【14】 渦を成す思いに答えはなく
一心に駆け抜けていくアイリーンを、イズウェルとファーリットは必死に追った。この中では一番年下であるものの、アイリーンの能力は高い。それはスピリット・パワーの能力の高さにしてもそうだが、彼女にはまた、別の能力があった。
それはヴィルフールの持つもう一つの能力とよく似たものだということを、二人は知っている。けれど、二人が知っているのはそれだけで。
ヴィルフールもそうだが、アイリーンは特にこの能力について語りたがらない。だからこそ、二人には彼女が何を思っているのかも、なぜこんなにも焦っているのかも、察することが出来なかった。ただ、ヴィルフールが心配なのだろう、というくらいのことしか二人には分からないのだ。
幾人かの人間が、飛び出してくる。相手は先頭を駆け抜けるアイリーンの姿を見るなり、手にしていた短刀を彼女へと向けた。それに気付き、イズウェルとファーリットが構えるよりも、早く。
「邪魔だ!」
滅多なことでは感情を荒げない彼女は、叫ぶと同時に相手を地面へと沈めた。上から思いっきり力を叩きつけたかのような攻撃だった。それは力、もしくは重力と呼ばれる、使い手の少ないことで知られる属性の持ち主であるアイリーンの得意技だった。
「焦ってるな……」
「違いねぇ……」
そんな彼女を援護するように、それぞれに炎や風を出しながら、イズウェルとファーリットは頷きあった。
「俺、絶対、『地吹雪』の奴らって怒らせると厄介な奴ばっかだと思うんだよな」
「あー……違いないかもな」
ファーリットのぼやきに、イズウェルは力なく頷く。
けれどそんなことを話している余裕があるわけでもなく、二人はさらに走り続けるアイリーンの後を追った。
そうして焦って走る彼女を阻むように、さらに曲がった先で人に出くわす。こちらは、何かしら交戦中のようだった。アイリーンの走っている方角は暴動の起きている中心地に向かうものであるので、そうして戦いの起きている場面に遭遇するのは必然とも言えた。
「私、は」
だが、今のアイリーンにそんな理屈は通じない。
「急いで、いるんだ」
苛立たしげに、呟く。その言葉一つ一つに、力を込めるかのように、強く。
「『退け』!」
放たれた言葉に、争っていた一団が反応する。先ほどまでの争いが嘘のように彼らは動きを止めると、まるで道を譲るかのように脇へとどいた。アイリーンは構うことなく、そんな彼らの間を駆け抜けていく。
「いっつも思うが、あっりえねー」
ファーリットが軽い声を響かせる。けれどそこには、困惑が込められていた。
争っていた一団はみな、不思議そうな顔をしている。どうして、自分たちがまだ幼いとも言える少女に道を譲ったのか、分からないといった顔だ。それは、彼らの意思によるものではないということで。
「あれが、アイリーンの……北大陸の能力なんだろうな」
イズウェルは呆れたように小さく呟いた。
ただ、二人ともそれ以上は考えようとせず。いまだ道を譲る格好のまま止まっている一団の横を、さっさと通り抜けていく。放っておいても、アイリーンの放った言葉の影響力が彼らから抜けてしまえば、すぐに自由になれると知っているからだ。ヴィルフールが言うには、アイリーンの能力は高いので効果の持続時間も長いとのことだったが、二人の知ったことではない。そのうち解ける、それだけで二人にとっては十分なのだ。
二人が案じるのはアイリーンであり、アイリーンが案じているヴィルフールたちであるのだ。それ以外にまで構っていられるほどの余裕など、彼らは持ち合わせていないのだった。
だからこそ、ためらいなど見せることなく二人は駆け抜ける。ただ、自分たちの前を駆け抜ける紫紺の少女を追って。
一方、二人を構うこともなくアイリーンは独走を続けていた。走って、走って、走って、とにかく走って。
だが、彼女はふいにその足を止めた。驚いた二人がたたらを踏みながらも立ち止まる中、アイリーンは正面に目線を固定したまま、叫んだ。
「ヴィルフール!」
その叫びに呼応するかのように、二つの風が舞った。一つは道を切り開く、鋭く駆け抜ける疾風。もう一つは、柔らかく包み込むような恵風。
