第八章
由香にとって恐怖の日がやって来た。自分のせいではない、自分は関係ないと何度も何度も言い聞かせたが不安は消えることがなかった。
「違う学校なら何ともないのに……。何で同じ学校にしちゃったんだろうなあ」
由香は今更兄と同じ学校に通っていることを後悔し始めた。これまでは評判のよろしくない兄とはいえ、基本的に空気のような存在のため由香には何の影響も及ばなかった。
だが、今回はそうはいかないだろう。なにせ空気のような存在どころか目立ちすぎるほどのド変態へと変貌を遂げたのだから。
「今のところ近所で噂になったりはしてないみたいだけど……。今度は避けられないよね……」
由香と亮太が兄弟関係であることを学校ではそんなに知られてはいないものの、涌井理紗のような昔なじみも幾人かはいる。そこから広がるのが防ぎがたい。噂を聞きつけて由香の所に詳細を聞きに来ることもあるだろう。
「まあ最悪、兄さんの変貌に私が協力したことが知られなければいいんだから。口止めしておけば大丈夫でしょ」
亮太の口を塞いでおけば少なくとも自分は無関係というスタンスを取ることができる。由香はそのように結論を出し、自分の部屋を出てリビングへ向かう。どうせ亮太は興奮して早起きしてるに決まっている。そう由香は亮太の行動を推測し、また自分も早起きをしてそれに備えた。
まずは亮太を登校前に捕まえて口止め、それで不名誉なレッテルを少しは和らげることが可能になる。そう思って由香は亮太の姿を探すものの、リビングには姿が見えない。
「ここにいないとなるとまだ部屋にいるか、それかキッチンかな?」
リビングからキッチンへと移る。しかしキッチンにも亮太の姿は見えない。ただ両親の姿があるだけだった。
「ねえ、お母さん。兄さんまだ起きてきてない?」
「亮太ならもう学校行ったわよ。それにしても今日は亮太も由香も随分早起きね」
最悪の言葉を聞いてしまった。由香の顔は一気に青ざめ、まるで重病人のような様相になっていた。
「も、もう行った? 誰が? どこへ?」
「だから亮太が学校へもう行ったって」
もう一回聞いてみても答えは同じだった。信じたくない言葉だったが信じざるを得なくなった由香は一番聞いておかなければいけないことを思い切って聞いてみた。
「それで服装は? どんな格好で行ったの?」
由香は母に詰め寄って質問をぶつける。目が血走り、息が荒い。もう普通の精神状態を保っていられないぐらい切羽詰ってしまっているようだ。
「えっ? 服装? 由香の制服着てったわよ」
もう最悪だった。その言葉を聞いた由香は突然母から離れ、自分の部屋に向かって駆け出した。
「ちょっと由香! 朝御飯はどうするの?」
キッチンから飛び出していった由香にそんな言葉が聞こえてくるが、由香にとってはもうそんな物を食べている暇はなかった。今由香の頭の中にあるのは早く亮太を捕まえて女装は自主的行動であると徹底させることであった。首を縦に振らないのであれば……。家へ連れて帰り、部屋に閉じ込めておくしかない。
「早くあの危険物を捕獲しないと。そうでないと私は……」
頭の中に最悪の結末がよぎる。もう学校に通えなくなってしまう程の悪夢が。
「絶対嫌だ! 変態の製作責任者なんて言われたくない!」
絶対に亮太を捕まえる。由香はそれだけを考えることにした。そうでないと吐き気がしてくる。
「よしっ! 支度完了。早く捕まえないと」
準備を済ませた由香は一目散に部屋を飛び出し、玄関へ向かう。キッチンから由香を呼ぶ声が聞こえるが、そんなことに構っている余裕はない。
「(亮太を捕まえに)いってきます!」
由香は勢いよくドアを開け、家を飛び出す。亮太がいつ家を出たのか聞いておけばよかったと由香は思ったがもうそんな余裕もない。
