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学校が教えない社会科・歴史・公民  作者: 学校が教えない社会・歴史・公民
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満州、日本人看護婦集団自決事件【後編】

(前編より続き)


なんという強靭な意志の持ち主なのでしょう。

蜂の巣のようにされながら、この事実を伝えようとする一心だけで、まさに使命感だけで、彼女はここまで逃げてきたのです。


病室内に、

「はなえさん・・・」

「大島さん・・・」という看護婦たちの涙の声がこだましました。


こうして昭和21(1946)年6月19日午後10時15分、大島花江看護婦は、堀婦長の腕の中で息をひきとりました。


大島看護婦の行動は、どんなに勇敢な軍人にも負けない、鬼神も避ける命をかけた行動です。

大島看護婦の頬は、婦長や同僚の仲間たちの涙で濡れました。

あまりにも突然の彼女の死を、みんなが悼みました。


翌日の日曜日の午後、遺体は、満州のしきたりにならって、土葬で手厚く葬りました。

そして彼女の髪の毛と爪を、お骨代わりに箱に納め、彼女にとってはなつかしい三階の看護婦室に安置してあげました。

花を添え、水をあげ、その日の夜、一同で午前0時ごろまで思い出話に花をさかせました。

すべて、懐かしくて楽しかった内地の話ばかりだったそうです。


翌朝、堀婦長が、出勤時刻の9時少し前に病院の看護婦室に行くと、そこに病院の事務局長のチャンさんがいました。張さんは、日本の陸軍士官学校を卒業した人です。

張さんは、ひどく怒っていました。

看護婦たちが、だれも出勤していないからです。

こんなことは前代未聞です。


「変ですね~」と最初、気楽に答えた堀婦長は、その瞬間、はっと気が付きました。

無我夢中で3階の看護婦たちの宿所に走りました。


いつもなら、若い女性たちばかりでさわがしい宿所です。

それが、今朝は、シーンと静まり返っています。

もの音一つしないのです。

堀婦長の胸に、ズシリと重たいものがのしかかりました。


宿所の戸を開けました。

お線香の匂いがただよっていました。

内側の障子は閉まっています。


(なにが起こっているの?)