「ルド」
「サーレ」
ファーリットとイズウェルは、その二つの風を操る者たちの名を、呼ぶ。風と共に舞い上がった砂煙の向こうに、その二人の姿が現れた。
「ヴィルフール!」
サーレに背負われているヴィルフールを見つけ、アイリーンは駆け寄った。少女の言葉が聞こえたのだろう、ヴィルフールは閉じていた目をゆっくりと開ける。
「……アイリーン?」
そして小さく、名を呼ぶ。それに唇を噛み締める彼女を見やり、痛みに瞳をすがめながらも苦笑した。
「使っただろう? 能力……」
「ヴィルフール、それよりもっ」
「駄目じゃないか。言っただろう? そう簡単に、その能力を、使ってはいけないって」
苦痛にうなされながら、ゆっくりと噛み含めるように言うヴィルフールに、アイリーンは強く拳を握り締めた。ヴィルフールは少しだけ表情を和らげると、そっと手を伸ばして、少女の頭を軽く撫でる。
「心配、してくれたんだね? ごめん、ありがとう……」
それだけ告げると、ヴィルフールの手から力が抜けた。ハッと顔を上げるアイリーンの前で、ヴィルフールは目を閉じる。
「ヴィルフール!?」
「気を失っただけだ」
不安気に瞳を揺らすアイリーンに、サーレは短く告げる。そこでようやく、アイリーンはヴィルフールを背負っているサーレへと視線を向けた。
その紫紺の瞳には、強い光が宿っていた。怒り、それも激怒というのがもっとも近いその光は、サーレへと向けられていた。
「なぜ、あなたがついていながら、このようなことになっているのだ」
低く、唸るような声。普段であれば絶対に聞くことのないようなその声に、イズウェルとファーリットは驚いてアイリーンを見つめる。それすら気付くことなく、少女は感情を爆発させた。
「あなたが、ヴィルフールを守ると私に言っただろう!? あの言葉は、たばかりだとでも言うのか!?」
怒りに叫ぶアイリーンを、サーレはまっすぐに見据えた。その瞳からは、やはり何も読み取ることが出来ない。感情を『読み取る』ことに長けているアイリーンですら、分からないほどに。
「悪い」
淡々と、静かにサーレは謝罪する。さらに言い募ろうとするアイリーンの肩を、後ろからイズウェルが押さえた。そうして落ち着け、と繰り返すイズウェルの方を、アイリーンは振り返ろうともしない。怒りの冷めやらない目を、サーレに向けるばかりだった。
「……俺の、せいだ」
その空気を沈めたのは、ルドの小さな言葉だった。地面へと落ちるように、ただ小さく呟かれたその言葉に、全員が彼へと視線を向ける。未だ眠り続けている幼い子供を抱いたまま、ルドはうつむいていた。
ふっと、空気が冷めやったように。静寂が、落ちた。アイリーンは困惑したように、ルドを見つめている。イズウェルはその後ろで驚きに目を見開き、ファーリットはことの成り行きを見守るように状況を見据えていた。
「戻るぞ」
その静寂を一瞬にして打ち破ったのは、サーレだった。彼はヴィルフールを背負いなおすと、ただ一言、告げる。
「そうだな。急ごう、ヴィーも早く治療しないといけねぇし。この面々じゃ、回復役がいねぇからな」
ファーリットがそれに同意する。大きく腕を回すようにして戻るよう手で合図する彼に、アイリーンやイズウェルは少しの間のあと、従って歩き出す。
「ルド」
サーレが小さく、ルドの名を呼んだ。それにわずかに顔を上げて、ルドも歩き出す。
「……なぁ」
そうして歩き出したところで、ルドはふいに声をかけられた。足は止めないまま、ふっと顔を上げる。声をかけてきたのは、イズウェルだった。
「その子、もしかしてフュールじゃないか?」
イズウェルが尋ねているのは、ルドの抱えている幼子のことのようだった。だが、彼のことを何も知らないルドに、答えられるはずもない。
「知っているのか?」
ルドの代わりのように、サーレが振り返りながら尋ねる。イズウェルは一度、確認するかのように幼子を凝視した後、しっかりと頷いた。
「ああ。あたしが見回りに行く辺りの子だからな。確か、両親は小さな店をやってたと思うんだが……」
