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学校が教えない社会科・歴史・公民  作者: 学校が教えない社会・歴史・公民
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松井石根大将

>松井 石根(まつい いわね、明治11年(1878年)7月27日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将。荒尾精の信奉者として、「日中提携」「アジア保全」の運動に生涯をかけたが、ポツダム宣言受諾後、「南京事件」の責任を問われて極東国際軍事裁判(東京裁判)にて死刑判決(B級戦犯)を受け、処刑された。

(wikiより抜粋)



と言う訳で、今回は『南京大虐殺』の責任者とされている『松井石根』大将のお話だ


学校では、松井石根大将の話まで教わるかどうかは分からないが、おじちゃんが学生の頃はそこまで教わら無かった


では『南京事件(大虐殺)』の事も踏まえて、松井石根大将の人となりを見て行こう



>在学中、松井が感銘を受けた思想があった。


それは川上操六が唱えた「日本軍の存在理由は東洋の平和確保にあり」という見識であった。川上は、日本が将来、ロシアとの戦争を回避することは困難だと断じ、その防備としてアジア全体の秩序を構築し直す必要性を訴えていた。


そのための軸となるのは、日本と中国(支那)の良好な提携であるという。この川上の思想に接して強い共鳴を覚えた松井は、中国への興味を改めて深めていった。


陸軍士官学校(9期次席)卒業後、明治34年陸軍大学校に入学した。明治37年、陸大在学中に日露戦争に従軍した。


この時期の松井が思想的な影響を受けたのは、同郷の先輩にもあたる荒尾精であった。荒尾の思想の根底にあるのは、日中の強い提携である。


欧米列強の侵略に対し、アジア諸国が連携しあって対抗していこうというのが、その主張の要であった。

(wikiより抜粋)


と言う具合だな


上記の引用文でも分かる通り、松井大将は、早くから日中やその他アジアの連携強化により、欧米の横暴な植民地支配からの開放を模索していた事が分かる


少なくても松井石根大将は、大東亜戦争をアジア開放と、大アジア同盟の実現を考えて居たのは間違いないだろう


以前『東條英機』氏がやはりアジアの開放を目指していた事、『東條内閣』は普通選挙によって誕生した事、さらに東條内閣は選挙に敗北して『戦中』に解散している事を書いたよな?


松井石根大将を含めて、上層部の実力者がアジアの開放と同盟強化を真面目に考えて居たのは確かだろう


そんな人達が、韓国や中国の言う様な【過酷な植民地支配】などするだろうか?


また、大東亜会議の様な物をワザワザ開催するだろうか?


いくら政治宣伝の為とは言え、植民地支配して奴隷同然に現地民を扱って居たのなら、ワザワザこんな事をやったり、大東亜共栄圏など構想したりはしないのでは無いだろうか?


ましてや、大虐殺した南京の代表を、大東亜会議に呼んだりするだろうか?


また、大虐殺された南京が、何の反論もせずに大東亜会議に参加するだろうか?


脅されていたにしても、情けなさ過ぎるのではないか?とおじちゃんは考えてしまうぞ?


では続きを見ていこう



>明治40年(1907年)フランスから帰国した松井は、次の勤務先として清国へ派遣された。これは松井が自ら志願してのことであった。日中関係を良好なものとして築きあげることが、日本、更にはアジア全体の安寧に繋がると考えたからである。


明治42年(1909年)、清国滞在中に大尉から少佐へと昇進した。この頃から孫文と深く親交するようになった。


松井は孫文の大アジア主義に強く共鳴し、辛亥革命を支援。


陸軍参謀本部宇都宮太郎は三菱財閥の岩崎久弥に10万円の資金を供出させて、これを松井に任せ、孫文を支援するための元金に使わせた。その後も中国国民党の袁世凱打倒に協力した。


松井は日本に留学した蒋介石とも親交があり、昭和2年(1927年)9月、蒋が政治的に困難な際に訪日を働きかけ、田中義一首相との会談を取り持ち事態を打開させた。


田中首相は①この際、揚子江以南を掌握することに全力を注ぎ、北伐は焦るなということ、 ②共産主義の蔓延を警戒し、防止せよということ、 ③この①②に対して日本は支援を惜しまないということこの三点を述べた。


