【9】 紫紺の少女の言葉は少年への兆し
随分と慣れたみたいだな、と唐突に言われて、ルドは作業の手を止めた。
「おいおい、手を休めるなよ」
それに呆れた顔をしたイズウェルを、ルドは睨み付けた。冷えた紫の瞳は一種異様な威圧感をかもし出すのだが、この女傑には通じない。おお怖、と呟いて肩をすくめただけだ。
「なに、そんなに慣れてきたって言われるのが嫌なのか? いいことじゃねぇの」
「うるさい」
「はー、ファーリットの奴も言ってたけど、ほんっとかわいくないな。ま、あたしより一つ年上なんだから、当然っちゃ当然か」
何がおかしいのかけらけらと笑うイズウェルに、ルドはさらに不快気な表情になる。
バザックたちが東部へと帰ってから、一月が経った。ルドが来る少し前に起こったという内乱も今はなりを潜め、ヴィルフールたちが手伝いに行くことも少なくなっていた。彼らと行動をともにしていたルドも必然的に、そうしたことをすることが減っていた。
そして今日、ヴィルフールとサーレは仕事に行っていた。特定の仕事についているわけではない彼らは、短期や日雇いのものを見つけてきては働きに出ているらしい。
今回、ヴィルフールはサリッシュウィットの中でもそれなりに裕福な家の子守に行っている。サーレについては、ルドもよく知らなかった。ヴィルフールと一緒ならともかく、あのやる気というものが根本から欠如しているようなサーレが真っ当な仕事をしているところというのが、ルドには想像がつかなかった。
そして、ルドはというと。
「おいおい、お前洗い方雑すぎ。もちっと丁寧に洗いやがれ。ヒビでも入ったらどうしてくれんだよ」
彼の危なっかしい手付きを見ながら、イズウェルは呆れたように注意をする。
ならお前がやれ、と思いつつ、ルドは食器を洗っていた。がしゃがしゃと音がするところからして、イズウェルの言うとおり非常に粗雑な洗い方をしている。
ルドは最近になって知ったことだが、イズウェルはあまり『地吹雪』にはいない。普段は仕事場の粗末な宿舎で寝泊りをしているからだ。今年十三歳になる彼女はすでに義務教育を終えており、この国では働いていても珍しくはない年齢なのだ。それは貧しく、教育制度の整っていないここ北部であればなおのことだった。ゆえに、十二歳になると職に就き、イズウェルのように『地吹雪』を出て行く子供たちがほとんどだ。彼女と同い年であるヴィルフールやサーレがいまだ『地吹雪』に留まっていることのほうが、珍しいことらしい。
道理で同年代、もしくは年上の奴らがとんといないわけだと、今年十四になるルドはぼんやりと思った。
「って、おいおい。聞いてるのかよ」
そんなイズウェルは仕事が休みらしく、『地吹雪』へと子供たちの世話の手伝いに来ていた。そして特に仕事もなかったルドは、彼女に捕まってこうして皿洗いをさせられているのだ。
「ったく、お前、マジで何やってんの? この程度のこと出来ろよな、無駄飯食らいの役立たずになりてぇってんならともかく」
あー情けねぇ、と呟くイズウェルは、手早い動作で食器を拭いていく。しかしルドの作業は雑なわりに遅いため、すぐに拭く食器がなくなる。
「って、もういい。お前、洗うほうに専念しろ。すすぎと拭くのは、あたしがやる」
呆れた、とばかりにイズウェルはてきぱきと作業にかかる。何となく悔しくなり、ルドはぎりぎりと歯噛みした。妙に馬鹿にされているような気がしたからだ。
それに気づいたイズウェルは、ふふん、と鼻先で笑い飛ばす。ルドは苛立たしげに、食器を洗う手に力をこめた。
「だーから、割れるっつってるだろうが」
それにますます、イズウェルは呆れた顔をする。まさに堂々巡りだった。
「お、悪ぃな、二人とも」
そこにトリウムがやってきた。食器をすすぐ手をいったん止めて、イズウェルは振り返る。
「よぉ、トリウム兄。なんだよ、仕事終わったのか?」
「ちょっと、飲み物をもらいに来たんだよ。なかなか終わらないったらないな」
あー疲れた、とばかりに伸びをするトリウムに、イズウェルはけらけらと笑う。
