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母子石(ははこいし)

作者: 新界徹志

このところの流行はやり病に、千代はすっかり憔悴していた。この船場界隈でも流行り病に倒れた者は数知れない。

千代もまた、先日、十六年間連れ添った夫を亡くしたばかりであった。それにも関わらず、四十九日なのなのかを迎えぬうちに、次いで一粒種の息子に同じ病が襲いかかったのだからたまったものではない。医者に処方して貰った薬も一向に効く気配がなく、病はますます悪くなるばかりであった。

夫とわが子のどちらがなどと比ぶべきことでないが、やはりおのが腹を痛めた子が格別に愛おしいのも当然である。悲痛な思いで看病した夫を身罷まかり、三度の飯も喉を通らぬほどに疲労困憊ひろうこんぱいした千代に、何の因業いんごうがあってか、頑是がんぜない幼子にまで病魔が取り憑いたのだ。平静でいられよう筈などなく、千代は身も引き裂かれんばかりに悶え苦しんだ。

三歳になる我が子を奥座敷に寝かせ、千代はその側に付きっ切りで懸命に看病した。氷嚢ひょうのうを当て、背中をさすり、頬をすり寄せ、愛し子をかばい、それこそ四六時中、片時も休むことなくその小さな身体から病が落ちるまで離れまいとして踏ん張っていた。このようなことでは、病を患う子供よりも千代の方が先に命を縮めるのではと皆が案ずるほどであった。だが、元来が頑丈なのか、昼夜を問わぬ看病にも関わらず、千代は疲れた様子も見せず、流行り病が己に取り憑く隙さえ与えようとしない様子であった。

千代は、この町きっての大店おおだなの娘である。しかし、三女ともなれば乳母日傘おんばひがさで如何にもお嬢様然育ちの姉らとは違い、自然、要領も身につき辛抱強くもなり、幼少より逞しい女子おなごであった。

その千代が、こともあろうに、分家の手代風情てだいふぜいと良い仲になり、挙げ句、所帯を持ちたいと言うのだから、親戚中がこぞって反対したのも無理はなかった。千代は、周りの反対にあっても、それをものともせず意地を通そうとした。寧ろ、相手の男の方がひるんでしまったほどである。それでも千代は踏ん張った。

その時、唯一、千代らを庇ったのが、分家の旦那であった。千代にとっては叔父であるが、格式を重んじる大店にとって分家など飼い犬にも劣る扱いである。分家が本家に楯突くなどもってのほか、そんなしきたりにあらがってまで、旦那様は、兄であり千代の父である本家の主人に対して、姪と自家の手代との仲を許して呉れるよう具申ぐしんしたのである。しきりに手代を褒め、二人の後見まで買って出て、とうとう千代の親を説き伏せてしまった。お陰で、千代はこの手代と晴れて添い遂げることができたのである。

夫は、堅実で真面目だけが取り柄の男であった。この上に、如才のなさが伴えば、商人あきんどには打って付けであり、もっと身を立てたやも知れない。寧ろ千代の方がその点では遥かに勝っている。だが、その真面目さ故に旦那様にも気に入られ、暖簾のれん分けまでして貰うことができたのだから、まあ幸いと言えよう。

旦那様が手代に暖簾分けしたのも、姪御に対する身内の義理や人情からでもなく、まして本家に対する面当てでもなく、手代の誠実まことを見込んでのことに他ならない。旦那様は千代の夫をそこまでうておったのである。

御店おたなの内儀となった千代は、叔父である旦那様の恩に報いるためにも、裏方の務めに励み、夫を支えた。そして、夫は、妻の功に報いんがために精を出し商いに励んだ。夫婦めおと共々力を合わせた甲斐あって、商いは繁盛し、町で指折りの小間物屋にまでなった。奉公人らとの折り合いも良く、店の行く末に不安はなかった。夫婦仲は睦まじく、十分過ぎる程の稼ぎで暮らし向きは明るく、誰もが羨むほどに幸せであった。

