【11】 懐かしい感覚は唐突な異変と共に
いつの間にか、北部でもっとも暑い季節がやってきていた。とはいえ、元々が雪に覆われた地と呼ばれるようなところである。どちらかというと過ごしやすい時期であり、ルドはこの季節が嫌いではなかった。
痩せた地面の上、立ち並ぶ家々の間を抜けていく。『最後の溜まり場』と呼ばれるサリッシュウィットは、意外と人も多い。特にこの時間帯、市場は買い物客でごった返していた。
「ルド、はぐれないでね」
ヴィルフールに声をかけられ、俺は一体いくつだ、と思ったルドだが何も言わなかった。
思えば、市場などには来たことがなかった。特にサリッシュウィットに来る前などは、そんな必要などない生活を送ってきたのだ。人の多さに辟易しつつ、ルドはいつもの二人、ヴィルフールとサーレの後について進んでいく。
ヴィルフールは手馴れたもので、目的の品を出している店を見つけては声をかけ、手際よく値切っていく。時折世間話を混ぜ込みつつ、穏やかな笑顔で値切っていくそのさまはある意味で圧巻だ。実に手馴れている。彼のことを今すぐにでも主婦になれる、と言っていたのが誰であったかルドは忘れたが、妙に納得のいく瞬間だった。
一方、サーレも値切りはしていた。しかし、彼はヴィルフールのように話術で交渉するのではなく、値段が自分の言い値になるまでほぼ無言を通す。どんなに相手が何かを言ってきても、簡単な返事をするだけでひたすらに待つ。それも、やはり無表情のままで。根負けさせるそのやり方は意図しているわけではなく、単純に彼の性格によるものなのだろう。しかし、商売人にとっては非常にやりにくい相手だろう。実に迷惑である。
そんな対照的な二人から視線を外し、ルドは視界に入るもの全てを見るように、ゆっくりと周囲を見回した。
ふとした瞬間、世界が紙切れか何かのように感じる。その症状は今も続いていた。日常にもなってきた喧騒から意識が離れたその瞬間、それは訪れる。どこにいようとも、付きまとう影のように。
「おい」
ふいに頭上に風を感じて、ルドは反射的にそれを避けた。ふっと、顔の横を人の手が通り過ぎていく。それで頭を叩かれようとしたのだということに気付き、ルドは敵意もあらわに彼を睨んだ。
「サーレ」
「はぐれるなと、ヴィルに言われただろう」
サーレは淡々と言い、値切って買った戦利品を抱えなおす。そしてルドからふらりと視線を外すと、そのままヴィルフールの元へと歩いていく。
ルドは大きくため息をつき、そのまま動こうとしなかった。
しかしそうしていると、サーレは振り向いてルドに無言の訴えを向けてくる。早く来い、と言いたそうなその視線に何となく腹が立ち、ルドが無視していると。
「二人とも、そんなところで立ち止まってると邪魔になるよ」
止まっている二人に気づいたヴィルフールが振り返り、苦笑しながら声をかけてくる。そこにとがめる響きは感じられず、仕方ないなぁ、とでも言わんばかりだった。
サーレは興味を失ったかのようにヴィルフールの元へと向かう。ルドも何となく毒気を抜かれ、やや距離を保ったまま二人の後に続いた。
ルドが居場所のなさに囚われると、決まってサーレが呼び戻した。そしてヴィルフールが、穏やかに丸く治めてしまう。
いつの間にかそんな方程式が出来上がっていることに、ルド自身も気づいていた。けれどそれだけで、彼はそこから何かを見出すことはしなかった。どんなに呼び戻されても一時で、丸く治められたように感じても何も変わっていない。それが、彼の感覚だった。
それでも、もう習慣のようにして彼は二人についていく。
だが、ふと違和感を覚えて立ち止まった。
何だろうか、この、感覚は。
明確に形にならない思考を追いかける。そして、ふと思い当たったのは。
ルドは気付き、呆然と顔を上げる。信じられないという思いと、その感覚を信じたい思いで、かすかに呼吸が乱れた。
それは、かつていた場所の感覚。白い、白いあの場所の。
「ヴィル!」
ふいに響いたサーレの鋭い声で、ルドは意識を戻された。
