戦前の日米友好
さて、今回は戦前の日米関係の、友好的だった事柄を紹介していこう
ただし別項で書いて行く通り、その裏側では人権差別的発想やアメリカの利権欲に基づいた反日的行動も有った事を覚えておいて欲しい
逆に言うなら民間の日米交流は、意外と友好的だったと言う事だ
つねにおじちゃんが書いている様に、政府の行動と国民感情は必ずしも一致しないし、国民感情が良好でも、いつ何時国民感情が悪化するかわからないのも事実なんだよ?
さて、日米の友好的交流と言えばこう言った物が有る
>全米桜祭り(ぜんべいさくらまつり、英語: National Cherry Blossom Festival)は、ワシントンD.C.で毎年春に行われるお祭り。1912年3月27日に日本の東京市長であった尾崎行雄からワシントンに桜が贈られたことを記念して行われている。桜はアメリカ合衆国と日本国の間の友好関係を育て強めようとして寄贈されたもので、現在の祭りでも二国間の親密な関係の継続が祝われている
(wikiより抜粋)
これは、当時『日露戦争』の講和にアメリカが尽力してくれた謝礼にと贈られた物だ
もっともこの『日露戦争講和』にはその後の裏話が有るが、それは別項で詳しく書こう
現在でもワシントンで全米サクラ祭りが催されていて、アメリカでも当日は賑わっているけど、最近は某お隣の国が横槍を入れてきて、『ソメイヨシノは韓○原産』などと、日本がアメリカに友好親善で送った事実とはまるで関係ない主張をしているけど、そもそも『ソメイヨシノ』は野生種では無く接ぎ木でノミしか生育しない
しかも名前からわかるように、あからさまに日本人が品種改良したものだ
『ソメイヨシノ』が自然に自生するとは、植物学者もびっくりだ(笑)
それはさておき、他にもこんな事柄が有る
>青い目の人形(あおいめのにんぎょう、英: American Blue-eyed Dolls)は、1927年に、アメリカ合衆国から日本に贈られた人形(Friendship Dolls:友情人形またはAmbassador Dolls:人形使節)の日本における通称。
(wikiより抜粋)
これは逆にアメリカから日本の子供たちに贈られた人形の事だ
アメリカから贈られたこの人形は、小学校や幼稚園に配られ大事に扱われたのだが、残念な事に『大東亜戦争』勃発による国民感情の悪化から、その大部分が失われてしまった
それでも多少は残っている
ちなみにこの『青い目の人形』のお返しに、日本から『市松人形』がアメリカに贈られている
な?意外と戦前の日米は民間ベースでは友好的だったろ?
それに『関東大震災』の時には、アメリカから救援使節が派遣されているんたよ?
とてもこの後戦争をする関係とは思えないだろ?
さらには、知っている人達もいるかも知れないけど、ベーブ・ルースが日米親善の為に来日している
>1934年11月2日から12月1日にかけて、全米選抜チームの一員として訪日している。航空便による移動が一般的でなかった時代、長い船旅を当初は渋っていたが、鈴木惣太郎がルースが散髪屋にいるところへアポなしで訪れ、ルースの似顔絵を大書したポスターを見せて説得したところ、そのポスターを大いに気に入り、快諾した。
日本に向かう船の上でも人一倍練習に打ち込むなどやる気十分であり、いざ訪日すると、雨天の中番傘をさして守備練習をするなど、持ち前のショーマン・シップを発揮し、日本に野球人気を根付かせるのに大いに一役を買った。
特に、ルースと直接対戦した沢村栄治の名を今日まで伝説化することになった「全米軍クリーンナップを4連続奪三振」の逸話では、最初に沢村から三振に斬り捨てられている。
なお、この試合は秋口に行われ、気温は高くなく、ヒットで出塁した沢村にセーターを着せにいくなどのスポーツ
マンシップを見せ、「さすが大リーガーはやることが違う」と観客を感心させた。
試合後、全米選抜チームの訪日歓迎パレードが行われた。
このときの日本人達の歓迎はアメリカでワールドシリーズで優勝したとき以上のものであったため、ルースは大変喜んでいた。
訪日の印象を、「何百万人ものファンが心の底から迎えてくれていることを肌で感じている。銀座の通りは何キロにも及ぶ歓迎の列が並び、英雄のような扱いを受けた」と振り返っている。
そのため、戦時中に真珠湾攻撃などによる、反日感情で日本人達から貰った陶器などを割り、戦争終了後にこの歓迎のことを思い出し、後悔していたという。
また、あの真珠湾が信じられないとも語ったと言う。
(wikiより抜粋)
と言う様に、民間では活発に日米は友好親善活動をしていた
それでも『大東亜戦争』に結局は突入してしまった
な?国民感情と政府の行動は必ずしも一致しないだろ?
現実問題、大東亜戦争前には南米やオーストラリアやハワイなどでも、日本人移民の『強制収容』が行われているしな
オーストラリアにしても、前政権は親日よりだったが、現政権は親中派だ
台湾も現政権の『馬英九』氏が親中派なのは有名だ
こう言う風に、国民感情と政府の方針が違う例など枚挙に暇がない(まいきょにいとまがない)
その国民感情すら、政府の『プロパガンダ』で簡単に覆って(くつがえって)しまうのはアメリカの歴史で見た通りだ
もっともアメリカの場合、人種差別的側面もあった事は否定出来ないけどな
だからこそ民間交流が大事なのだが、某隣の韓○や中○は、民間交流まで政治宣伝【プロパガンダ】に利用するから信用出来ないんだよ
今回見て来た通り、大東亜戦争前の日米は、少なくても【民間交流】では良好な関係であった事は歴史が証明している
だけども戦争は起こった
その理由になる『アメリカ政府の対日姿勢』を次回は検証して見よう
では、次回に続く
どうだったかな?
大東亜戦争前、明治から昭和初期にかけて、民間や地方自治体による日米交流は実に友好的だった
その裏側では日米政府による、喧々諤々(けんけんがくがく)のやりとりを繰り返している
そして『大東亜戦争』(太平洋戦争)に突き進んでしまう
そんな中で、日米の民間交流も途絶え、両国民に反日や反米感情が沸き起こって行く
では、明治から大東亜戦争までの日米政府の攻防とは何だったのか?
明日をお楽しみに!