ただ一つ、悩みは、二人になかなか子が出来ぬことだった。

それを誰より案じたのは、千代の実家よりもむしろかの旦那様であった。

店の跡継ぎに養子をとってはどうかと旦那様は勧めた。千代もその気になって二人の姉の子の何れかを貰おうかと考えたほどであった。だが縁とは不思議なもので、そんな矢先に、千代は思いも掛けず子供を宿したのである。生まれた子は、玉のような可愛い男の子であった。

夫と所帯を持って十有余年もの間、子に恵まれず、半ば諦めていた時に授かった子なのである。可愛さも一入ひとしお、千代はちまた母御ははごに劣らぬくらい、この上なく深い情愛で我が子をいつくしんだ。

愛しい我が子のために夫婦は一層精を出し、寝食を惜しむほどに夫は商いに妻は裏方に励み、店はますます繁盛した。

三年が過ぎ、紅餅べにもちのような頬を持つ赤児あかごも稚児の衣装が似合う色白の凜々(りり)しい子に育った。良く喋り良くはしゃぐ利発な子で、夫婦はその成長ぶりが何より楽しみであった。

年が明け松がとれて間もないある日のこと、夫は番頭に留守を任せ、丁稚一人を供だって東京に出かけた。東京行きは、近代化の波に活気づく町の様子をうかがうためであり、そこでの流行はやりを直に学んで、大いに商いに役立てようというのである。

見るもの全てが驚くばかりで、夫は商いに対する意欲が更に湧いた。

その帰りに夫は、子供の好物である胡桃柚餅子くるみゆべしを土産に買った。嬉しそうに頬張る子供の顔を楽しみにしながら、列車に乗り、大阪駅に着くと、人力車には頼らず自分の足で帰りを急いだ。己の半分に満たない年頃の丁稚が息せき切って追い駆けるほど、夫は早足で自宅を目指した。

だが、旅から帰った夫は急に高熱に浮かされ、その日から三日三晩寝込んでしまった。旅の途中で流行り病に罹ってしまったのだ。夫は苦しそうに唸り、その合間に、うわごとのように子供の名前を何度も呼んだ。千代は唸り声を上げる夫を懸命に看病した。その声も次第にか細くなり、四日目の未明、夫は東京で抱いた商いの夢も胡桃柚餅子を口にして喜ぶ息子の顔も見ないうちに、遂に息を引き取った。千代がつい居眠りしている間のことである。

「せめて、死に目だけでも見送りう御座いました。」

千代は悔やんでも悔やみきれないことを、弔いに来た近所や知り合いの者と挨拶するたびにそうやってこぼした。鴛鴦おしどり夫婦で知られた間柄だけに、その心中たるや察するに余りあるものがあった。

夫が残してくれたたなはしっかりとした構えで、番頭始め奉公人は皆、生前同様に仕えてくれたので、商いが傾く心配は当面なかった。心配なのは寧ろ、千代の方であった。千代自身は夫が亡くなってからというもの、心と体に風穴が空いたようになってしまった。葬儀を済ませ、初七日しょなのか二七日ふたなのか三七日みなのか逮夜たいやの勤めをするうちに、千代の心も安まるかと思われたが、一度空いた風穴はなかなか埋められずにいた。芯の強い千代にしては珍しく、家の奥に閉じこもったまま塞ぎ込んで過ごす日が続いた。

それに追い打ちを掛けるように、愛し子にまで流行り病が取り憑いたのだから、千代はもう気が狂わんばかりであった。

一日に何度も医者を呼んでみたりして、その行動は常軌を逸してさえいた。しかし、医者が何度、往診に来ようとも、その度に治療の手立てが変わる訳でなく、病がそう容易く治まるものではなかった。

