リクエスト枠!日本が国際戦争に突入した経緯(ダイジェスト版)【その2】
それはともかくとして、既に列強諸国による開国への圧力により、列強諸国による『軍事力を背景にした、侵略的植民地支配』に危機感を募らせた人達により、明治維新が起きる
そして、明治維新後、ドイツ・アメリカ・イギリスへ派遣された人達から、列強諸国の経済力の凄さを伝えられる
慌てた大日本帝国政府は、所謂『文明開化』と言われる、経済大国化への道を急ぐ事に成る
当時の列強諸国の侵略行為を考えれば、それを上回る『富国強兵』を急ぐのは当然だろう
ましてや、『日清戦争』勃発前には、アヘン戦争が英清間で起きている
※アヘン戦争 1840年〜1842年
※日清戦争 1894年〜1895年
アヘン戦争は、言うまでも無く当時の清国(現中国)に、イギリスがアヘンを大量に輸出し、巨額の利益を得ていた事に反発した清王朝が、アヘンを大量に焼却した事への反発から始まった
>当時のイギリスは、茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入していた。一方、イギリスから清へ輸出されるものは時計や望遠鏡のような富裕層向けの物品はあったものの、大量に輸出可能な製品が存在しなかったうえ、イギリスの大幅な輸入超過であった。イギリスは産業革命による資本蓄積やアメリカ独立戦争の戦費確保のため、銀の国外流出を抑制する政策をとった。そのためイギリスは植民地のインドで栽培した麻薬であるアヘンを清に密輸出する事で超過分を相殺し、三角貿易を整えることとなった。
(注釈 『近代の誕生 第III巻』p.113 清国は1810年 - 1820年には2600万ドルの貿易黒字を計上している。)
清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃していった。また、人口が18世紀以降急増したことに伴い、民度が低下し、自暴自棄の下層民が増えたこともそれを助長させた。アヘンの代金は銀で決済したことから、アヘンの輸入量増加により貿易収支が逆転、清国内の銀保有量が激減し後述のとおり銀の高騰を招いた。
(注釈 『近代の誕生 第III巻』p.114 清国の貿易収支は1828年-1836年に3800万ドルの輸入超過になっている。)
(ウイキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89
とまぁ、この当時から貿易戦争が普通に行われていた訳だ
だから『経済政策が、全ての政策の鍵を握る』と言うのが、実感出来るのでは無いかな?
江戸時代末期に、黒船仕立てで日本に『開国しろ!ゴラ〜!!』とアメリカ様やイギリス様がやって来たのも、一番の目的は【経済的な理由】何だよ
何せそれまでは、オランダ・イギリス・清・スペイン等が、本当に限られた範囲で、日本と貿易を行っていただけだったからね
【鎖国中】とは言っても、結局は貿易は行われていたのは、小学校でも教わる事実だ!
んで、結局日本は『日米不平等条約締結』に至る訳だ(泣)
となれば、明治新政府が『経済力こそ国の力也!!』と成るのは当然だし、それは今世紀に至っても、世界中微塵も変わってはいない
当時の日本は、何せ資源が他の列強諸国に比べて少かったし、何よりも経済拡大に必要な、資源の輸入量が圧倒的に少かった
だから、列強諸国からの圧力をかわす意味においても、資源の輸入先の確保や、製品の輸出先の確保は必須だったと言える
それにより、大東亜戦争に突入する迄の間、南洋諸島やアジア大陸への進出を余儀なくされる訳だ
な?見事に400年以上前から、大東亜戦争勃発迄が繋がっているだろ?