おそるおそる障子を開けました。

部屋の中央に、小さなテーブルがありました。

その小さなテーブルの上には、大島看護婦の遺品と花とお線香、そして白い封筒が置かれていました。


そして、その周囲に・・・


きれいに並んだ、22名の看護婦たちの遺体が横たわっていました。


机の上の白い封筒は、彼女たちの遺書でした。


【遺書】

「二十二名の私たちが、自分の手で生命を断ちますこと、軍医部長はじめ婦長にもさぞかしご迷惑のことと、深くお詫びを申し上げます。

私たちは、敗れたとはいえ、かつての敵国人に犯されるよりは死を選びます。

たとえ生命はなくなりましても、私どもの魂は永久に満州の地に止まり、日本が再びこの地に帰ってくる時、ご案内をいたします。

その意味からも、私どものなきがらは、土葬にして、この満州の土にしてください。」


遺書の終わりには、22名の名前が、それぞれの手で記されていました。

遺体は、制服制帽の正装姿です。

顔には薄化粧がほどこされていました。

両ひざはしっかりと結ばれ、一糸乱れぬ姿でした。


その中で、たったひとり、井上つるみの姿だけは乱れていました。

26歳で最年長だった彼女は、おそらく全員の遺志をまとめ、衣服姿勢を確かめ、全員の死を見届けた上で、最後に青酸カリを飲んだと推定できました。

畳を爪でひっかいた跡にも、顔の表情にも、それは明らかでした。


現場に、通訳を連れたソ連軍の二人の将校と二人の医師がやってきて、現場検証が行われました。

堀婦長は逮捕されてもいい覚悟で、国際的にも認められている赤十字の看護婦に行った非人道的行為を非難しました。

事のてんまつを訴えました。

最後は、泣き崩れ、言葉にさえなりませんでした。


ソ連の将校たちは無言のままでしたが、事態の重大さは、わかったようでした。

この22名の集団自決による抗議に、ソ連軍当局も衝撃を受けたらしく、翌日、

 ■ソ連の命令として伝えられることで納得のいかないことがあれば、24時間以内にゲーペーウー(ソ連の秘密警察)に必ず問い合わせすること。

 ■日本の女性とソ連兵が、ジープあるいはその他の車に同乗してはならない。

というお触れが、日本人の宿舎にもまわってきました。


22名は、死ぬ前に全員、身辺をきれいに整理整頓していました。

ちなみに、彼女たちが「土葬にしてほしい」と遺言したのは、婦長や引率の平尾軍医などにお金がないことを気遣ってのことでもありました。


「それではあまりに22名の看護婦たちがかわいそうだ。火葬にしたうえで分骨し、故郷の両親に届けれあげれるようにしようじゃないですか」と、張氏が、当時ひとり千円もする火葬代を出してくれました。

日本が負けて立場は変わっても、陸士出身の張さんの温情は変わらなかったのです。

張さんは「せめてこれまで朝夕親しく一緒に働いた人たちへの、これがささやかな供養ですから」と述べてくれました。


こうして22名の骨壺がならび、初七日、四十九日の法要もお経を唱えて手厚く執り行われました。


堀婦長は、張春のミナカイという市場に出かけました。

ミナカイは当時、東京でいえば銀座のような、張春一番の繁華街でした。

(といっても、闇市のようなバラック市です)


堀婦長は、そのミナカイで、ふとしたことから、噂話を耳にしました。

長春第八病院に向かった9名の看護婦のうち、亡くなった大島花江を除く8人が生きている、というのです。

場所は、張春市内にあるミナカイデパート跡で、その地下のダンスホールに、ソ連陸軍病院第二救護所に送られた8名が生きてダンサーをしている、というのです。


眉を細く引き、口紅を赤くし、ひとりひとりの顔は、以前の看護婦に違いありません。

けれど8人には、まるで生気が感じられませんでした。

それどころか、目をそらして堀婦長の目から逃れようとさえしていました。


堀婦長は心を鬼にして言いました。

「どうして黙っているの?どうして返事をしないの?

そう、あなた達は、そういうことが好きでやっているのね。」


そう突き放したとき、ひとりが答えました。

「婦長さん、そんなにあたしたちのことを思っていてくださるのなら、お話します。

私たちは、ソ連軍の病院に行ったその日から、毎晩7、8人のソ連の将校に犯されたのです。

そして気づいてみたら、梅毒にかかっていたのです。


私たちも看護婦です。

いまではそれが、だいぶ悪くなっているのがわかります。

もう、私たちはダメなのです。

もう、みなさんのところに帰っても仕方がないのです。


仮に、幸運に恵まれて日本に帰れる日が来たとしても、こんな体では日本の土は踏めません。

この性病がどれほど恐ろしいものか、十二分に知っています。

だから、私たちは、梅毒をうつしたソ連人に、逆にうつして復讐をしているのです。


今はもう、歩くのにも痛みを感じるようになりました。

ですからひとりでも多くのソ連人に移してやるつもりで頑張っている・・・」


もう何も受け付けない。

もう何を言っても、彼女たちには通じない。

彼女たちを覆っているのは、完全な孤独と排他と虚無だけでした。


彼女たちのその言葉を聞いたとき、堀婦長は流れる涙で、何も言えなくなってしまいました。

自分が人選したのです。

責任は自分にある。


彼女たちが負った傷の深さ、過酷さを思えば、彼女たちが選択したことに否定や肯定をするどころか、何の助言さえもしてあげれない。

ただただ自分の無力さに悔し涙が止まらないまま、この日、気まずい雰囲気のまま部屋を後にしたのでした。


埼玉県大宮市は、命を捨てて危険を知らせに来てくれて亡くなった大島花枝看護婦の出身地です。

なにやらすくなからぬ因縁さえ感じます。


資金は、すべて吉田氏が引き受けてくれました。

こうして大宮の青葉園のほぼ中央に、彼女たちの慰霊のための「青葉慈蔵尊」が建立されたのです。


地蔵尊の墓碑には、亡くなられた看護婦たちと婦長の名前が刻まれています。


(五十音順)