熱に浮かされて小さな体はびっしょり汗に濡れ、声も出ないほどに苦しむのを見て、千代はできることなら代わってやりたい、と願うほどだった。

頼れるものなら何にでも頼り、すがることができるなら何にでも縋った。これまで見向きもしなかった神仏に手を合わせるようになり、人から聞いてお百度を踏んでみたりもした。だが、子供の病は悪くなるばかりで、気安めにもならなかった。とうとう、祈祷師まで呼んでお祓いをしてもらう始末であった。祈祷師は、千代が前世に犯した罪の報いだとか、何だかんだとのたまい、訳の分からない呪文を唱えるだけで、そんなもので病が治る筈などなかった。

五日目の夕暮れ、幼子は、「ああちゃま」と蚊の泣くような細い声を残して身罷みまかった。

千代は呆然とし、今し方、魂が抜けたばかりの小さな身体の上に覆い被さるように突っ伏した。泣き叫びたいが、その声さえも出なかった。自分でもどうして良いか分からないほど心が掻き乱され、夫から続いた看病の疲れが一度に出て、千代は気を失い、そのまま眠りについた。



季節の移ろいは早いもので、あれから二年の月日が経った。

千代は夫の代わりに店の主となったが、商いはほとんど番頭に任せた。番頭も手代も奉公人らは皆、夫の生前に受けた恩に報いようと、衷心ちゅうしんより千代に尽くした。

夫と子供を同時に失った悲しみは、そう簡単に癒えるものではないが、何時まで悲嘆に暮れていてらちが開くものではない。勿論、それが分かったとてまた、どうにもならないのだが、千代は努めて気持ちを鎮め、少しずつ、少しずつ本来の自分を取り戻していった。

そうしているうちに、夫と子供の三回忌が訪れ、親戚縁者を招いて法要を営んだ。

無事に法要を執り終え、親戚縁者が帰った後、千代は経文を上げてくれた住職に向かって問うた。

「ご縁様、去年の盂蘭盆会うらぼんえの折にお聞かせ頂いたお話どすが。」

と千代は切り出した。

千代は、夫と子供を失って後、実家の菩提寺を自家の菩提とし、熱心に通うようになった。これまで上げたことのなかった経文も上げ、朝な夕なに合掌し、南無阿弥陀仏と唱え礼拝することがいつしか日課となっていた。

今や千代にとって仏に帰依することは喜びの一つであった。それ故、その教えについてもっと知りたかった。千代は訊いた。

「ご縁様は、先祖の供養をするなどおこがましいことや。わてら凡人にそんな力などあらしまへん。御仏みほとけがお救い下さるのを信じてひたすら願うたらええ、とそのようなことを仰いましたね。すると、わては、おこがましい罰当たりな女子おなごになるんですやろか。」

「はて、どういう意味でございますかな。」

「いえ、わては亡くなった主人と子供が、せめて少しでもはよう成仏するようにと、供養してまいったんどす。主人と子供が一遍におらんようになって、わては悲しゅうて、悲しゅうて、最初の三月みつきは泣いてばかりおりましたんや。せやけど、泣いてても死んだ者はもう還ってはきやしまへん。それやったら、早う、浄土に行かしたるよう供養したろと思うて、ご縁様のお寺へ参らせて貰うようになりましたんや。それが供養とはそういうもんやないと言われたら、わてはどないしたらええのかわからんのんどす。わては今まで間違まちごうたことをしとりましたんやろか。」

