中国の食人文化
さて、今回は以前少しだけ取り上げた『中国の食人文化』について解説して行こうと思う
この論文に関しては、大正時代の民俗学者『桑原隲藏』京都帝国大学教授の論文を元に書いている
桑原教授の論文は各種無料読書アブリ(青空文庫など)で読めるので参考にして欲しい
ちなみに旧仮名使い及び旧日本語文の為、大変読み難いが良い勉強になるぞ(笑)
と言う訳で、現在の京都大学の教授だった方が書いた学術論文なので、中国で食人が行われていたのはほぼ間違いないだろう?
短い論文ながら、大変中身の濃い論文なので順に解説して行こうと思う
>この四月二十七八日の諸新聞に、目下露國の首都ペトログラードの食糧窮乏を極めたる折柄、官憲にて支那人が人肉を市場に販賣しつつありし事實を發見し、該支那人を取押へて、遂に之を銃殺せり。といふ驚くべき外國電報が掲載されてある。私はこの電報によつて、端なくも、古來支那人間に行はるる、人肉食用の風習を憶ひ起さざるを得ないのである。
(支那人の食人肉風習より)
今の言葉に直すと、『事件が起きたのは昭和2年の4月27〜8日にかけての各社新聞で、当時のロシアの首都ペトログラードにおいて食糧危機が発生し、中国人が人肉(人間の肉)を市場で販売していたので、人肉を販売していた中国人を取り押さえて射殺したと報じていた。
私(桑原教授)はこの電報によって、古来より中国人の間で行われた人肉食用の風習を思い出さずには居られなかった』
と言う話になる
何と昭和2年においても、ロシアの食糧危機で中国人バイヤーが人肉を販売して射殺されている
正に近代になっても中国人(支那人)が人肉を食用販売していた事実が浮き彫りになる記述だよな?
本文に無い昭和2年を特定したのは、論文が掲載された本の出版年が昭和2年だった為だ
それにしても、ロシアの食糧危機を良い事に、よりにもよって人種は分からないまでも人肉を販売するとは恐ろしい話だ!!
続きを見てい行こう
>一體支那人の間に、上古から食人肉の風習の存したことは、經史に歴然たる確證があつて、毫も疑惑の餘地がない。古い所では殷の紂王が、自分の不行跡を諫めた翼侯を炙とし、鬼侯を腊にし、梅伯を醢にして居る。炙は人肉を炙ること、腊は人肉を乾すこと、醢とは人肉を醬漬にすることで、何れも人肉を食することを前提とした調理法に過ぎぬ。降つて春秋時代になると、有名な齊の桓公、晉の文公、何れも人肉を食して居る。齊の桓公は、その嬖臣易牙の調理して進めた、彼の子供の肉を食膳に上せて舌鼓を打ち、晉の文公は、その天下放浪中、食に窮した折柄、從臣介之推の股肉を啖つて饑を凌いだ。漢楚交爭時代に、楚の項羽は漢の高祖の父太公を擒にし、之を俎上に置いて高祖を威嚇した。高祖は之に對して、幸分二我一杯羹一と對へてゐる。これらの應對は、食人肉の風習の存在を承認せずしては、十分に理會出來ぬことと思ふ。
(支那人の食人風習より)
※現代語訳(要約)
『一部支那人(中国人)の間に、昔から食人の風習が有った事は、歴史的な証拠が有って微塵も疑う余地が無い。
古い所では殷(古代中国の王朝)の紂王が、自分の失敗を注意した翼侯を火炙りにして、鬼侯を干し肉し、梅伯を塩辛にしている(要約)
いずれも人肉を食する事を前提とした調理法に過ぎない
くだって春秋戦国時代(中国の古代戦国時代)になると斎の桓公、晉の文公、いずれも人肉を食して居る。齊の桓公は、その嬖臣(官僚)易牙を調理して進めた、彼の子供の肉を食膳にのせて舌鼓を打ち、晉の文公は、その天下放浪中、食に困った折に從臣(官僚)介之推の股肉を焼いて食べて飢えをしのいだ。
漢(中国の王朝)楚(中国の地方都市)が戦争中に(秦から漢に移行する途中の時代)
楚の項羽は漢の劉邦の父を捉えて調理し、これを宴席に出して威嚇した。(要約)
これらの記述は、食人の風習が無ければ到底理解出来ない事だと思われる。』
と言う具合になる
中国の歴史書には大袈裟な表現や嘘が多分に含まれている
それは前の王朝を打ち倒した新王朝が、前王朝は正義を失ったから倒されたのだと自己肯定する為に、歴史書が歴史書を編纂した王朝が全面的に正しいと書かれ、前王朝を悪の権化の様に書く事が多かったからだ!