「そっちこそどうなんだ、イズウェル。仕事のほうは」
「んー、まぁな。それなりに順調だよ。まだまだって感じだけどな」
イズウェルはまたすすぐ作業に戻る。そうして手を動かしながら、トリウムとの会話を続けていた。
「しっかしまぁ、よくやるよ。昼が警備で、夜が酒場だろ? どんな体力だよ」
「若いからな、トリウム兄と違ってっ」
「……い、痛いことを」
胸を張るイズウェルに、トリウムはがっくりと肩を落とした。イズウェルはそれにまた笑う。
「ルドはどうだ? もう一月以上経ったと思うんだが……少しはここに慣れたか?」
「あたしは慣れてきたように思うんだけど?」
さっきからうるさいなこの女、とルドは横目でイズウェルを睨み付ける。が、やはり通じはしなかった。それどころか、気づいてすらいないようにイズウェルは振舞う。
「だってほら、ヴィルがいねぇってのに手伝ってるし。一ヶ月前じゃ考えられん」
「あー、そりゃ確かになぁ」
頷きあう二人に、何を勝手なことを、とルドは内心でイライラとした感情をもてあました。とはいえ、表情には出ない。黙々と皿洗いを続けていく。
「サーレといい、ファーリットといい、こいつといい……ヴィルは妙な奴にばっかり気に入られるからなぁ」
「って、イズウェル。お前もあいつ気に入ってるだろ? お前は入らないの?」
「喧嘩売ってんのか? トリウム兄」
にやりと笑ったイズウェルは、手首の関節を鳴らしてみせる。それに両手を挙げて、止めとく、とトリウムは即答した。
「お前とやりあうのは、結構きつそうだし」
「お世辞言っても何も出ないっての。っていうか、面倒なだけだろ、トリウム兄は」
けらけらと楽しげに笑うイズウェルに、ばれたか、とばかりにトリウムも笑う。
何がそんなに面白いんだか、とルドはそれを眺めていた。彼からすれば、二人のやり取りはただの馬鹿騒ぎのようにしか見えない。
「そもそも、家の中で暴れること自体どうかと思うのだが」
ふいに、そこに第三者の声が響いた。ルドは食器を洗っていた手を止め、イズウェルとトリウムも話を止めてその声の方を向く。
そこにいたのは、十歳くらいの少女だった。肩にかかるくらいに伸ばされた髪は紫紺。光の加減によっては黒にも見える。同色の瞳は、サーレとはまた違った無感動さで三人を映していた。
ルドはその少女に覚えがあった。もっとも、一月も暮らしていれば、『地吹雪』で暮らしている子どもたちの顔というのは嫌でも覚えてくる。彼女もその一人であるということはルドも記憶していた。また一人でいることの多い、物静かな少女であったため、余計に覚えていたのかもしれない。人を避けているというよりは、人と関わることを得意としていないように見えた。
それにしても変わった髪色揃いだなここは、とルドは少女を見やる。ヴィルフールの薄紅色、サーレの水色、そして少女の紫紺だ。色鮮やかにも程がある。
「アイリーン? どうかしたのか?」
イズウェルは少女の言葉をきちんと聞いていなかったのか、聞いた上で流したのか。判断に迷うところだが、アイリーンはそれについては触れなかった。
「聞きたいことが、あったんだ。……ヴィルフールは?」
「ヴィルなら、今日は仕事に行ってるけど。聞きたいことって何だ?」
トリウムは屈みこみ、アイリーンと視線を合わせる。だが、アイリーンはふいっと視線を逸らした。
「トリウム兄さんに言っても、仕方ないから」
それだけ答えると、そのまま気まずそうに黙り込む。トリウムとイズウェルは顔を見合わせ、わずかに首を傾げた。
ルドはそれを不審に思いながら見ていると、ふいにアイリーンと目が合った。深い紫の瞳。自身の持つ色とよく似た色だというのに、見通すような奇妙な透明感があった。
「手伝おう」
「は?」
そして唐突に少女に言われ、ルドは思わず呆けた声を上げた。それを気にせず、アイリーンは足早に歩み寄ると、ルドとイズウェルの間に立つ。
「すすげばいいのだろう?」
「お、手伝ってくれるのか、アイリーン。そりゃ助かるわ。こいつ、とろくてさー」
イズウェルがまた楽しそうに笑う。本当に喧しい女だと、ルドは忌々しげに彼女を見た。