最終的に二人のあいだで合意したのは、国民革命が成功し、中国統一が完成した暁には、日本はこれを承認すること。これに対して国民政府は、満洲における日本の地位と特殊権益を認めるーということであった。


松井の秘書田中正明によれば「松井は当時すでに中国は蒋介石によって統一されるであろうという見透しを抱いていた。日本は、この際進んで目下失意の状態にある蒋を援助して、蒋の全国統一を可能ならしむよう助力する。そのためには張作霖はおとなしく山海関以北に封じ、その統治を認めるが、ただし蒋の国民政府による中国統一が成就した暁には、わが国の満蒙の特殊権益と開発を大幅に承認させることを条件とするという構想であった。」

(wikiより抜粋)



と言う様に、今で言うならズブズブの親中派だ!


現代ならおじちゃんの様な保守派に『左翼』や『売国奴』扱いされただろうな(笑)


もっと左翼勢力に受けが良くても良い人物の様に思う


それにしても、以前おじちゃんが指摘した、『中国か唯一日本と友好関係に見えた時期が、日清戦争から日中戦争までの間に有った』

がこの時期だ!


上記の引用文の通り、松井大将は孫文や蒋介石とまで交流している


そして孫文も蒋介石も日本を裏切った


蒋介石に関しては、台湾に渡った後も反日政策や反日教育を繰り返し、台湾原住民を弾圧している


一体どちらが『大悪党』何だろうな?


何にしても日中間は、この様に友好関係だった事は一度も無い


『魏志倭人伝』の頃から本当に一度も無いのが現実だ!


少し歴史を真面目に研究すれば、たちどころに分かる範囲の話だ


それにしても、これだけ親中派の松井石根大将が、南京大虐殺など起こすのだろうか?


『裏切られたから怒ったんじゃないの?』


と思うだろうが、先を見て見よう



>ところが、昭和3年(1928年)5月3日、※『済南事件』が起き、陸軍内で蒋介石への批判が相次いで、日中関係は松井の意図に反した方向へと流れていった。


同年6月4日、張作霖爆殺事件が勃発。この事件の発生により、松井が実現させた「田中・蒋介石会談」の合意内容は完全に瓦解した。松井は張作霖を「反共の防波堤」と位置づけていた。


それは当時の田中義一首相らとも共通した認識であった。


松井は首謀者である関東軍河本大作の厳罰を要求した(この事から、若手の将校の間では松井を頑固者扱いして敬遠する声も多かったと言われている)。


しかし、結局うやむやのままになり、昭和天皇の怒りを買って田中義一が首相を辞めることになった。こうして松井構想は破綻した(田中正明の言)。


一方、蒋介石も日本への不信感を濃くした。昭和6年(1931年)9月満州事変、昭和7年(1932年)3月満州国建国を経て、蒋介石の反日の姿勢は間違いなく強まっていった。

(wikiより抜粋)


さて、※印の部分の『済南事件』だが、これは中国日本人居留民虐殺事件だ!


少しだけ引用して見よう



済南事件さいなんじけんは1928年(昭和3年)5月3日、中国山東省の済南における、国民革命軍の一部による日本人襲撃事件、および日本の権益と日本人居留民を保護するために派遣された日本軍(第二次山東出兵)と、北伐中であった蒋介石率いる国民革命軍(南軍)との間に起きた武力衝突事件。藤田栄介青島総領事は、南軍による組織的に計画された衝突と述べている。


日本側の参謀本部が編纂した『昭和三年支那事変出兵史』によれば、被害人員約400、被害見積額は当時の金額で35万9千円に達したという。日本人居留民の被害、死者12(男10、女2)、負傷後死亡した男性2、暴行侮辱を受けたもの30余、陵辱2、掠奪被害戸数136戸、被害人員約400、生活の根柢を覆されたもの約280、との記録が残っている。


日本人惨殺状況に関する外務省公電には、「腹部内○全部○出せるもの、女の○部に割木を挿し込みたるもの、顔面上部を○り落としたるもの、右耳を○り落とされ左頬より右後頭部に貫○○傷あり、全身腐乱し居れるもの各一、陰○を○り落としたるもの二」とある。

(wikiより抜粋)


こんな事をされれば、日本人が怒り狂うのは当然だろうな


何やら蒋介石が日本への不信感をつのらせ云々と有るが、日本人の方が余程蒋介石に不信感を持たざるを得ない状況だったのは言うまでもない


それに満州国に関しても、そもそも清朝に逆らって革命を始めた蒋介石が、清朝最後の皇帝『府議』の元々の祖国で有る満州に、独立国を作った事をどうこう言う資格が有るのだろうか?