「これは難しい問いかけやな。」

そう言って、住職は両膝を叩き、乾いた唇を舌で湿し、目を瞑って考え込んだ。

「うーん」

唸った後、住職は目を開きゆっくりと話を始めた。

「ご内儀、あんたの気持ちも尤もや、何も悪いことやあらへん。身内が身罷みまかるに悲しゅうない者などおりますかいな。つろうて悲しゅうて、どうにもでけんようになる、それが人間の本心や。先に亡くなった者の成仏を願うのもおかしなことやあらへん。わしはそれまであかんとは言わんのや。ただ、人間は無力なものや。この世界におったら、何でも出来そうな気になるけどな、そんなことあらへん。何もでけんのや。亡くなられた方を、愛おしく思うのはええ。けどな、間違うても、その方らをお浄土に送ろうなんて思わんことや。それは思い上がりゆうもんや。少々、言葉はきついかも知れんけどな。ご内儀だけやあらへんで、寺を預かっとるこのわしも同じなんや。日頃から、浄土、浄土と説いてる割には、一遍も見たことなんかあらへん。けどな、それは、見たことがないんやのうてな、わしら人間に見る力がないだけのことなんや。それが人間は無力やとゆう意味なんや。せやから、南無阿弥陀仏と唱えて、御仏みほとけに、見せとくんなはれ、連れてっとくんなはれ、そう言うてお願いするんや。御仏は、放っといても連れてってくれはる。ほんまの供養と言うのは、そういう御仏とわしら凡人とが縁を結ぶとゆうことや。死なはったお人のために拝んでやるのは悪いことやないけど、それにはこうゆう意味があるんやとうことを忘れなんだらそれでええんや。」

住職は噛み砕いて言ったつもりであっても、千代には半分も理解できなかった。住職の言わんとするところは朧気おぼろげながら分かる気はするのだが、千代の理解が果たしてどこまで住職の意に沿っているのか自身では判じかねるのである。しかし、千代は懸命であった。そして、それ以上に謙虚であった。住職の言われる意味をきちんと理解するには、理屈で考えるのでなく、日々、御仏に手を合わせ、お念仏を唱えることなのだ、それでいつしか胴身どうみに染み込んでいくに違いない、そう素直に思った。

「ご縁様、わてには今のお話はまだよう分かりまへん。せやから、わては今まで通り、主人と子供を思うてお念仏を上げさせて貰おうと思います。けど、わてらに仏さんのような力がないのんはよう分かります。お浄土に行かせたろてな、ことは思わしまへん。お浄土には仏さんがお連れ下さると安心してお任せしますさかい、南無阿弥陀仏言うて唱えさせて貰うことにします。それで宜しいんですやろか。」

住職はにこやかな顔で、

「ええ、ええ、それでええんや。」

と言った。そして、住職はこう付け加えた。

「そのうち、ちゃんと分かるようになるから。今はそれでええ。焦ることなんかあらへん。分かる時はお浄土に行く時なんかも知れんな。わしがまだここにおるのも、まだ、半端やからかもの。」

「また、ご冗談を。」

「いや、いや、人間死ぬまで修行や。あ、それとな、さっきご内儀が罰当たりというような言葉を使わはったな。仏様はそんな無慈悲な方やあらしまへんで。皆を救うて下さりこそすれ、罰を与えて懲らしめるようなことはなさりまへん。その考えはまず改めはった方がよろしいな。」

「そうですんか。けど、いつやったか、お寺でお勤めのあった時、どなたさんかが、仏壇ぶったんに足向けて寝たら罰が当たるでと仰ったのをお聞きしたんどすが。」

「はてさて、誰が言われたんやろか。わしの話もまだまだ伝わっとらんようやの。ま、それはええ。いやな、そのお方が仰ったのは御仏に対する礼儀のことや。ほれ、誰かて、己の顔に足向けて寝られてみい。ええ気はせんやろ。せやから止めておけ、ということをそのお方は罰があたる、と言わはったんやろな。」

「ああ、そういうことどすか。そしたら、仏さんは罰など与えはらへんのどすな。」

「勿論やとも。御仏はわしらが困るようなことはされんから、安心しとったれええ。せやけど、失礼にはならんようにするこっちゃ。」

「それ聞いて、安心しましたわ。」

千代は住職の言葉に救われた気がした。千代の胸には、祈祷師に「前世の報い」と言われたことが、まだ棘のように刺さったまま残っていたのである。夫と子供を死なせたのは、自分に対する報いなのだと、自分を責め、申し訳ない気持ちで一杯だったのだ。しかし、これでようやく心の中のもやが晴れた気がした。

すると、千代はまた別のことを思い出して、住職に訊いた。

「ところで、ご縁様、前々から気になっておりましたんやけど、お寺の門の脇に石がおますやろ。いつもお花やらお饅頭やら干菓子ひがしやらお供えしておますわな。あれは一体何ですのやろ。」