ふっとイズウェルは顔を上げて、サーレを見た。おそらく彼女には、誰が幼子を助けたのかが大体予想できているのだろう。
何かを問うような視線を向けられたサーレは、表情を変えることはなかった。ただ、どこか緩慢とも取れる動作で、首を横に振る。
「そう、か……」
その意味を理解したイズウェルは、それ以上何も言おうとはしなかった。それは他の面々も同じで、ただ『地吹雪』へと戻るために歩みを進める。
その中で、ルドは幼子を抱えたまま唇を噛んだ。たくさんの思いが頭の中を駆け巡り、思考をぐちゃぐちゃにかき乱していく。吐き気を覚えるような、嫌な感覚だった。
腕の中で眠り続けている幼子の重みと、温かさが、それに拍車をかけていた。
「早く、戻らねぇとな」
ふいに呟かれたファーリットの言葉が、やけに耳に響いた。
その後、何度か交戦に巻き込まれたりしたものの、一同は特に怪我もなく『地吹雪』へと帰り着いた。
『地吹雪』に戻ってきたときのトリウムの反応は凄まじく、彼はアイリーンを見て怒ったかと思うと、怪我を負っているヴィルフールを見て真っ青になった。そのままバタバタと慌しく治療の準備に向かう彼を見やり、ルドはしばらくぼんやりと突っ立っていた。
ヴィルフールは奥の部屋に運ばれ、治癒能力を扱えるトリウムが手当てに当たっている。ファーリットの友人であるという少年、ルーファスもそれに加わっているため、ファーリットと普段共に過ごしている少年たちもそのまま『地吹雪』に留まっていた。
ファーリットはそんな仲間たち一人ひとりに声をかけ、何事かを話したり笑いあったりしている。彼は仲間たちからよほど信頼されているらしく、彼が行く先々で、お世辞にも綺麗とは言いがたい身なりの子供たちが彼に飛びついていた。
サーレはどこで何をしているのか、ルドは知らない。ヴィルフールの治療についていったようにも思えたが、途中で運ばれていく彼を見送った後はふらりとどこかへ姿を消した。
アイリーンは『地吹雪』の子供たちの面倒を見るため、あちこちを動き回っている。特に何を話すわけでもない彼女だが、意外と面倒見は良いようだった。特に、ルドが抱えてきた幼子のことを気にかけているのか、目を覚ます気配のないその子は今もアイリーンの腕に抱かれていた。
イズウェルは仕事を放棄してきた形になってしまったために、『地吹雪』に全員送り届けるや否や飛び出していった。今頃は、他の隊員たちと合流し、仕事をしているだろう。
そんな慌しい中、ルドは壁に寄りかかるようにして、ただぼんやりとしていた。全員が全員、自分のことに精一杯である状況なので、わざわざ彼に声をかけてこようとする者はいなかった。彼自身が、拒絶するような空気を纏っているせいかもしれない。
そうしてぼんやりと、彼は何度も何度も、先ほどの光景を反芻していた。
それは、ヴィルフールが怪我を負った瞬間。
自分を庇い、ヴィルフールが背中を切りつけられたときの記憶だ。
あのとき、自分は何を思っていたのか。思い出せなかった。ただ、ヴィルフールが飛び込んできたこと。彼の体の重みと、手に触れた生暖かい血の感触だけ、鮮明に記憶していた。
そして、彼が倒れた、後は。
燃えている建物の炎の熱さ、纏う風の感覚の鋭さと懐かしさ、戦うことへの高揚、向かってくる相手の壊された表情、正気の者の持つものではない瞳、飛び交う能力の放つ独特の波長と感覚。
それらのあらゆる事柄、記憶が、断続的に記憶されていた。けれど、それは鮮明なものではなくて。
ヴィルフールを地面に寝かせた、後は。ただ、真っ白に塗りつぶされた頭で、向かっていった。ただ、戦うために。ただ、倒すために。
その白さは、かつて居た場所の感覚によく似ていた。意識全てを塗りつぶしてしまう、狂気じみた、染まることのない、白。
かつての、場所。
浮かんだその単語に、ルドは左腕を握り締めた。自ら破き捨てた袖の下、刻まれた烙印。それは、かつての場所に所属していたという証。自らを示す、一つの指標。存在の、証。
けれど、どうなのだろうか。
本当にこれは、そうなのだろうか?
