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学校が教えない社会科・歴史・公民  作者: 学校が教えない社会・歴史・公民
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鬼の正体

流石に、このサイトは「小説家になろう」と言うだけ有って、「鬼」にまつわるエピソードも多く、鬼に対する都市伝説や、各種伝承を詳しく調べているライターも多いと思う。


今回は、既にあちらこちらでも取り扱われ、審議の程もさまざまな意見が飛び交っているが、作者が考える「実在の歴史から見る(鬼)の正体」について、考察したいと思う。


「鬼」と言えばこの物語の「桃太郎」。


既にご存知の読者も多いかも知れないが、「桃太郎」には歴史上の人物がモデルであるとする説がある。


七代天皇・孝霊天皇(こうれいてんのう)の寵児、吉備津彦命(きびつひこのみこと)がモデルと言う説がある。


≻【吉備津彦命】は

『日本書紀』に記されている崇神天皇の時代の四道将軍のひとり


家来のイヌ・サル・キジは


犬飼健(いぬかいたける イヌ)・ 楽々森彦(ささもりひこ サル)留玉臣(とめたまおみ キジ)の3人の家来。


鬼ヶ島の鬼は

百済(朝鮮半島)の王子、温羅。日本の吉備国(岡山県)に渡来。


逆らうものを釜茹でにするなどの悪行を重ね、『吉備冠者』と恐れられていました。


この温羅が拠点とした城は霊峰・鬼城山にあり、民に「鬼の城」と呼ばれ恐れられていました。現在でも鬼城山には鬼ノ城の石垣や土塁が残されています。


※【温羅討伐】

 

吉備津彦命は現在の『吉備津神社』付近の「吉備の中山」に石楯を築き、陣を張ります。


これが現在の『楯築遺跡』、今も吉備の中山には『中山茶白山古墳』も残されています。


激しい死闘が続き、ついに温羅は吉備津彦命の軍門に降ります。


吉備津彦命は温羅の首をはね、串し刺しにしてこれを晒します。


岡山県総社市には『血吸川』『鯉喰神社』など現在もこの死闘に由縁する名が点在。


また吉備津宮の御釜殿は温羅の霊を祀るものとされ、 霊を『丑寅みさき』と呼び、現在も『吉備津宮の釜鳴神事』として祀られています。


※【その後】


吉備津彦命は吉備国を統率し、281歳まで生きたといわれます。


ちなみに鬼から奪った財宝は


江戸期の文学では、打ち出の小槌、隠れ蓑、隠れ笠、延命袋、金銀、などと記されていたということです。

(世界の神話伝説・waquwaqu)から引用


https://waqwaq-j.com/japan/16404/#i-2


まぁ、「日本書紀」の人物は、よく「何百歳まで生きていた」と言う記述があるが、当然過剰演出だろう。


それは兎も角、この当事、百済からの渡来人が日本に居ても、時代的には何もおかしな点は無い。

「温羅」が百済の王子かどうかは別として。


当然、当事の日本語が話せないと考えられる百済からの渡来人達は、日本人のコミニュティーや大和朝廷と、円滑にコミュニケーションが取れるとは考え難い。


現在の国内でも、「朝鮮人コミニュティー(新大久保・西成・ウトロ)」や「中国人コミニュティー(横浜中華街・すすき野)」などが存在する。


故に、離島に拠点を構え、朝鮮人コミニュティーを作る事に不自然さは無い。


その中で、日本人コミニュティーや大和朝廷と、何らかのトラブル(犯罪行為や文化的な衝突)が有っても、これも不自然な事は無い。


となれば、まだ国内統一が為されていない当事の日本国内においては、日本文化とは違う怪しい行為や、日本人に対する犯罪行為が有ったとすれば、大和朝廷が討伐に赴くのは当然の事であろう。


討伐しても、当事の百済(この当事はまだ存在している)が、大和朝廷に対して紛争を仕掛けなかった事から、百済の王子と言うのは眉唾だと考えられる。


古代から江戸時代頃までの日本においては、日本人以外の渡来人や、犯罪を行う野盗(山賊・海賊)などを、怪異や妖怪と同じく「鬼」と呼称した事が多い。


今でも「鬼」なんちゃらと、通常よりも凄い事象に対して、日本人は「鬼○○」などと言う事が多いよな?


無論、記録や歴史書には残されて居ないが、当事の「朝鮮半島」・「ロシア」・「中国」・「台湾」・「琉球」からの渡来人や、何らかの船の事故などで流されてきた外国人(当事の庶民には、外国人と言う認識は無いが)が存在した事に、別段の異論を挟む点は無いと考えられる。


当然、古代の一般庶民は勉強等して居ないのだから、外国から来た人物は「怪異」や「妖怪」に見えるのは普通の事であろう。


同じアジア系の「朝鮮系」や「中国系」でも、当時の日本人よりも遥かに体格が大きく、顔付きもだいぶ違った事が、当事の人骨等の発掘調査から明らかに成っている。


ましてや、文化や言語もまるで違う。


「ロシア系」に至っては。正に「青鬼」・「天狗」に見えた事であろう。


渡来人にも、リーダーは居たであろうが、当然渡来した側も、古代に庶民が勉強などしていないのだから、日本語など理解出来ないし、日本の当時の弥生文化も理解不能だろう。


それを踏まえると、当時の渡来人や犯罪者達が「鬼」と言われる由縁が理解できる。


ちなみに、「日本書紀」においても、「邪しき神」を「邪しき鬼」、得体の知れぬ「カミ」や「モノ」が鬼として解釈されている。


正に、渡来人や犯罪者の事では無いだろうか?


酒呑童子しゅてんどうじ討伐の伝説も、「鬼退治伝説」として有名だ。


酒呑童子しゅてんどうじは、丹波国と丹後国の境にある大江山、または山城国と丹波国の境にある大枝(老の坂)(共に京都府内)に住んでいたと伝わる鬼の頭領、あるいは盗賊の頭目。酒が好きだったことから、手下たちからこの名で呼ばれていた。


文献によっては、酒顛童子、酒天童子、朱点童子などとも記されている。


彼が本拠とした大江山では洞窟の御殿に住み棲み、茨木童子などの数多くの鬼共を部下にしていたという。


伝承では酒呑童子は最終的に源頼光とその配下の渡辺綱たちに太刀で首を切断されて打倒された。東京国立博物館が所蔵する太刀「童子切」は酒呑童子を退治した伝承を持ち、国宝に指定され天下五剣にも選定されている。また源氏所縁の兵庫県川西市の多田神社が所蔵する安綱銘を持つ太刀「鬼切丸」も酒呑童子を退治した伝承を持っている。

(ウイキペディア)より引用


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E5%91%91%E7%AB%A5%E5%AD%90


この様に、どう考えても「山賊の頭領」が「鬼」と呼称され、退治(討伐)されている。


恐らくは単に「山賊退治」だったのだろうが、「酒呑童子」とまで呼称されるぐらいの有名人なのだから、余程の悪さをしていたのであろう。


この様に、「鬼」とは、日本の歴史においては「犯罪者」や「渡来人」や「朝廷に逆らうコミニュティー」を指していた物だろうと推察できる。


この考察を、信じるのか?信じないのか?は読者の判断にゆだねよう!





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