だが、間に入っていたアイリーンを睨みつける結果になり、思わずぎょっとする。睨みつけられたアイリーンはというと、別にどうということもない顔をして食器をすすいでいた。
「ルド」
そのアイリーンに唐突に呼ばれ、ルドは視線を彼女に向けた。
「あなたでいい。聞きたいことがある。これが終わってから」
ルドは怪訝に思い、目を細めた。アイリーンはそれを一瞥し、すすいでいる食器に視線を戻す。
「嫌なら構わない。無理強いをすることでもない」
可愛げのないしゃべり方をする少女だと、ルドは内心で思った。だが、特に予定もなかったルドは、少し考えて頷いた。
「構わない」
イズウェルとトリウムが、同時に意外なものを見るような目をルドに向ける。それに気付いて、ルドは苛立ちのまま眉根を寄せた。
皿洗いを終え、アイリーンに連れられてルドがやってきたのは彼女の部屋だった。彼女の部屋といっても、ルドと同じく三人で使っている部屋であるのだが、同室の二人は出かけているらしい。
「これだ」
そうして少女が持ち出してきたのは、一冊の本だった。分厚いその本は、大人でも読むのを苦労しそうなものである。必要最小限しか読みたくない、というようなイズウェルでは、五分と持たずに逃げ出しそうなものである。
「ここが分からなくてな。聞きたかったのだ」
「……トリウムでいいんじゃないのか?」
ルドは思わず尋ねる。彼がどれくらいの知識を持っているかなどルドの知ったことではないが、彼女の問いくらいには答えられるだろう。
「いや、トリウム兄さんはダメだ」
ルドは怪訝な目を、無言で理由を問う。それを理解した彼女は、小さく息を吐いた。
「忙しい。こんなことで時間を取らせるつもりなど、ない」
その言葉に、ルドはアイリーンを見た。アイリーンの表情はあまり変わることがないが、その目は真剣だった。
分かりにくい気遣い方だな、とルドは思う。あんな言い方では、トリウムの方は気遣われたなど思ってもいないだろう、と。
そこまで考えて、ルドはまたどうして自分がそんなことを考えているのか疑問に思った。きっとヴィルフールあたりの影響だ、あいつ馬鹿みたいに人のことばかり考えているから、と無理やりに自分を納得させる。
「なに、一人で百面相をしているのだ」
ついでに、考えていることがどうやら表情に出ていたらしい。アイリーンに無表情でツッコミを入れられて、ルドは彼女へと視線を向けた。
「別に」
「そうか。それで、ここなのだが」
ルドの言動に関して、特別に何か言うつもりはないらしい。関心がないのか、それとも気を使ったが故なのかは分からない。だが先ほどの言葉を聞いたルドは、なんとなく気遣われたように感じた。
アイリーンはしおりを挟んでいたページを開く。ルドはそのページを覗き込んで、絶句した。
「何を読んでいるんだ」
「見ての通りだ」
アイリーンの開いたページは、戦術に関するものだった。ルドは腰をかがめると、舌から本の表紙を覗き込む。そこに記されていた題名は『能力者に対する戦い方』だった。
「こんなもん、どうする気だ」
「必要だと思ったから読んでいる。実践の方は、基本的にイズウェルに教えを請うている。気が向いたら、サーレやファーリットも教えてくれはするが、どうも彼らは気分屋なのだ」
珍しくよくしゃべった彼女は、しゃべりすぎた、とばかりに口をつぐんだ。
ルドはアイリーンを一瞥すると、視線を本へと向ける。そこに書かれている内容は、ルドも一通り目にしたことがあるものだった。かつていた場所では、多くのことを学ばせられた。直接的な戦い方から戦術に関するもの、薬学、物理学、簡単な医術などまでさまざまだ。
まさか、またこうした書物に触れることになるとは思わなかった。ルドは小さくため息をつきながら、そんなことをぼんやりと考える。
「風使いに対する戦い方、だな。風はそもそも、移動、伝達の能力とされている。古い言葉で『天と地の狭間を駆け抜けるもの』や『世界の言葉を響かせるもの』と書かれているところから、そう定義されているとされている。ここに書かれているように、速さが特徴の一つといえるな。そういう点ではサーレの戦い方は例外だろうが……なんだ、その目は」