満州に関しては、別項で詳しく書こう


蒋介石と言う人物の滅茶苦茶さが分かってもらえると思う


何やら今の中国共産党の無茶苦茶さと共通する物が有るよな?


続きを見ていこう



>蒋介石との連携によるアジア保全の構想は破綻したものの、松井は昭和8年(1933年)3月1日に大亜細亜協会を設立した(松井は設立発起人、後に会長に就任)。


会員には近衛文麿、広田弘毅、小畑敏四郎、本間雅晴、鈴木貞一、荒木貞夫、本庄繁など、錚々たるメンバーであった。


「欧米列強に支配されるアジア」から脱し、「アジア人のためのアジア」を実現するためには「日中の提携が第一条件である」とする松井らの「大亜細亜主義」が、いよいよ本格的な航海へと船出した。


当時の松井の考え方を下記に引用する。


『世界は政治的及経済的ブロックの境に従って区画せられて居り、その内若干の大国が主体となって国際聯盟が利用せられて居るのである。亜細亜に於て日支両国の如き鮮明なる政治的大陸を形成するものが、相互の間何等の諒解もなく、個々別々に聯盟に加入し、両国間の直接交渉によって解決せらるべき問題をも、本来極東には縁もゆかりもなき、従って認識も理解もなき欧羅巴諸国の手に鍛錬せられて、日支相互の反目と抗争を激成するの具に逆用せられたこと、せられっゝあることは、東洋永遠の平和の為めにも、亜細亜復興の為めにも、遺憾至極と云はなければならぬ。』


昭和9年(1934年)1月6日、大亜細亜協会台湾支部が設立され、松井は名誉顧問に就任。


同年8月、現役を退き、予備役へと入った。

(wikiより抜粋)


と蒋介石に散々裏切られながらも、まだ中国との連携にこだわっているよな?


当時おじちゃんが生きてれば、トンデモナイ売国奴に見えただろうな(笑)


それはさておき、ここまで親中派の人物が、果たして『南京大虐殺』など起こし得るのだろうか?


そしていよいよ『南京攻略戦』に入る



>陸軍内部では統制派を中心に「中国一撃論」が盛んに説かれるようになっていた。


日本への敵対視を続ける中国側の動向は看過できず、それならば蒋介石政権の政治基盤が脆弱な今の内に、一気に叩いておこうという論である。国民党政府に対する不信を濃くする松井は、徐々に「中国一撃論」へと傾いていった。


松井は南京攻略を12月中旬頃と想定して兵を休息させていた。


ところが、11月19日第10軍は独断で(松井の指揮権を無視して)「南京攻略戦」を開始した。松井は制止しようとしたが間に合わず、第10軍の暴走を追認した。11月28日、参謀本部はついに南京攻略命令を発した。12月7日、松井は南京攻略を前に「南京城攻略要領」(略奪行為・不法行為を厳罰に処すなど厳しい軍紀を含む)を兵士に示した(蒋介石はこの日の内に南京を脱出)。


12月9日、日本軍は「降伏勧告文」を南京の街に飛行機で撒布した。翌日、降伏勧告に対する回答はなく、南京総攻撃が始まった。13日、南京陥落。


17日、松井、南京入城。このとき、松井は一部の兵士によって掠奪行為が発生したと事件の報を聞き、「皇軍の名に拭いようのない汚点をつけた」と嘆いたという。


翌日慰霊祭の前に、各師団の参謀長らを前に、松井は彼らに強い調子で訓示を与えた。松井は「軍紀ヲ緊粛スヘキコト」「支那人ヲ馬鹿ニセヌコト」「英米等ノ外国ニハ強ク正シク、支那ニハ軟ク以テ英米依存ヲ放棄セシム」などと語ったという。


