久しぶりの歴史解説!【幕末の仙台藩】「伊達 慶邦(だてよしくに)と奥羽越列藩同盟」本当に討幕派は正しかったのか?【後編】
当事の仙台藩は「尊皇攘夷派」では有ったのだが、新撰組などと同じ「佐幕派(幕府存続派)」であった。
学校の歴史教育などでは教わらない事なのだが、倒幕派も佐幕派も、等しく【尊皇攘夷】では有ったのだ!!
なので、徳川慶喜は、「大政奉還」を素直に行ったのだよ。
これも学校では教えないが、徳川幕府がそもそも「尊皇攘夷」で、「大政奉還」をするつもりだった事が「大政奉還の上奏文」からも読み取れる。
≻「上奏文(現代語訳)」
陛下の臣たる慶喜が、謹んで皇国の時運の沿革を考えましたところ、かつて、朝廷の権力が衰え相家(藤原氏)が政権を執り、保平の乱(保元の乱・平治の乱)で政権が武家に移りましてから、祖宗(徳川家康)に至って更なるご寵愛を賜り、二百年余りも子孫がそれを受け継いできたところでございます。そして私がその職を奉じて参りましたが、その政治の当を得ないことが少なくなく、今日の形勢に立ち至ってしまったのも、ひとえに私の不徳の致すところ、慙愧に堪えない次第であります。ましてや最近は、外国との交際が日々盛んとなり、朝廷に権力を一つとしなければもはや国の根本が成り立ちませんので、この際従来の旧習を改めて、政権を朝廷に返し奉り、広く天下の公議を尽くした上でご聖断を仰ぎ、皆心を一つにして協力して、共に皇国をお守りしていったならば、必ずや海外万国と並び立つことが出来ると存じ上げます。私が国家に貢献できることは、これに尽きるところではございますが、なお、今後についての意見があれば申し聞く旨、諸侯へは通達しております。以上、本件について謹んで奏上いたします。
(ウイキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%94%BF%E5%A5%89%E9%82%84
「ましてや最近は、外国との交際が日々盛んとなり、朝廷に権力を一つとしなければもはや国の根本が成り立ちませんので、この際従来の旧習を改めて、政権を朝廷に返し奉り、広く天下の公議を尽くした上でご聖断を仰ぎ、皆心を一つにして協力して、共に皇国をお守りしていったならば、必ずや海外万国と並び立つことが出来ると存じ上げます。私が国家に貢献できることは、これに尽きるところではございます」
の文章から、倒幕派に書かされた文章では無い事が読み取れる。
何故、倒幕派と戦争したのかと言えば、そもそも尊皇攘夷に対する思想や概念、明治天皇に対する対応が違ったからだ。
そもそも、皇族方にも、新政府軍こと討幕軍の思想ややり方に、反感を持っている方が居られた。
そのお方こそ、「奥羽越列藩同盟」の盟主として列せられた、「輪王時宮」こと「北白川宮能久親王」だ。
≻【北白川宮能久親王】
日本の皇族。北白川宮第2代当主。陸軍軍人。幼名は満宮。最後の輪王寺宮として知られる。
伏見宮邦家親王の第9王男子。生母は堀内信子。幕末に活躍した山階宮晃親王と久邇宮朝彦親王の弟で、仁孝天皇の猶子にもなっているため、孝明天皇の義弟、明治天皇の義理の叔父に当たる。また、弟で義父に当たる北白川宮智成親王が孝明天皇の猶子に当たるため、明治天皇の義理の甥でもある。
東北では覚王院義観ら側近とともに会津、米沢を経て仙台藩に身を寄せ、7月12日に白石城へ入り奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された。輪王寺宮自身も「会稽の恥辱を雪ぎ、速に仏敵朝敵退治せんと欲す」と述べるなど、新政府軍に対して強い反感を持っていた。奥羽越列藩同盟側は輪王寺宮に対し、軍事的要素も含む同盟の総裁への就任を要請した。しかし輪王寺宮は「君側の奸」を除くことには同意し、政治面での盟主にはなるが、出家の身であるために軍事面では指導できないとした。結局6月16日に盟主のみの就任に決着、7月12日には白石城に入り列藩会議に出席した。以後降伏まで白石城と天台宗仙岳院を行き来していた。
(ウイキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%99%BD%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E8%83%BD%E4%B9%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
「仏敵朝敵退治せんと欲す」と言うぐらいだったのだから、倒幕派に対する怒りは相当なものだったのだろう。
そもそも「尊皇攘夷派(佐幕派)」であった仙台藩と奥羽越列藩同盟の諸藩らが、輪王寺宮を盟主として奉るのは当然なのだ。
「奥羽越列藩同盟」が結成される要因となった流れはこうなる。
≻【会津戦争】
鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が破れ、徳川慶喜と共に江戸に退去した松平容保は、明治新政府の追討令を受けた慶喜の恭順方針に従って、自らも恭順の姿勢を示すため会津へ帰国し謹慎するが、藩内では主戦論が支配的であり、それを察知していた新政府側でも、会津の恭順姿勢を信用してはいなかった。
慶応4年(1868年)3月11日、江戸城が無血開城され(江戸開城)、慶喜が水戸藩で謹慎すると、薩摩藩・長州藩を中心とした新政府の矛先は、佐幕派の重鎮として敵視されていた容保に向けられる。
追討を命じられていた仙台藩・米沢藩など、東北諸藩は会津に同情的で、会津赦免の嘆願を行う一方、奥羽越列藩同盟を結成して結束を強めた。奥羽14藩では会議を開いて、会津藩と庄内藩の赦免嘆願を目的として、新政府の奥羽鎮撫総督・九条道孝に嘆願書(閏4月12日)を提出したが、後述の会津の回答書を受けて東征大総督府下参謀・林通顕による「会津は実々死謝を以ての外に之これなく」という基本方針は既に決定しており、朝廷へ直接建白を行う(太政官建白書)も認められることはなかった。
奥羽越藩同盟の結成時点(白石会議)では、赦免嘆願を目的としていたが、会津が明治新政府の通達(4月25日)に対して罪を認めず、謝罪を拒否する回答書(閏4月15日)を示した事と、明治新政府の鎮撫使である世良修蔵が、仙台藩士によって殺害された事件から、戦争に傾くことになる。
(ウイキペディア)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E6%88%A6%E4%BA%89
とまぁ、そもそも倒幕派の「懐の狭さ」から、恭順を示していた会津藩を無闇に追い詰めた事が、奥羽越列藩同盟が結成される引き金となった。
この倒幕派の「懐の狭さ」も、輪王寺宮の癇に障った可能性も有るだろう?
残念ながら、伊達 慶邦の書いた「赦免嘆願」と「上奏文」の資料がネット上で見つからなかったが、仙台市博物館に、これらの「本物」が時々展示されていて、作者も何度か読んでいるが、どう考えても、伊達 慶邦の方が言っている事が正しい様な気がしてならない。
一字一句覚え切れて居ないので、残念ながらここでは紹介出来ないが、外国の干渉も含めて、尊皇攘夷・大政奉還に関する考え方は、伊達 慶邦(佐幕派)の方が優れていたと作者は考える。
作者個人としては、東北出身者として(佐幕派)の意見が正しいと思うし、実際に伊達 慶邦の書いた「赦免嘆願」と「上奏文」を博物館で読んだ限りは、倒幕派の意見が正当とは思えない。
それと、倒幕派が内戦後に行った、奥羽越列藩同盟への嫌がらせの「蝦夷地強制移民(開拓団)」も、正直言って承服できない。
その後の明治政府の「東北地方への露骨な差別と嫌がらせ(開発の後回しなど)」も、個人的には腹立たしい。
何せ、第二次世界大戦終了後まで、この「東北地方差別」は続いたのだからね。
その証拠が、「従軍慰安婦の8割程度が、食い詰めた東北出身の女性」だったし、赤線の売春婦の多くも、口減らしで出稼ぎに来た東北出身の女性だったからね。
これでも、倒幕派が本当に正しかったのか?
是非とも皆も考えてみて欲しい。