「ああ、あれな。あれは、何時の頃からか、うちの檀家はんが勝手にまつらはるようになったんや。名前も勝手に『母子石ははこいし』て、付けたりしてな。実はな、昔、ご内儀と同じように子供を亡くされたお方がおったんや。その方があの石に供え物をして手を合わせるようになったんやが、それがいつの間にか他の檀家はんも真似するようになってな。それどころか檀家はん以外にも広まったんか、顔の知らん人の姿も見かけるわ。」

「へえ、そうどすんか。」

「勿論、うちの寺としては勧めるつもりはないんや。けどな、それで檀家はんらが得心いかはるもんやったら、それはそれでええ。わしはそう思うとる。せやから、そのまんまにさせたるんや。尤も、近頃は、子の無い女子おなごはんが来て、子供ができますように、と拝んで行かはったりしよるみたいやが。うちは子授け寺でも安産祈願の寺でもあらへん、うんや。は、は、は。」

住職は愉快そうに笑った。その笑い声に住職の鷹揚おうようさが滲み出ていた。千代もつられて、おほほほ、と笑った。二人が笑い合う声が、奥の仏間から表のたなにまで届き、奉公人は皆、驚いた。おいえさんの笑う声を聞くのは久しぶりであった。奉公人らも気持ちが晴れやかになった。笑ってから住職ははたと気付いた。

「これは失礼。法要に来て、わろうておったんではいかんわ。」

住職は自分の額に手を当て、おどけて見せた。その格好が可笑しくて、千代はまたくすっと笑った。

「いいえ、構しまへん。わても久しぶりに笑いました。ご縁様のお陰どす。いいえ、それこそ、仏様のお力いうもんどすやろか。」

「ううん、それはどうかの。」

住職は首を傾げた。その仕草が可笑しかったものだから、千代はまた小さな声で笑った。

「ご内儀、今度、寺へお参りなさる時に、その石をようご覧なはれ。わしにはよう分からんが、母が子を負ぶったように見えるらしいんや。あんたにもそう見えるかどうかは分からんが、まあ、見てみるのもええやろ。せやな、今やと、その上に椿が花をつけて、ちょっとした風情ふぜいじゃ。」

住職はそう言うと、

「さて、そろそろおいとまさせて頂くとしますわ。」

と言って、仏壇に向かい手を合わせた。



次の日、千代は早速、寺を訪ねた。門の脇には、住職が言ったように、真っ赤な椿が見事に咲き誇り、鈍色にびいろの空に彩りを添えていた。その下に一尺ほどの高さの石が鎮座し、今日もまた花や菓子が供えられていた。千代は目を凝らして見たが、何処からどう見ても野面のづらの石と何ら変わるところのない石であった。母と子の影を期待してきたものの、どこにもそのようなものは見当たらないのである。千代は少しがっかりした。

「ご縁様も分からんとおっしゃってたし、仕方ないわな。」

と諦めた。折角、お寺に参ったのだからと千代はお堂の前に行き、手を合わせ念仏を唱えた。

すると、後ろから、

「ご内儀、早速お見えになられたか。」

と言う声がして、千代は振り向いた。その時である。視界の隅で子供を負ぶった母の姿がくっきりと映った。二人で真っ赤な椿を見上げながら、何かを語らっているようにも見えた。決して、気のせいなんぞではない、千代はようやく『母子石』の名前の所以ゆえんを実感した。

千代は不思議な気持ちに包まれながら、門をくぐり抜けてくる住職に、

「ああ、ご縁様、お邪魔しとります。」

と言って会釈した。

「ええんや、ええんや。そうやって、参ってくれはるんでええんや。」

いつにもまして穏やかな顔でそう言う住職の手には小さな手が結ばれていた。

「ご縁様、お孫様でいらっしゃいますか。」

「ああ、この子はうちの檀家の子供や。しばらくの間、預かってくれと言われて、こうして連れ歩いとるんや。何でも寺に預けらええて言うもんやないんやで。ほっ、ほっ、ほっ、」