荒川さつき 池本公代 石川貞子 井出きみ子 稲川よしみ 井上つるみ 大島花枝 大塚てる 柿沼昌子 川端しづ 五戸久 坂口千代子 相良みさえ 滝口一子 澤田一子 澤本かなえ 三戸はるみ 柴田ちよ 杉まり子 杉永はる 田村馨 垂水よし子 中村三好 服部きよ 林千代 林律子 古内喜美子 細川たか子 森本千代 山崎とき子 吉川芳子 渡辺静子

看護婦長 堀喜身子


(出展 日本航空教育財団の人間教育誌「サーマル」平成18年4月号に掲載された「祖国遙か」)


文起こし『ねずさんのひとりごと』ブログ


http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2677.html



是非リンクから、全文を読んで貰いたい


今回は重要な部分を選んで引用しているし、『ねずさんのひとりごと』ブログがこの事件を何故紹介したのか?


是非読んで考えて見て欲しい


さて、この事件を君達はどう思うかな?


当時のソ連は、『日ソ不可侵条約』を破って敗戦寸前の日本へ宣戦布告し、北海道の北方領土へ進行して、同じ様な『島民へのレイブ・虐殺事件』を起こしている!



>【真岡郵便電信局事件】


真岡郵便電信局事件まおかゆうびんでんしんきょくじけんとは、太平洋戦争末期の樺太の戦いで、真岡郵便局の電話交換手が集団自決した事件である。当時日本領だった樺太では、ソ連軍と日本軍の戦闘が、1945年8月15日の玉音放送後も続いていた。真岡郵便局の電話交換手(当時の郵便局では電信電話も管轄していた)は、疎開(引き揚げ)をせずに業務中だった。8月20日に真岡にソ連軍が上陸すると、勤務中の女性電話交換手12名のうち10名が局内で自決を図り、9名が死亡した。真岡郵便局事件、また北のひめゆり(事件)とも呼ばれる。


自決した電話交換手以外に残留していた局員や、当日勤務に就いていなかった職員からも、ソ連兵による爆殺、射殺による死者が出ており、真岡局の殉職者は19人にのぼる

(ウイキペディア)


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%B2%A1%E9%83%B5%E4%BE%BF%E9%9B%BB%E4%BF%A1%E5%B1%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6



確かに、既にソ連は崩壊したが、過去に国際条約を破って侵略戦争を起こした国を、君達は信用に値する国だと思えるかな?


そしてこの満州の事件も、真岡郵便電信局事件も、以前紹介した『死して虜囚の辱めを受けず』と言う、日本人の死生観が色濃く出た事件では無いかな?


正に『敵に囚われれば女は犯され、男は惨殺されるか強制労働させられる』と言う現実が、マザマザと浮き彫りになるだろ? 


だから日本人は、『敵の手に掛って辱めを受けるのなら、綺麗な身体での死を選ぶ』と言う、思想に行き着いた訳だ


果たして、『大東亜戦争とは、日本軍ノミが悪辣な侵略戦争を行ったのか?』


そもそも『大東亜戦争は、日本の侵略戦争なのか?』


よ〜く考えて見て欲しいぞ!!

どうだったかな?


今回も前後編と長く成って仕舞ったが、そもそもの引用文が長いので仕方が無かった


既に戦争が終結した後で、当時のソ連(現在のロシア)が、如何に非道な行いをしていたか?


新元号【令和】の時代に、是非とも考えて見て欲しいぞ!

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