浮かび上がる疑問は、何も今日初めて考えたことではなかった。ここに連れてこられて、どれくらい経ってからだろうか。はっきりとは覚えていない、けれどいつからか、おぼろげに考えるようになっていたこと。
けれど、考えないようにしていたこと。
本当に、帰る場所はあるのだろうか。
あの場所に帰ること、それが願いだった。それが望みだった。それが希望だった。
けれど、本当に?
あそこに帰ったところで、自分の居場所はあるのだろうか。
そもそも、自分はどういう存在なのか。
自ら殺めた“失敗作”と呼ばれていた者たちを思い浮かべる。壊された表情、正気の者ではない目、燃えていた建物、傷つけられたヴィルフール。
いくら“失敗作”として『処分』された者たちとはいえ、彼らもかつては自分と同じ場所にいた者たちだ。だが、彼らは自分を殺そうとし、出会って間もないヴィルフールは自分を庇って怪我を負った。それが、ルドの見た現実だった。
いや、そもそも処分とは、どういう意味なのか。
ただ、人が『処分』と称されて消えていくことに疑問を持たなかった。必要ないものは消されていく、それだけのことなのだと思っていた。
けれど、処分とは。あれが、処分なのか。必要のなくなったものを放ち、こうしてさまざまなものを奪っていくことが。
そこまで考えて、ルドは自分の手を見る。そして、自嘲した。
なんてことはない。自分も何も変わらない。何せ、その“失敗作”たちを消し去ってきたのは自分なのだ。あれを、『処分』と呼ばずしてなんと呼ぶのか。
そもそも、自分は何のために戦ったのだろうか。
自分にとっての戦いは、自分のため、それ以上でもそれ以下でもなかった。そうして役に立つことで、そうして自分の力を誇示することで、居場所が作られる。そうすることで、自分はあの場所に、居場所を見出すことが出来るのだ。不必要なものとなってしまえば、途端に“失敗作”となるのだから。
では、あの“失敗作”たちを皆殺しにしたとき、自分は何のために戦っていたのか。
――それでも僕は、母さんの役に立てれば、それでいいよ。
ふいに思い浮かんだのは、かつての少年の言葉。
彼の気持ちと。その純粋さゆえに、愚かすぎるほどにただ一つのために生きようとする、あの少年の気持ちと自分の気持ちは異なるものだろう。
それなのに、なぜか浮かんできたのは少年の言葉だった。
静かに笑っていた少年の顔を思い出す。柔らかな笑みは、それでも哀しみを含んでいた。決して、自分の想いに答えが返ってこないことを知っているかのように。
吐き気が、する。どうして、自分のため以外に、誰かのために戦いなどしなくてはならないのだ。何を馬鹿なことを、と思っていた。
そのはずだ。それは今も、そのはずだ。
それなのに、どうして自分は、彼を守ろうとしたのか。
答えの出ない思いが、渦を成していく。ここに来るまでのこと、ここに来てからのこと。ただただ、回り続ける。
何かと世話を焼いていたバザックのこと、あまり関心を持たないような表情をしながらもこちらを見ていたクーレンのこと、約束をして帰っていったアリアのこと。
いつも柔らかく笑いながら、ただ静かにそばに居続けたヴィルフール。何を考えているのかさっぱり分からなかったが、不思議と自分を留め続けたサーレ。特に何を言うわけでもなく、一定の距離を保って穏やかに見守っていたトリウム。会うたび会うたび馬鹿みたいに笑いながらも、さまざまなことを教えていたファーリット。口が悪いながらも、彼女なりに心配していたイズウェル。不快な忠告をしてきたけれど、ただ必死に何かを守ろうと奔走しているアイリーン。
たくさん、たくさんのことが頭を駆け回る。
ルドはふらりと立ち上がった。そのままおぼつかない足取りで、ふらふらと自室に向かう。
三人共同で使っているその部屋には、今は誰の気配もない。ヴィルフールがいるわけもなく、サーレも戻った形跡がない。誰もいない、ただ静寂が落ちたその部屋にたどりつくと、ルドは後ろ手にドアを閉める。
そしてそのまま、座り込んで頭を抱えた。膝を抱きしめるようにして、そこに額を押し付ける。
もう、何も、考えたくなかった。
ただ、全てを拒絶したが故の静寂が、あった。