何がそれ程愉快なのか、住職は快活に声を上げて笑った。今度は、千代もそれにつられることはなかった。先程の母と子の影が気になっていたのである。ほんの刹那せつなだったが、真っ赤な椿の下で映った影は、切なくもあやしかった。これほどまでに美しい母子おやこの姿があるだろうか、そう思いながら、千代は改めて石を見つめ直したが、母と子の姿は既にそこになかった。

千代は、自分でも分からない何ものかに突き動かされたような衝動に駆られ、思わず余計なことを訊いてしまっていた。

「預かったと、おっしゃいますと。」

「いや、この子は不憫ふびんな子でな。ご内儀がご主人とお子を亡くされたんと同じ流行り病でな、この子の母親もんでしもうたんや。それから父親てておやの手で養われとったんやが、その父親てておやもまた三日前に亡くなってしもうたんや。長屋に住む大工なんやが、仕事中に足を踏み外して屋根から落ちてしもうたんや。」

「では、この子にはもう身寄りがあらしまへんのですか。」

「そうや。一昨日おとといが葬式やったんやけどな。その日は、泣く泣く大家が連れて帰ったらしいんやが、今朝になって、早ようから大家が押しかけてきて、この子を暫く預かってくれ言う(ゆ)うんや。是も非もあらへん。こっちの言うことを何も聞かんと、そのまま置いて帰りよったんや。」

「そうどすか。」

「まだ、こないに年端のいかん子やさかいの、自分の身の上がきちんと理解できとらんみたいや。おさんが亡くなったゆうのに、泣いたり、ごねたりはしよらん。手がかからんのはええんやけど、かえって、余計、不憫に思うわな。」

「そら、そうどすな。」

返事は短かった。が、その間にも千代の頭の中ではさまざまな考えがせわしげにうごいていた。その挙げ句に浮かんだ考えがふと口から飛び出した。

「ご縁様、この子、どちらにも行くところがないんやったら、うちで引き取らせてもらえまへんやろか。」

言ったしまっ後で、千代は慌てたが、思い直すと自分でもなかなかの名案だと得意になった。これはきっと先程のあの母子がわての口をして言わしめたのだ、椿の下の石を思い浮かべながら、ふとそんな気になった。

「ええ、ご内儀、、、」

住職は、意外な言葉を耳にして、思わず言葉に詰まった。

「どうですやろ。うちではあきまへんか。」

千代が重ねて聞くと、住職は言葉を選びながら言った。

「いや、そんなことはあらへん。それどころかまたとないええお話しですわ。ご内儀のところやったら、おうちもしっかりしたはるし、ご内儀自身も、お優しい方やしな。そら、この子にとったらそれ以上のことはないやろ。願ったり叶ったりのご縁や。ただな、わし一人で勝手に決める訳にはいかんもんでな。」

「それは、仰るとおりどす。」

「今日一日待っておくれやないか。まず、大家には相談せんとな。勝手に置いて行きよったとは言え、こっちも同じように勝手にはでけんからな。」

「よう分かります。では、明日、改めてお伺いさせてもらいます。」

「ご足労かけますが、そうしてやってくれますかの。」



翌朝早く起きると、千代はまかないに立ってせっせと働き出した。夕べのうちから水に浸してあった小豆を煮込み、ご飯を丈夫に炊いた。

千代は浮かれていた。

こうしてまかないに立つのは何年ぶりだろう。今では、家事の一切は奉公人の勤めであり、千代が手を煩わされることはまずなくなっていた。誰かのためにまかないに立つ楽しみを久しぶりに実感し、そうして胸の内が晴れやかになっていくのを千代は感じていた。