松井は軍紀の粛正を改めて命じ、合わせて中国人への軽侮の思想を念を押すようにして戒めた(上海派遣軍参謀副長の上村利道の陣中日記より)。後の東京裁判における宣誓口述書では、一部の兵士による軍規違反の掠奪暴行は認めたものの、組織的な大虐殺に関しては否定している。


松井はこの時期に蒋介石が信頼していた宋子文を通じて、独自の和平交渉を進めようとしていた。


だが、昭和13年(1938年)1月16日近衛文麿首相の「蒋介石を対手とせず」宣言(近衛声明)ですべては終わった。


松井は軍中央から中国寄りと見られ、考え方の相違から更迭され、2月21日に上海を離れて帰国し、予備役となった。

(wikiより抜粋)


今の時代なら完全に売国奴呼ばわりだな(苦笑)


ここまで親中派で有り、ましてや略奪・暴行を厳しく戒めた松井石根大将が、『南京大虐殺』が如き三十万人もの民間人虐殺を決行するだろうか?


どう考えても辻褄が合わないだろ?


これも立派な『南京大虐殺』否定論の証拠だと思うのだが皆はどう思うだろうか?


散々中国人に裏切られ続けたにも関わらず中国人を信じ続け、最後は日本政府からも更迭されてしまった様な人物が『南京大虐殺』など本当にするのだろうか?


最後に『南京城攻略要領』と松井石根大将の巣鴨プリズン収監前の言葉を引用して締め括ろう



南京城攻略要領なんきんじょうこうりゃくようりょうは、支那事変中の1937年(昭和12年、民国25年)12月7日、中支那方面軍が南京攻略戦にあたり隷下の部隊へ示達した文である。不法行為を厳禁し、諸外国の権益の保護することなどを求めている。



>1946年3月4日、松井は巣鴨プリズンに収容される前夜、近親者たちを招いて宴を催し、盃を交わしながら「乃公はどうせ殺されるだろうが、願わくば興亜の礎、人柱として逝きたい。かりそめにも親愛なる中国人を虐殺云々ではなんとしても浮かばれないナァ」と語った(陸軍後輩、有末精三の言)。


では、今回の学校が教えない『松井石根大将』はこれまで!


また読んでくれよな?

どうだったかな?


本文でも書いたように、今の価値基準なら完全に親中派左翼と言わる様な、ベタベタな親中派の松井石根大将が、あの様な残虐事件を起こしたとは到底考え難い


さらに言うなら、これだけ親中派で中国との同盟を目指して日本でカンバっていた松井石根大将を、こうも安やすと裏切る事が出来るのが中国人だとも言えるのでは無いだろうか?


今の親中派の政治家や企業家や経営者、特に日本共産党や社民党などは、この歴史的事実をどう考えるのだろうか?


松井石根大将が受けた様な中国人の裏切りを、自分達が受けない保証など何処にも有りはしないのにな?


ともかく、松井石根大将の考えや性格からして『南京大虐殺』を起こしたとは到底考えられない


これも南京大虐殺否定論の立派な証拠なのでは無いだろうか?



さて、ここで大事なお知らせをお伝えしたい


今回を持って『学校が教えない社会科』シリーズは、毎日連載を終了させていただきます


連載終了では無いぞ?


毎日投稿するのは終了すると言う事だ


おじちゃんもご多分に漏れず、毎日仕事をしている普通の社会人だ


今までは蓄積した知識やネット情報の精査で、読者獲得の為毎日連載を頑張って来たが、流石にこのペースを維持するのは難しくなって来た


本やネットを調べ、確証を持って情報をまとめながら文章を書いて行くには、それなりの時間が掛かるのは、こちらで連載を持っている読者の人達なら余計分かってもらえると思う


そこで来週からは、毎週月曜日の何時も通りの午後3時頃アップロードとし、『週刊 学校が教えない社会科』として再スタートさせてもらう事をおゆるし願いたい


このまま毎日連載を続けて行けば、疲れやネタ切れから、年内か遅くても来月には力尽きてしまう気がするからだ


少しでも長く連載を継続する為、おじちゃんとしても心苦しいが、よろしくお願いしたい


では、来週からは毎週月曜日にお会いしましょう!!




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