久しぶりの歴史解説!【幕末の仙台藩】「伊達 慶邦(だてよしくに)と奥羽越列藩同盟」本当に討幕派は正しかったのか?【前編】
さて、今回は久々の歴史解説になる。
近年、中国の台頭やロシアのウクライナ侵攻により、日本やアジア周辺がキナ臭く成って来ている。
それ故に、あえて「明治維新(討幕軍)は本当に正しかったのか?」を、討幕派と戦った「奥羽越列藩同盟」の視点から考えて見たい。
まず、仙台藩と言えば戦国大名の【伊達政宗】が有名だが、その遠い子孫にあたる仙台藩13代目、伊達 慶邦も、伊達政宗に勝るとも劣らない名君なのだ!
ちなみに、作者が尊敬する人物の一人でもある。
伊達 慶邦は、歴史教科書でも勉強した人達も居ると思うが、あの「奥羽越列藩同盟」の盟主でもある。
まずは、幕末当事の仙台藩が、長州・薩摩藩に負けないぐらい、外国の侵略に対する危機感を持っていた事を解説していこう。
幕末の仙台藩の偉人と言えば、「林子平」と言う人物が居る。
林子平の墓のある「龍雲院」をゆかりとして、昭和42年に「子平町」と言う町名に残されている。
ちなみに、伊藤博文が林子平を敬愛していて、伊藤博文が立てた碑文が龍雲院に建てられている。
≻林 子平元文3年6月21日(1738年8月6日) - 寛政5年6月21日(1793年7月28日))は、江戸時代後期の経世論家。
子平はみずからの教育政策や経済政策を藩上層部に進言するが聞き入れられず、禄を返上して藩医であった兄友諒の部屋住みとなり、北は松前から南は長崎まで全国を行脚する。長崎や江戸で学び、大槻玄沢、宇田川玄随、桂川甫周、工藤平助らと交友する。ロシアの脅威を説き、『三国通覧図説』『海国兵談』などの著作を著し、「およそ日本橋よりして欧羅巴に至る、その間一水路のみ」と喝破して、当時の人びとを驚かせた。『海国兵談』の序を書いたのは、仙台藩医工藤平助であった。また『富国策』では藩の家老佐藤伊賀にあて藩政について説いたが、採用はされなかった。
『海国兵談』は海防の必要性を説く軍事書であったため、出版に協力してくれる版元を見つけることができなかった。そこで子平は、16巻・3分冊もの大著の版木を自ら彫り、自費出版で須原屋市兵衛から刊行した。『海国兵談』は寛政3年(1791年)、仙台で上梓された。しかし幕閣以外の者が幕政に容喙するのはご法度であり、両著はともに発禁処分が下され、『海国兵談』は版木没収の処分を受けることとなった。しかしその後も自ら書写本を作り、それがさらに書写本を生むなどして後に伝えられた。
最終的に、仙台の兄友諒の許へと強制的に帰郷させられた上、蟄居に処される。蟄居中、その心境を「親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」と嘆き、自ら六無斎と号した。
寛政5年6月21日(1793年7月28日)死去。享年56。
(ウイキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%AD%90%E5%B9%B3
「黒船来航」よりも遥か以前に、帝政ロシアの南下政策を危惧し、日本の国防「海上防衛の重要さ」を説いた、とんでもない大天才だったのだよ!!
まぁ、当事の仙台藩主にも徳川幕府にも、聞き入れられなかったんだけどね・・・。
今も昔も、中々「正論」は偉い人に聞き入れてもらえない・・・。
≻『海国兵談』(かいこくへいだん)は、江戸時代中期に林子平によって書かれた政論書。全16巻。天明6年(1786年)脱稿、寛政3年(1791年)刊行
1738年に生まれた林子平は、洋学者との交流を通じて海外事情について研究を行い、1771年に日本に来航したはんべんごろうが残した数通の書簡の中で、ロシアの日本侵略の意図と蝦夷地蚕食の危険を警告したことから、ロシアの南下政策に危機感を抱き、海防の充実を唱えるために本書を記した。
海国兵談の刊行目標は当初1000部であった。しかし、江戸幕府の軍事体制の不備を批判する内容であったため出版に応じる書店がなかった。このため、自家蔵版となったが、巻数が多く、寛政3年(1791年)に39部の刊行を終えたところで幕府から召還を受け、翌年には版木を没収された。しかし、林は自写による副本を持っており、後世に伝わることとなった。
本書は、日本の地理的環境を四方を海に囲まれた島国、すなわち海国として捉え、外国勢力を撃退するには近代的な火力を備えた海軍の充実化と全国的な沿岸砲台の建設が無ければ不可能であると説いている。特に政治の中枢である江戸が海上を経由して直接攻撃を受ける可能性を指摘して、場合によっては江戸湾の入口に信頼のおける有力諸侯を配置すべきであると論じた。また、強力な海軍を有するためには幕府権力と経済力の強化の必要性も併せて唱えている。
概論に留まった部分もあるものの、19世紀に入ると実際に江戸湾の海防強化政策が幕府によって採用されているなど、幕末海防論の起点となり近代日本の富国強兵論に影響を及ぼした。後に日本海軍の戦略家である佐藤鉄太郎の軍事思想にも、本書は影響を及ぼしている。
(ウイキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%9B%BD%E5%85%B5%E8%AB%87#%E6%A6%82%E8%A6%81
元仙台藩士だった林子平が、「黒船来航」の遥か以前に書いた「海国兵談」が、後の明治維新や大日本帝国海軍にも影響を与えているのだから凄まじい。
この、林子平の「海国兵談」が、後の仙台藩13代目藩主、伊達 慶邦に多大な影響を与えている。
伊達 慶邦は、1853年の「ペリー来航」により日本の海上防衛の弱さを痛感し、4年後の1857年から、洋式戦艦の建造に着手する。
≻【開成丸】は仙台藩の洋式帆船、軍艦。
仙台藩主伊達慶邦は安政2年4月に藩校である養賢堂の学頭大槻習斎らを大銃及び軍艦製造係に任命し、大槻の指揮の元で養賢堂が中心となって「開成丸」は建造された。安政2年冬に大槻によって派遣された養賢堂兵学主任小野寺鳳谷と船大工2名は君沢形の建造や「鳳凰丸」、「旭日丸」を視察し、また長崎で造船関係の技術などを学んだ三浦乾也と出会った。安政3年1月18日、造艦命令が出され、仙台に招聘された三浦が総棟梁に任命された。造船場は寒風沢島に設けられ、8月26日に起工式を実施。安政4年6月28日に進水して「開成丸」と命名され、同年11月に完成した。
(ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E6%88%90%E4%B8%B8
幕府海軍の【観光丸】が1855年だから、伊達 慶邦は「大船建造禁止令」が解かれて直ぐに、【開成丸】の建造に着手した事になる。
ペリーの浦賀来航以前から、仙台藩領海にも外国船の侵入が繰り返されており、海防の必要性に迫られていた事も要因としては有るのだが、すぐさま行動に移す所は、流石だと言えると思う。
その後、日本は歴史上最大の内戦、「明治維新」に突入するのだが、仙台藩は討幕軍に組しなかった。
後編へ続く!!