局所的な事象や出来事だけでは無く、全ての歴史的な事象が、日本が明治以降、戦争へ突き進む原因と成っている
そして、其処に見え隠れしているのが、『第一次グローバリズム(経済侵略)』と言う事に成る
さて、日本と第二次世界大戦前までの列強諸国の植民地支配の在り方はまるで違う
そもそも、日本は統治権を有した地域において、所謂植民地政策はと取ってはいない
一番の違いは、日本の統治支配地域では、基本的に現地人による自治権が許されている
確かに『南洋庁(南太平洋地域を管轄する出先機関)』や『朝鮮総督府』や『台湾総督府』等が存在したが、台湾と朝鮮は『合邦地域』なので植民地では無く、【日本の地方自治体】の扱いだったので、国内で言えば『大阪府』見たいな扱いに成る
厳密には違うけど、大まかにはそうだ
現に台湾にせよ朝鮮にせよ、現地人の役人が総督府で官僚として働いていたし、学校の先生や警察官も、現地人が多く雇用されているし、何よりも朝鮮の政治家の殆どは朝鮮人だった!
>1943年時点で、日本語を解する朝鮮人は1,000人当たり221.5人(「朝鮮事情」1940-1944年版)で、8割の朝鮮人は日本語を話すことが出来なかった
(水間政憲『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実』徳間書店 2010年。p154)
1933年5月11日の朝鮮朝日(朝日新聞の外地版)によれば、朝鮮の13の道(日本で言えば「都道府県」)の当選議員のうち、約80%が朝鮮人となっている。
(ウイキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE
と、『朝鮮総督府による日本語の強制』は、完全な出鱈目だ(笑)
南洋庁においても、沢山のインフラ整備(道路拡張・発電・通信設備等)が行われ、現地人にも義務教育が行われている
>【公学校】
島民向け、本科(3年)と補習科(2年)を設置、特に記載のないものは1922年設置 本科は義務教育課程で8歳前後に入学。主たる教師は基本的に日本人であった。本科で優秀な成績を修めた者がさらに補習科へ進む。割合としては本科課程修了者の3~5割程度。 本科では南洋庁公学校規則に従って南洋庁が発行した教科書「南洋群島国語読本」を用い国語教育に力を入れながら学校教育を行った。
パラオ支庁 - コロール、マルキョク、ガラルド、ペリリュウ、アンガウル
ヤップ支庁 - ヤップ、ニフ、マキ(1926年設置)
サイパン支庁 - サイパン、ロタ
トラック支庁 - 夏島、水曜島、春島(1927年設置)、冬島(1928年設置)、月曜島(1930年設置)、モートロック(1931年設置)、秋島(1937年設置)
ポナペ支庁 - コロニー、クサイ、キチー、マタラニーム、ウー(1926年設置)
ヤルート支庁 - ジヤボール、ウオツヂエ、クワゼリン(1934年設置)、エボン(1938年設置)
(注)補習科はコロール、ヤップ、サイパン、夏島、コロニー、ジヤボールの各公学校にのみ設置
※【南洋庁立木工子弟養成所】
島民向け、1926年にコロールに開所。補習科で優秀な成績を修めたものはさらに木工子弟養成所に進んだ。 南洋群島全域から17、18歳から23歳程度の優秀な生徒を集め(殆どがパラオ人であった)、制服や小遣い程度の金を支給されながら建築や日本語教育を受けた。戦時下には島民工員養成所となり鍛冶工、自動車機械工、電気工等なども養成した なお、現在のパラオ地域短期大学の前身でもある
(ウイキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B4%8B%E5%BA%81
次回最終回!
どうだったかな?
今回もリクエスト対応の『歴史解説』その2だ!
またぞろ3回分と長く成って仕舞ったが、歴史を語るには、長きに渡って蓄積された【事実】の積み重ねが歴史なので、長く成るのはご容赦願いたい(泣)
学校では『華麗にスルー』される近代史に至るまでの歴史的な経緯は、室町時代後半から始まっている!
『戦争とは経済』と言うもう一つの意味は、『国際的な利権争いが、国際紛争で有る』と言う単なる【事実】!!
後1回で大東亜戦争勃発迄の大まかな経緯を解説するので、最後まで是非とも見て欲しいぞ!!