こんなときにまで、と恨めしげにサーレを睨みつけようとした彼は、同時に飛び込んできた光景に目をむく。
顔を青ざめさせたヴィルフールが、立ち尽くしていたからだ。
「ヴィル?」
不審に思い、ルドも彼に声をかける。それで我に返った、というよりは無理やり意識を現実へと引き戻したらしい彼は、青い顔のまま叫ぶ。
「サーレ、ルド、早く『地吹雪』へ!」
真剣なその表情からは、焦りが読み取れた。驚くルドには目もくれず、何で今まで気づかなかったんだ、と苛立たしげに呟く。その様からは、自責の念も垣間見える。
「トリウム兄さんに連絡を! それと、ファーリットやイズウェルたちに、早く知らせないと!」
取り乱したヴィルフールというのを、ルドは初めて見た。初対面で首を絞めたルドだが、そのときですらヴィルフールは慌てなかったのだ。
「アイリーンがいれば……っ」
「落ち着け、ヴィル。まずはどこだ? いや……」
一瞬の思案の後、サーレは言葉を変えた。
「どこから、来る?」
その意味は、ルドには分からない。けれど、ヴィルフールには伝わったようだった。ハッとしたように目を見開いた彼は、わずかに視線を揺らす。けれどすぐに、確固とした答えを返した。
「北だ」
「なら、イズウェルだな。あそこからなら『地吹雪』にも連絡が取れる。アイリーンも今日は『地吹雪』にいるはずだろう?」
「学校は休みだからね」
「決まりだな。途中、ファーリットの奴らにも会ったら伝えればいいだろう」
ヴィルフールは頷き、ルドの方を振り向く。
「ルド、予定を変更するから。少し、イズウェルの仕事場に向かうよ」
それだけを言って、ヴィルフールは踵を返す。どこか余裕のないその姿はやはり彼らしくなく、ルドは先ほどの感覚以上の違和感を覚える。
「どうしたんだ」
ゆえに尋ねてみるルドに、ヴィルフールは気付いて少し困ったような表情を浮かべた。
ふと、ルドはアイリーンの言葉を思い出す。アイリーンは彼が、自分から何かを感じ取っているのだと言っていた。それは、ヴィルフールが何かを感じ取る力があるということなのだろうか。
ルドはそんなことを考える。とはいえ、その仮説をルド自身はさほど信じてはいなかった。そんな能力など、彼は知らなかったからだ。
「そう、だね。どう言えばいいのかな」
ヴィルフールは急ぎ足で歩きながら、そんなことを答える。
「ただ、何かが来ているらしいことだけ分かるんだ」
ルドの心臓が、跳ねた。
それは先ほどの、ルドの感覚によく似ていたからだ。ただそれは何かではなく、彼にとっては懐かしいものだという違いがあっても。
だが続く言葉に、ルドは嫌な感覚を受ける。
「良くない、とても良くないものだ。あれは絶対に、僕たちに危害を加える」
穏やかさを忘れないヴィルフールが言ったとは思えないほど、冷えた声だった。背筋が凍るような、冷たい声での断言。
思わず言葉を返すことの出来ないルドに、ヴィルフールは苦笑を返す。
だが次の瞬間、ヴィルフールの動きが止まった。表情が凍りつく。
「ヴィル」
サーレの無機質な声が、喧騒の中でもはっきりと響いた。
「手遅れだ」
まるでその言葉が、一つの引き金であるかのように。
直後、悲鳴と爆音が響いた。ルドは弾かれたように、その音がした方角へと視線を向ける。そう遠い場所ではないようだった。
「戻るぞ。ここまで来たら、後は自警団と警備隊の仕事だ」
特に表情を変えることもなく、サーレはやはり淡々と言い放った。
ギリッと、歯を噛み合わせるような音がする。悔しさからか奥歯を強く噛み締めたヴィルフールは、しかしすぐに顔を上げる。
「分かってる。急ごう」
ヴィルフールは頷き、ルドの方を振り返る。
だがその瞬間、彼はその赤紫の瞳を見開いた。
「ルド!?」
ルドは、走り出していた。気付いたサーレが手を伸ばすのをすり抜けて、ヴィルフールの呼び声にすら反応することなく。鋭い風を纏い、深い青の髪をなびかせて。紫の瞳は振り返ることもなく、前を見据えたまま。どこまでも速く、強く、駆け抜けていく。
北を吹き抜けるという意味を持つ、“青紫の朔風”の二つ名のままに。