中国においては歴史は政治なのだ
だから清王朝の西太后はトンデモナイ悪女に書かれ、中国共産党に敵対した日本を悪の権化の様に言う訳何だよ
で、これら食人の記述についてだが、民俗学者の桑原教授が中国の歴史書の大袈裟な表現を知らないとは考えにくいし、桑原教授のおっしゃる通りで、こうも頻繁に食人の描写が描かれると言う事は、そう言った歴史的風習が有ったからに他ならないだろうな?
それに桑原教授がご存命中に、ロシアで中国人が人肉を売る事件が起きているしな?
では、これらの記述が本当なのか?
海外の中国を扱った本から紐解いた部分を見てみよう
>支那人の食人肉風習は、支那歴代の史料に記載されてあるのみでなく、同時に外國の觀光者によつて保證されて居る。唐末五代にかけて支那に渡航した、マホメット教徒の記録を見ても、その當時の支那人は人肉を食用し、その市場に於て公然人肉を販賣し、然も官憲は之に就いて何等の取締をなさざりしことが明白である。(中略)
元時代乃至明清時代に支那に觀光した、若くば支那に滯在した外國人の記録の中にも、支那人の食人肉風習を傳ふるものが尠くない。
(支那人の食人風習より)
※現代語訳(要約)
『支那人(中国人)の食人風習は、支那(中国)歴代の資料に記載されている他、同時に外国の観光客(使節団)によって保証されている。
唐末五代にかけて支那に渡航した、マホメット教徒の記録を見ても、その当時の支那人(中国人)は人肉を食用し、その市場において公然と人肉を販売し、しかも官憲(警察などの公安組織)はこれについて何の取り締まりもしなかった事が明らかで有る。
さらに元や明や清王朝の時代に支那(中国)に観光した、もしくは支那に滞在した外国人の記録の中にも、支那人の食人風習を思わせる物が少なくない。』
となる
それにしても、清王朝の時代まで食人が行われていた記録が有るのは驚きだろ?
清王朝と言えば、中華人民共和国が建国する前の王朝だぞ?
近代史に入る頃まで食人が有った事に成るよな?
では、外国人観光客(使節団)の具体的な記述を見て行こう
まずは有名なマルコポーロから
>Marco Polo(Yule and Cordier; Vol. II, p. 225)に據ると、福建地方の或る住民は、好んで病死にあらざる人間の肉を食ふ。かくて彼等は殺害された人間の肉を搜索しまはる。彼等は人肉の味を素敵(Excellent)として賞美するといふ。既に Yule の注意せし如く、この住民とは福建の山間に棲息する原住種族を、指すものであらう。此等の原住種族は、早く支那人間に、山魅又は野人などと稱せられ、人肉を食すと傳へられて居る。
(支那人間における食人肉の風習より)
※現代語訳(要約)
『マルコポーロの記述によると、福建地方(現在の福建省)のとある住民は、好んで病死した人間【以外】の肉を食べる。
彼らはコロされた人間の肉を探し回る。
彼らは人間の肉の味を「美味しい」として賞賛している。
既に Yule が注意している様に、この住民とは福建の山間に住む原住民を指すもので、これらの原住民は支那人(中国人)が野人などと呼んで、人肉を食べると述べられている。』
となる
どうやらこの当時の中国の田舎の少数民族の話の様だ
他を見てみよう
>Marco Polo は元の上都に就いて、此等の人民は、私が讀者に告知して置かねばならぬ一種(特別)の風習を有す。若し或る者が死に處せられ、官憲の手にて殺戮された時には、彼等人民はその死體(死体)を料理して食用に供する。されど(斬殺にあらざる)自然による死者の肉は食わぬ。
(支那人間における食人肉の風習より)
これは現代語に訳さなくても分かるだろう
要するに死刑になった罪人の肉を食べる(恨みを晴らす為)風習が当時の王朝に有った事を書いている記述だな
さらに見て行こう
>支那皇帝の領土内にある都督が罪を犯す時は、彼は死にしょせられ、食べられて仕舞う。概して言えば、支那人は死にしょせられた、すべての(罪)人を食用する(Reinaud; Tome I, pp. 52-53. Ferrand; p. 67)。
>支那人の法律は、人肉を食うことを認可し、人肉が諸市場(marchés)で、公然と販売されて居る(Renaudot; pp. 34-35. Reinaud; Tome I, pp. 67-68.Ferrand; p. 78)。
>支那では既婚の男子が既婚の女子と姦通(不倫)する時は、(彼等は)死刑に處せられる。泥棒(voleurs)及び人殺(を行うた人)達(meurtriers)も、これと同樣である。彼等(死刑犯罪者)を殺す方法をここに示す。……罪人を望み通りの状態に置くと、特にその用途に定められて居る笞を以て、罪人の身体の中で、致命傷を与える得べき部分を殴打する。殴打の數は一定して行って、それを超過することは許されない。かくてその罪人は虫の息に成ってしまうので、彼を食べるに違いない人々(の手)に引渡して仕舞う(Renaudot; pp. 35-36. Reinaud; Tome I, pp. 69-70. Ferrand; pp. 79-80)。
(西暦916年頃作の印度支那物語より)
とまぁ、当時の中国に渡った外国人が直接見聞きした中国の食人文化が垣間見える内容だよな?