千代は、久しぶりにまかないに立ったにも拘わらず、昔取った杵柄きねづかというものか、手際よく料理をこなしていった。できあがったものを重箱に詰め、風呂敷に包むと、それを持って、いそいそと店を出た。昨日に引き続き、千代はまたお寺へと足を運んでいた。見慣れた景色も、何故かいつもと違って見えるのは気のせいであろうか。板塀いたべい越しに見える山茶花さざんかや軒下につるした干し柿、雨樋あまどいにぶら下がった氷柱つらら、それらひとつひとつをいちいち心に留めながら、千代は通りを歩いた。千代の心は汚れを知らない童女どうじょのように無垢で新鮮だった。

霜の降りた境内はひっそりとしていた。

千代は、そっとお堂を覗いた。中では既に、住職が子供と一緒に千代の来るのを待ち構えていた。

「おはようございます。」

千代と住職の声は思いも掛けず重なり合って、その声がお堂の中に響き渡り、境内を越え、山門をくぐり抜け、門前に朝を告げた。

「ご縁様、どないどした。」

本当は、住職の答えを待つまでもなく、千代の心は既に決まっていた。たとえ駄目だと言われても、千代は無理にでも子供の手を引いて連れて帰るつもりであったのだ。

「大家に相談に行ったら、それはありがたいことやと言うておった。他に引き取り手がないらいしいのや。それで、ご内儀がそのつもりやったら、その方がこの子のためにはええわと言うとった。けど、それはこの子のためやのうてほんまは自分のためうことなんやろな。ま、それはどないでもええ。ご内儀、この子にも昨夜のうちに言い含めておいた。まあ、この子がどこまで分かっとるのか知らんが、少なくとも厭そうにはしとらなんだ。」

「はあ、それはおおきにさんどす。」

「支度はもうでけたる。と言うても小さな風呂敷包み一つやけどな。」

「そうどすか。」

千代は子供の顔を見て、微笑んだ。しかし、子供の方は緊張で顔も身体も強張って、昨日より小さく見えた。

「あ、そうそう、付け届けをお持ちしましたんどす。」

千代は提げてきた風呂敷包みを差し出した。

「ご縁様、一緒に甘いものでも召し上がりまへんか。」

風呂敷を解き、重箱の蓋を取ると、住職の隣にいた子供の表情がいっぺんに柔らかくなった。重箱一杯にぼた餅が並んでいた。

「これはまた美味そうですな。わしは甘いものには目があらしまへんのでな。いや、ほんまおおきにさん。どれ、ひとつ頂くとしますか。」

住職は重箱に手を伸ばし、ぼた餅をひとつつまみ上げると、丸ごと口に頬張った。その顔がお多福のように見えて、子供は笑った。少しずつ気持ちが解けていくようだった。

「さ、ぼんも一つどうえ。」

そうやって自分にぼた餅を勧める千代の顔を見上げると、子供は

「おばちゃんが作らはったん。」

と聞いた。

「そや。ぼんはこんなん嫌いか。」

「うううん。」

子供は首を横に振った。

「朝早よう起きて作ったんやで。ほれ、遠慮せんとお食べ。」

千代に勧められ、子供は恐る恐る小さな手を伸ばし、重箱から小さめのぼた餅を一つつまみ上げると、住職の真似をして自分も丸ごと頬張ろうとした。しかし、そうするには無理があった。小さな口からはみ出したぼた餅を、千代は、そっとすくい上げ、

「ふ、ふ、ふ、これこれ、喉詰まらしたらあかへんで。」

と優しく言った。

子供は照れくさそうに笑い、千代の顔を見つめた。

「ほれ、ゆっくりお食べ。慌てんでも、まだたくさんあるんやからな。」

「うん」

子供は小さく肯いた。

「ぼん、今日からおばちゃんとこの子になるんやで。」

千代は子供の顔を覗き込んで言った。ぼた餅を頬張りながら子供は上目遣いで千代の顔をじっと見つめた。口いっぱいになったぼた餅のせいか、気恥ずかしさのせいか、声には出せぬが、子供は千代にも住職にもはっきりと分かるようにコクリと大きく肯いた。