「待って!」
慌ててヴィルはその後を追う。だが、風を纏うルドに、ヴィルフールが追いつけるはずもない。あっという間に、その背は人ごみに紛れて見えなくなってしまう。ヴィルフールは歯噛みして、サーレの方を振り向いた。
「サーレ! ルドを……」
「嫌だ」
だが言い終わるよりも早く、サーレは淡々とした言葉を返した。
「優先事項はお前が上だ」
「サーレ」
「分かるだろう」
ヴィルフールは唇を噛み締める。
ルドは高い能力と戦闘力を持ち、たった一人で荒野を生き抜いてきた。片やヴィルフールは、戦いに必要な反射神経と動体視力に難有りと周囲から断言されるくらいだ。この混乱の中、何か起きたときに危険にさらされるのはどちらかなど、考えるまでもなかった。
けれど、それでも。
「追うよ、サーレ」
すぐにヴィルフールは告げる。サーレはヴィルフールを置いては行かないだろう。ならば、共に行けばいい。
ルドの心配などする必要はないのかもしれない。年齢からは考えられないほど、彼は強い。ある程度の危険なら、軽く退けられるだけの力を持っている。
けれどそれは、平時のとき。彼が万全の状態であるときの話だ。身体的な面に関していえば、ルドに問題はない。だが精神的な面はそうではないと、ヴィルフールは見抜いていた。それゆえに、彼はこの騒ぎの中、一人で駆け出したのだろうということを。
ヴィルフールはルドの過去を知らない。それは彼に限らず、『地吹雪』の全員に言えることだ。だが、ヴィルフールはそれを重要なことだとは思わない。本人が話したくないのなら、それを無理に知る必要はないと思っているからだ。
けれど、過去によって現在が形成されるのも確かで。おそらく、今回の件はルドの過去に強く関わるものなのだろう。それがどういう形なのか、ヴィルフールには分からないけれど。
「行こう」
ルドが知られたくないのなら、知る必要はない。けれど、彼を傷つけさせるわけにもいかないのだ。今、ここを襲っている気配は、とても嫌な感覚を覚えるものだから。
「追えるか?」
ふいに向けられたサーレの疑問に、ヴィルフールは微笑んだ。それは穏やかな、けれど強さにあふれた微笑みだった。
「僕を誰だと思っているんだい?」
サーレも確信をこめた上での疑問だったのだろう。即座に頷くと同時に、地を蹴る。ヴィルフールも、すぐにその後に続いた。
ルドは走っていた。走って、走って、走って。息をつぐ間も惜しむように、走り続けていた。鋭い風を身に纏う。大地を強く駆け抜けていく、この高揚感はどこか懐かしかった。能力を解放したときに感じられる、疲労を伴う心地よさ。加えて行く先には、懐かしさを覚える気配がある。
ヴィルフールとサーレの会話は、爆音が聞こえた瞬間から彼の耳に入っていなかった。ただ、感覚のままに彼は駆け出していた。
それは、かつての自分の居場所。戦い続けたあの場所。穏やかさからは程遠い、けれど唯一つの自分の居場所。
帰れるのだ。還ることが、できるのだ。
あの、場所に。白い、白いあの場所に。
ただその思いだけで、ルドは走り続ける。
けれど。
「ルド!?」
聞き覚えのある声が響いた。それが誰のものであるのかを認識するよりも早く、ルドは腕をつかまれた。
「離せ!」
反射的に風を放つと、相手は驚いたように手を離す。その隙を縫って駆け抜けようとするも、再び腕を掴まれた。
「待てと言っているだろう! この先は危険だっつってんだよ! 早く戻れ!」
ルドは苛立たしげに相手を見やる。視界に飛び込んできたのは、艶のない群青色の髪。乾いた大地を吹き抜ける風を思わせるその色に、ルドは眉根を寄せた。
「ルド、聞いているのか!?」
ルドの腕を掴んだままのファーリットは、焦ったように言葉を募らせる。それを一瞥して、ルドは無造作に腕を振った。同時に、強い風が巻き起こる。
「っ……」
防ぎきれず、ファーリットはそのまま後方へと飛ばされた。壁にぶつかる音が響き、ファーリットがうめき声を上げても、ルドは眉一つ動かさなかった。
「邪魔だ」