先程の中国の歴史書と照らし合わせても、どうにも真実で有る事は疑い様も無い
実際の『支那人間における食人肉の風習』では、桑原教授がさらに子細に学術的に当時の中国の歴史書と照らし合わせて論考証明しているから、良かったら是非とも読んで見て欲しい
此方はかなり長い論文で、やはり旧仮名使いだが、無料で読めるのでおすすめだ!!
今回は中国の古代から近代までの食人の歴史を見て来た訳だが、最後に有名な『三国志』と『水滸伝』
そして『文化大革命』時の食人事件と通州事件で起きた日本人への食人事件を取り上げておこう
まずは『三国志』から
>もてなしをする食べ物がなかったため、猟師が自身の妻を殺害。
「狼の肉」として劉備に差し出した。
翌朝、劉備は厨房で肉を削がれた猟師の妻の死体を発見。
自分が昨晩食べたのは「猟師の妻の肉」であったことに気がついたのだった。
だが、「もてなす食材がなかったため妻を差し出した」という猟師の行為に
劉備はひどく感激したという。
(演技三国志より)
人肉を・・・しかも世話に成った猟師の嫁の肉を食べさせられて感激するとか・・・
さらに『水滸伝』
>『水滸傳』には隨所に食人肉の記事が見えて、一々開列するに堪へぬ。その第十囘に、朱貴が梁山泊畔に酒店を開き、往來の富商を襲う
第二十六囘には張青夫婦が行人を殺害して、その肉にて肉饅頭を作つて販賣する事が書かれている
第四十二囘に李逵が李鬼を殺害して、その肉を肴に食事する光景を描いている
(支那人間における食人肉の風習より)
まぁ、『水滸伝』や『演技三国志』は史実を元にした小説だけど、今回紹介した桑原教授の論文からも明らかな様に、事実その様な行為が行われて居たから書かれているのであろう
そして以前紹介した日本人虐殺事件『通州事件』において日本人被害者に行われた「凌遅の刑」について
>「凌遅の刑」は、生きたまま少しずつ細かく切り刻み、肉をそぎ落とすという最も苦痛に満ちた処刑方法で、清朝末期まで行われていた。
処刑者は裸で市中を引き回されたうえ、柱に後ろ手にくくりつけられ、左右の股とすねに釘が打ち込まれる。
処刑は3日~10日に渡って行われたという。
肉をそぐ回数は120回~3000回。
処刑後はバラバラに解体され、販売された。漢方の妙薬とされていた新鮮な
人肉を民衆はこぞって買い漁り、食べたといわれている。
(【閲覧注意】危険画像あり人肉しゃぶしゃぶ、唐揚げ、3000回肉そぎの刑…中国4千年の食人史とは?様より)
http://s.ameblo.jp/9023410651/entry-11561429060.html
この行為が通州事件で行われた写真が残っているが、それを『南京大虐殺』の残酷行為の証拠として中国は発表しているが、通州事件で日本人を【凌遅の刑】で処刑している写真である事が証明されている
それに日本には、凌遅の刑何て言う処刑法は昔から存在しないしな!
その後この日本人被害者の肉をやはり食べたらしい事も記録に残されている
これは今回の桑原教授の論文にも有る様に、恨みの念から人肉を食べると言う行為に該当するだろう
最後に『文化大革命』(中国共産党が起こした内乱事件)において行われた食人事件について
>1965年以降、約10年続いた「文化大革命」の時、中国共産党指導部内によって何万人という人々が粛清という名の下、ほとんど理由もなくリンチや虐殺にあった。
生きたまま腹を裂かれ、内臓を引きずり出し、肉をそぎ、人体の臓器や皮や肉は煮たり焼いたり、生で食べることも……。
また、目玉を繰り抜いて食べたり、鉄のストローを頭蓋骨に差し込んで脳みそを吸ったりすることもあったという。
(鄭 義 (著、原著),黄 文雄 (翻訳)食人宴席より)
とまぁ、他にも中国の食人についての本や証拠は数多く有るが、今回はこの辺にしておこう!
皆はこの史実をどう思うかな?
では今回の学校が教えない『中国の食人文化』はこれまで!!
また読んでくれよな?
今回は本文が長めなので後書きは短めにするけど、中国では少なくても昭和初期まで、【食人】の習慣が有った事が、大正〜昭和初期の研究者で京都帝国大学教授の『桑原隲藏』氏によって明らかにされている
各種歴史書を突き合わせた証拠に基づいた論文は非常に勉強になるので、『青空文庫』などで無料で読めるので、是非興味の湧いた読者は読んで見て欲しい
ぞ!