千代は身をかがめて小さな身体を抱きしめ、頭を撫でた。ウォホッ、ウォホッ、かいなの間から咳払いが漏れた。思わず、力が入り過ぎたのに気づいて、千代は

「ご免、ごめんやで。」

と言って、慌てて子供の身体を引き離した。千代は子供の両肩にそっと手を差し伸べると、

「ぼん、わてのこと、お母ちゃんと呼んでくれへんか。」

子供の表情に戸惑いの色が浮かんだ。

「しまった。」

千代は拙速な自分の考えを後悔した。この子にも大切な人が、小さい胸のうちにまだ忘れられずにいるのだ。その場所を無遠慮に奪おうとは、何とおこがましく、何と浅ましいことだ、と千代は顧みて深く心で詫びた。

「ええんよ。まだ、無理せんでええんよ。」

千代は詫びたが、子供はぼた餅をくわえながら無表情に座っていた。取り返しの付かないことをしてしまった、千代は急に暗澹たる気持ちになった。

狼狽する心を押し隠すように、千代は、

「ご縁様、好きなだけ食べとくれやす。わても一つ頂こかな。」

と話を逸らし、自分もぼた餅を口に入れた。そして、

「ほんま、よろしいんどすかな。」

「なんや、迷うておられるんかな。」

「いいえ、そんなことはあらしまへん。ただ、わてのこと好きになってくれるか、心配で。」

「そんなことかいな。心配せんかてええ。どのみち、気の毒やけど、この子はどっかの家に貰われなしゃない。誰んとこへ行くのも一緒や。少なくともご内儀とこやったら、わしは安心やし、この子もいずれきっと慣れるわ。」

「そうどすやろか。」

雀がお堂の中まで飛び下りてきた。子供は、ぼた餅から米粒をつまみ取り、手ずから雀に与えた。「きっとお腹が空いているんだ。」と雀を思いやる子供の気持ちが伝わったのか、雀の方も何の警戒もなしに、子供の手からついばんだ。

優しい子だ、千代はますます気に入った。

「さあて、そろそろおいとまさせて頂くとします。ぼん、帰ろか。」

照れ臭いのか、それとも矢張り先程の千代の言葉で気が引けてしまったのか、子供はなかなか腰を上げようとしなかった。千代は少し悲しくなった。それを察したのか、住職が横から助け船を出した。

「さ、さ、附いてお行き。」

住職にそう言われて、子供はようやく腰を浮かび上がらせ、千代の後に附いてお堂を下りた。

「おおきに。ご縁様、ほんまにおおきにどす。」

「礼を言うのはこっちのほうじゃわ。ご内儀、ほんま、よろしゅうに頼んます。」

「ええ。勿論どす。」

千代は、草履に足を通すと、お堂の中を振り返り、もう一度、会釈した。

「さ、ぼん。帰ろか。」

千代が手を差し伸べると、子供はぎゅっと小さな手に力を込めて掴んだ。

「おかあちゃん。」

聞き取れぬほどの小さな声だが、千代の耳にははっきりと聞こえた。凍てつく寒さの中でそこだけは暖かな風に包まれたようだった。千代は目が潤んでくるのを堪えようとしたが、溢れ出てくるものは抑え切ることができず、涙が一筋、頬を濡らした。

柔らかな朝日を浴びて、門の脇の石が、きらりと光った。霞んだ目に、それは、子供を負ぶった母が千代を見つめて微笑んでいるように映った。

千代は腰を屈めると、

「さ、おんぶしたげよ。」

と、背中を差し出し、自分の両肩を軽く叩いた。

唇に指を押し当て恥ずかしそうにしている子供に、千代が「さ、さ」と促すと、子供は倒れ込むようにして小さな身体を千代の背中に預けた。

子供を負ぶった千代は振り向き、もう一度、住職に会釈し、寺を出て行った。

門をくぐり抜け、寺の外へ消えていく千代と子供の姿が、つい今し方苔むした石から抜け出たように映り、住職はわが目を疑った。

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