ただ全力で駆けるのみ。
「早く、早く捕まえないと。とんでもないことになる……」
朝から全力疾走はかなりきついものだが、止まるわけにはいかない。今亮太がどの辺りを歩いているのか予測がつかないため、ただ全力で走るしかない。
「ちょっと何でこんな時に赤信号なのよ!」
全力で疾走していた由香の前に強力な障害物が現れた。如何様にも対処しがたく、ただこれを越える方法は変わるのを待つのみという急いでいる時には何とも困る代物である。何より自分でどうにか出来ないため余計に焦りと苛立ちが生じてくる。
「それもご丁寧に車までたくさん……」
車さえ通らなければこの際渡ってしまおうとさえ思っていた由香だったが、車が来ているためそれはできない。
「何で今日はここの信号こんなに長いのよ。早く変われ。早く変われ」
地団駄を踏みながら由香は信号機に念力を送る。すると念力が効力を発揮したのか信号が変わり始めた。
「やった! 早く青になって!」
青になった瞬間に飛び出せるよう由香は体勢を整える。
「よしっ!」
信号が青になると一気に由香は走り始めた。まだまだ諦めるには早い。亮太が何か余計なことを喋り始める前に捕まえさえすればいいのだ。そうすれば最低限のプライドは保てるのである。
姿が今までとはまるで違うのだ。すぐに亮太とバレはしないだろう。喋りさえしなければ。走り続けながら由香は心に余裕を持たせようと自分に対処法を言い聞かす。
「それでももうすぐ学校に着いちゃうよ。流石にやばいなあ……」
家から全力疾走を続けてきただけに疲れが見え始め、語気が弱くなりだした。もう学校が見えてきたというのにいまだに亮太の姿は見えない。
最悪な予感が由香の頭によぎり始める。
「まさかもう着いてる? いや、そうだとしてもすぐに捕まえれば」
絶望感に足が止まりそうになるも何とか持ちこたえようと努める由香だが、希望は薄れるばかりである。あとは角を曲がれば校門。登校中に追いつくことはもう考えられなさそうである。
「とりあえずあいつの教室に向かって捕まえないと。まだ朝早いしそんなに人も来てないでしょ」
角を曲がりながら対処法をおさらいしていく由香だったが、角を曲がりきると目を疑う光景があった。最近見慣れた背中まで届く長い黒髪の女子生徒。
亮太であった。校門前で追いつくことができた。由香に再び希望の光が差し始めた。今、捕まえればまだ間に合う。
由香は疲れた体に鞭打って亮太へと迫る。
しかし、近付くにつれておかしな点に気付き始めた。亮太はその場に留まったまま動こうとしない。そして校門の内側に向かって何か喋っているように見える。
「まさか……。誰かと喋ってる!?」
もう目の前まで迫っているというのに手遅れとは。落胆に沈む由香だったがとにかく連れ去るしかない。口止めでも何でもしてこれ以上の目撃者を出さないようにする。由香はそう決断し、一気に亮太の側まで駆け寄って腕を捕まえた。
「うわっ、由香? どうしたの怖い顔して」
突然腕をつかまれて亮太は驚いていたが今はそんなことに構っている暇はない。由香は今から亮太と喋っていた人をテキトーに誤魔化して亮太を連れて行かないといけないのだから。
「ごめんね。ちょっと用事あるからこの子連れてくけどいいかなって、ええっ!?」
名前を出さずにすぐ連れて行くという手段に出た由香はそれを遂行する前に固まってしまった。
「……最悪」
由香はそう呟くのが精一杯だった。目の前には最も知られてはいけない人物がいた。涌井理紗だ。横に理紗の彼氏である品川勇治までいる。
これで男女双方に噂が広まってしまう。由香の目の前は真っ暗になっていった。
「ちょっと由香。あんたの仕業でしょ、これ」
この事態の首謀者までも勘付かれたと悟った由香はもう泣きたくなってしまった。




