますけど、そろそろ行きませんか?」
控えめに切り出した彼に、バザックとクーレンは苦笑する。アリアは笑みを浮かべて、頷いた。
「そうね。今回はただでさえ、来るのが遅くなっちゃったんだもの。早く行って、お手伝いしないといけないわねっ」
クーレンの視線がバザックに向き、彼は苦い笑みを浮かべる。北部を訪れる時期を決めるのはいつもバザックなのだが、今回の暴動に関しては情報が入手しにくかったらしく、少し遅く着いたのだ。アリアはバザックを責めているわけではないのだろうが、少し痛い台詞であることには変わりない。
そんな彼らの事情を察したのだろう、トリウムは緩く首を横に振った。
「気にしないでください。俺らにとっては、あなたたちが来てくれたってだけでかなり違うんですから」
そして笑った彼に、バザックたちも笑う。安堵したように、照れたように。
「さてっと。それじゃ、行くか!」
バザックがクーレンとアリアに視線を向けると、彼らは頷く。トリウムはそんな彼らを見て、もう一度笑みを浮かべてから踵を返す。その後に続くように、バザックとクーレンも歩き出した。
「ルド君も、行く? ヴィル君たちは来ると思うんだけど」
アリアは彼らの後について出ようとして振り返り、ルドに声をかける。
「どこに」
「暴動の後始末、よ? 私とクーレンは、主に治療になると思うけど」
ルドはわずかに驚いたように目を見開く。そして一瞬の逡巡の後、音もなく頷いた。
ルドは周囲の騒がしい会話を聞きながら、黙々と通りを歩いていた。一緒に歩いているのは、彼を誘ったアリアを始めとする東部から来た三人。そして、ヴィルフールとサーレだった。トリウムは『地吹雪』の子供たちの世話、特に先の暴動で孤児となった子供たちに対する世話を行っているので、下手に『地吹雪』を離れることは出来ない。アイリーンもそんな彼の手伝いをすると、『地吹雪』に残っている。ゆえにこの面々となっていた。
ちなみにこの面々、とてつもなく賑やかだ。むしろ騒がしい。その原因となっているのはバザックとクーレンだ。これならばまだイズウェルやファーリットと居たほうがマシではないかとルドが思うくらい、この二人は騒がしい。バザックの言動にいちいちクーレンが怒っているからなのだが、几帳面なのか気難しいのか短気なのか、彼は本当によくバザックの言葉に反応した。そしていちいち怒鳴ったり、殴ったりしている。もっとも、バザックのほうもそれに堪えた様子もなく、平然と笑っているが。
ルドの隣を歩いているアリアは、慣れているのか平然とした様子で二人の言い争いもどきを眺めている。ヴィルフールとサーレも、特に気にした様子がない。もっとも、この二人が動じるような事態というのはそうそうお目にかからないだろうが。
そんな騒がしい一団となっているので、やたらと人の視線も集めていた。ただ、ルドにはそれが騒がしさのためだけではないということも感じ取れた。向けられる視線は、最初は何事かを問うようなもの。そしてそれがバザックたちの姿を見た瞬間に、驚きに変わる。そして何か、微笑ましいものでも見るような表情に変わるのだ。
ルドとしてはどう考えても、この光景が微笑ましいものとは思えないのだが、サリッシュウィットの人たちにはそう映るらしい。そしてその中に、不思議な信頼が見て取れることにも気付いていた。おそらく三人は、本当に何度もここを訪れているのだろう。それが自然と感じ取れる光景だった。
だからといって、やはりルドにとって騒がしいことに変わりはないのだが。
「本当、元気よねぇ。クーレンもバザック君も」
ふとアリアが漏らした呟きに、ルドはこけそうになる。確かに元気といえば元気なのかもしれないが、それは何か違うだろうと思ったからだ。
「でも、いいことだわ。静かにしすぎていると、逆に気が滅入っちゃうものね」
けれど続いた言葉に、ルドは前方の騒がしい二人を凝視する。騒がしくて鬱陶しくさえあるが、この二人の言い争いを聞いていると確かに色々なことがどうでもよくなってくる。それがいいことであるかどうかは分からないが、一時とはいえ、ずっと心を占めていた何かが軽くなったのは確かだった。
「あの二人、なんだかんだでずっと仲がいいのよね」
それはやはり、何か違う気がするが。
ルドがそんなことを思いながら眺めている先で、クーレンが罵声を上げた。ついにバザックに切れたらしい男は、彼の手を勢いよく払いのける。
「ったく、お前とは付き合いきれん!」
さっきまで喧嘩腰とはいえ付き合っていたじゃないか、とルドは心の中で呟く。そんな彼の内心など分かるはずのないクーレンは、ふんと鼻を鳴らしてバザックから離れようとするが。
「お前、今の今まで俺と話してたじゃないか」
ルドが思ったこととそっくり同じような顔を、バザックがあっさりと述べる。瞬間、クーレンの額に青筋が浮いた。
「この、超絶、阿呆が!!」
殴り飛ばし、吐き捨てて、クーレンはバザックから離れる。
「相変わらずだよね」
呆れたようなヴィルフールの呟きが聞こえてきて、さすがにアリアは苦笑した。けれどそれについては何も言わず、ルドに視線を向ける。
「ねぇ、ルド君。暴動が起きたのは、二日前なのよね」
唐突なその質問に、ルドは怪訝そうな表情をアリアへと向ける。そんなことは、それこそトリウムやヴィルフールにでも聞けばいいのだ。またルドは知らないことだが、バザックなどは名の知れた情報屋である。分かっていないはずはない。
けれどアリアは、あくまでルドに尋ねるつもりらしい。にこにこ、という擬音でも付きそうな、それこそ花の舞うような笑みを向けられて、ルドは諦めたように頷く。
「そう、だ」
アリアはそれに頷いて、さらに質問を重ねる。
「それで、『地吹雪』にフュール君、ビレット君、それにレオナちゃんが住むことになったのね」
「……そうだ」
どこか複雑な感情を滲ませて頷いたルドに、アリアはそう、と頷いただけだった。そして、最後の質問を投げかける。
「それで、『地吹雪』の中ではヴィル君が怪我をしたくらいなのね」
ルドは思わず言葉をなくす。けれど、すぐに緩慢な動作で頷いた。
「分かったわ。ありがとうね」
そしてにっこりと笑う彼女から、ルドは無言で視線を逸らした。
そんなルドの様子を見ながら、バザックから離れたクーレンはこっそりとヴィルフールに尋ねる。
「あいつ……あんな性格だったか?」
少し大人しくなったんじゃないのか、と暗に尋ねられて、ヴィルフールは苦笑する。
「そう、だね。ここしばらく、あまり元気がないかな」
そうして、小さくため息を吐く。ここ最近彼に避けられていることを思い出したからなのだが、そんなことなど知らないクーレンには分からない。わずかに首を傾げる。
「珍しいな」
だが、クーレンがそれについてヴィルフールに尋ねる前に。サーレがぽつりと、落とすように呟く。
「何がだ?」
「医師が、人の心配をするのが。らしくないな」
慣れないことはしないほうがいいぞ、とでも言いたそうなその口調に、クーレンは目を細めた。
「黙れ電波小僧」
聞いていたヴィルフールは、苦笑して肩をすくめた。と、そのとき。
「ヴィー、サーレ、ルド! それに、先生たち!」
その場にいる全員にとって、聞き慣れた声が響いた。