きょとんとした目を向けられていることに気づき、ルドは思わず目を細めた。その言葉で我を取り戻したかのように、アイリーンは数回瞬きをした。そして、慌てたように首を振る。
「いや、なんでもない。少々、驚いただけだ。あなたは意外と話すのだな」
「……聞いてきたのはお前だ」
「その通りだ。感謝している。それにしても、詳しいのだな」
アイリーンは感心したように呟く。ルドはそれに、若干不機嫌そうに視線を逸らした。
「ルド。あなたは学校に行ったことはあるのか?」
唐突な問いに、ルドは質問の意図が分からず彼女を見た。アイリーンはそれ以上何も言わず、ルドの目を見つめたまま返答を待っている。
「いいや」
根負けしたのか、ルドは諦めたように首を横に振った。
「そうか。ルドはどのようなところで暮らしていたのだ?」
「なぜ、そんなことを聞きたがる?」
ルドはきちんとアイリーンを見てきたわけではない。しかし彼女は口数の少ない、一人でいることの多い子だと認識していた。こんな風に、他人の事情に突っ込んでくるような少女ではなかったはずだと。
アイリーンは目を伏せた。しばし逡巡するように黙り込むも、決意したかのように顔を上げる。
「あなたは不思議な感覚がある。それが何か、と尋ねられても私は答える術を持たない。しかし、あなたからそう感じるのだ。ヴィルフールはあのような性格ゆえ、あなたに何も言わないのだろうが」
「ヴィルフール?」
彼女の言葉の意味は、ルドにはさっぱり分からなかった。だが、それよりもヴィルフールの名に反応する。なぜ、彼が出てくるのか、と。
それに、アイリーンは言葉をつぐんだ。彼女の表情はあまり変わらない。だがサーレのように、何を考えているのか悟らせない類のものではない。感情を押さえ込んでいる節のある表情だ。ゆえに、ルドにも何を考えているのかある程度は読むことができる。
今は何か、失敗した、と思っているらしいということくらいならば。
「あいつが、何を知っていると?」
「何かを知っている、というわけではない」
「ならば、なぜあいつの名前が出る」
ルドは知らず知らずのうちに、詰問口調になっていた。紫の瞳に、冷徹な色が宿り始める。ここ最近はなりを潜めていたそれに、アイリーンは息を呑んだ。
だが、すぐにそれを見返す。
「彼は、ある意味で私と同じだからだ」
ルドは鼻を鳴らした。まるで要領を得ない彼女の言葉を、あざ笑うように。
それに、アイリーンはわずかにうつむいた。
「悪いことを言った。あなたに分かるはずがないのに」
それは気を悪くしたというよりも、怒ったというよりも。諦めた、ということがもっとも当てはまる態度だった。それに違和感を覚え、ルドは眉根を寄せる。
少女の言葉は、分かるはずがないのだと、諦めてしまっているように見えた。それが何に対してなのか、ルドには分からない。分かろうとも思わない。
ただ少しだけ気になって、ルドは考えた後、口を開く。
「ヴィルフールに聞きたいことがある、といっていたな」
「それが、何か」
アイリーンは目線を伏せたまま、素っ気なく答える。それに苛立ちを覚えながらも、ルドは言葉を続けた。
「こんなことを聞くつもりだったのか? あいつはどう見ても、戦闘には向かないだろう」
アイリーンは顔を上げた。その瞳から驚きが読み取れて、ルドはやはり不機嫌な顔になる。
「意外によく見ている」
どういう意味だ、とルドは思ったが、面倒だったので聞かなかった。
「確かに、これも聞きたいことではあった。だが、ヴィルフールに聞きたかったことではない。そしてそれが何かは、あなたに言っても仕方のないことだろう」
アイリーンはそれだけ答えて、口を閉ざした。しばらく沈黙が流れる。
「悪かった。あなたに何か非があるというわけではないし、これまでのことを話せと強要しているわけでもない」
そう端的な謝罪だけを告げ、アイリーンは黙り込む。
その後、彼女は口を開こうとはしなかった。