紫の瞳は、ただ冷たい。射抜くでもなく、押しのけるでもなく、払いのけるでもなく。ただ、冷たかった。それは拒絶の、冷ややかさ。
ぞっとするようなその瞳に、ファーリットは息を呑む。けれどその状況でも、しっかりと受身を取っていた彼は、急いで身を起こした。
けれどその間に、ルドは背を向けて走り出す。風を纏った彼を、まだ痛みから抜け切れていないファーリットに追えるはずもない。やはりすぐに、その姿は見えなくなってしまう。
「ルド!」
途中まで追って、ファーリットは足を止めた。
ルドのことは気がかりだ。この混乱もあるし、いつもと違う態度も気にかかる。
けれど、ファーリットには他にも守るものがあるのだ。彼を慕い、集う子供たち。街の人たちからうっとうしがられながら、子供同士で、時には大人とも闘争を繰り広げながら。後ろ盾もなく、頼るものもなく。一日一日をしのぎながら、住む家もなく路上で、けれどたくましく生きている仲間たち。
普段から一箇所に集まっていない彼らは、今日もそれぞれに散っている。彼らの安否も、確認しなくてはならない。何か危険があるのなら、身を張ってでも守り、助けなくてはならない。それが自分を慕う彼らへ、ファーリットが出来る精一杯の礼儀なのだ。
だからこそ。だからこそどうすべきか一瞬悩み、立ち尽くしたファーリットに。
「ファーリット!」
声が、響く。それは柔らかな、けれど強さを秘めた声。暁が夜を抱き込んで、朝へと導くように。喧騒の中、穏やかな静けさをもたらすかのように響く、声。
「ヴィー」
不思議と安堵したような気持ちになって、ファーリットは彼の名を呼ぶ。
人ごみを避けてきたのだろう、裏通りを疾駆してきたらしい二人の少年が駆けてくる。薄紅色の髪と、水色の髪。印象的な髪色を持つこの二人は、その色彩が対比であるようで、対であるようで。ファーリットとしてはこの二人が一緒にいるところを見るたびに、笑いを誘われたものだ。本人たちが聞いたら、微妙な反応をするだろうけれど。
「良かった、君は、どうも、ない?」
「ああ。どこぞの馬鹿に吹っ飛ばされたこと以外は、今のところな」
ヴィルフールはすぐにその意味を悟ったらしい。膝で上体を支えるようにして息を整えていた彼は、弾かれたように顔を上げる。そして、申し訳なさそうな表情をした。
「ルドか」
サーレの方は特に息を切らすこともなく、淡々と告げる。可愛げのねぇ奴、と思いながら、ファーリットは頷く。
「ああ、この奥だ」
「ありがとう。ごめん、迷惑かけたね」
ヴィルフールは簡潔に礼を述べると、額の汗を手の甲で強くぬぐった。そうして顔を上げ、走り出そうとしていったん止まる。
「ファーリット! 君のところの、他のみんなは?」
「今から、見に行くところだよ」
本当によく気がつくと、ファーリットは呆れとも感嘆ともつかない表情を浮かべる。
「ならば、『地吹雪』に避難するように言っておいてくれ! この混乱が収まるまでの、一時的な集い場所と考えてくれればいいから!」
施しを受けるのを好まないファーリットたちの性格をよく把握しているのだろう、ヴィルフールはそう叫ぶ。何をするわけでもない、ただ集まる場所にすればいい、と。
「勝手にそんなこと言っていいのかっ?」
「トリウム兄なら、分かってくれるよ」
再び走り出そうとしながら、ヴィルフールは笑顔で言い放つ。それは、育ての兄に対する絶対的な信頼だった。彼なら、トリウムであれば、絶対に理解してくれると。拒むはずがないという、盲目的なまでの信頼。
「じゃあ、また後で!」
それだけ言って、ヴィルフールは走り出す。サーレも、その後を追う。二人の姿もまた、見えなくなって。
「言ってくれる」
ファーリットは苦笑した。そして、普段から腰に下げている短剣に、手をかける。
「しっかり守れよ、サーレ。待ってろよ、ヴィー」
にやりと、悪童めいた笑みを浮かべて。
「俺も、一応は剣なんだからな。お前らを守るための」
自らを戦うものだと、幼い頃に定めた少年は。艶のない群青色の髪を風になびかせ、同色の瞳に楽しげな、強い光を宿して駆け出した。