亜麻月雪緒
「え、ちょ、ちょっと待って!」
宣言通り本当に踵を返そうとする雪緒を、リョウは慌てて呼び止めた。幸いにも彼女は立ち止まり、彼に振り返った。
が、その表情にやる気は全く感じられない。
「何?」
切れ長の瞳が、リョウを見据える。報告書に書いてあった通り、人を寄せ付けない刃物のような目つきだ。
「せめて、さ。自己紹介だけでもしようよ。僕は――」
「リョウ・イツクシマ、でしょ?」
雪緒は彼の自己紹介を遮るように、言葉を重ねた。そして、着物の袖口から一枚のクリアファイルを取り出した。
中には、リョウが持っているものと同じ報告書が、同じ枚数分だけ入っている。彼女の持っているものの中には、リョウの報告書があった。
「あ、それって……」
「そう。渡されたのよ私も。読ませてもらったわ。なかなか強いのね」
どうやら、雪緒(恐らくまだ見ぬ二人)にも報告書が渡されていたらしい。自己紹介する手間が省けたとはいえ、これから共に戦う仲間と他に何を話せばいいのかリョウには何も浮かばなかった。
しかし雪緒は辺りをきょろきょろと見回すと、リョウと向かい合う位置にすとんと腰を下ろした。
「他の二人は、来てないの?」
雪緒が足を組むと、スリットの入った着物がずれて太腿が露になる。雪緒という名に相応しい、白くて綺麗な肌だった。。
「う、うん」
リョウは目のやり場に困り、彼女の報告書に視線を落とした。
「なんだ、まだ来てないだけなのね」
亜麻月雪緒、一八歳。リョウよりも一つ年上だが、学年は同じ高等部二年。
ジョブはバハムートテイマー――アウルの力を行使し、使い魔を召喚できる。使い魔の恩恵を受けながら戦うのが、バハムートテイマーの基本スタイルだ。
得物は二丁のスナイパーライフル。対天魔用にカスタマイズされた、アウルを凝縮した弾丸を放つことのできる改造銃である。
天魔に、一般の物理的な攻撃は一切効かない。そのため、いかな撃退士と言えど、素手で天魔と渡り合うことなど到底不可能なのだ。天魔に対抗するためには、アウルの力を引き出す武器を用いる必要がある。
アウルの力を引き出すための武器、防具などは総じてVWと呼ばれる。大抵のVWは物騒な外見をしているものが多いが、全てのVWは"ヒヒイロノカネ"と呼ばれる小さな特殊金属に格納することができ、自在に出し入れ、持ち運びすることが可能となっている。
ちなみに、リョウのVWは身の丈以上の長さを持つ大剣、バスターダスト・クレイモアである。
リョウは勝手に、着物姿の雪緒がスナイパーライフル二丁を同時に構えている姿を想像した。彼女の鋭い顔つきには似合っているが、服装が着物という点がどこか奇妙だ。
「何笑ってるの」
「ご、ごめん」
反射的に、リョウは謝った。否、謝ってしまった。
彼女の方を見ていないのに、リョウは自分がとてつもない怒気を込めた睨みを利かされているのを感じた。
「……私のことを笑っていたの?」
「いや、その、さっきのは反射的っていうか、なんていうか」
リョウの額に冷や汗が浮かんだ。
悪いことをしたと思ったら、まず謝る。話はそれから……というリョウの信条が、逆に仇となってしまった。
リョウは努めて不自然になりすぎない笑顔を作り、顔を上げる。
だが、雪緒はそっぽを向いていた。
「ま、別にいいけど。あなたは天魔じゃないし」
「…………」
天魔。そう口にした雪緒から、一瞬、ほんの一瞬、どす黒い殺気が放たれたのをリョウは感じた。
リョウに渡された、亜麻月雪緒を含む三人の撃退士の調査報告書で一番重要視されていたのが"性格"の項目である。
雪緒の場合は、「敵味方問わず、天魔に対して異常ともいえる憎悪を抱いている」という一文が一際目を引いた。
天魔の中には、人間側に味方する者達もいる。そもそもVWの開発には一人の天使が大きく貢献しており、Vという名称も、その天使の名を借りている。
天魔がそれぞれの陣営から離反すると、"ゲート"を用いての"魂と感情のエネルギー"の供給が断たれてしまう。つまり、人間同様食事や水分補給によるエネルギー摂取を行う必要がある。
加えて、裏切り者として扱われ、人間同様――もしくはそれ以上に目の敵にされてしまう。
そうまでして一部の天魔が人間側につく理由は、様々なものがある。単に「人間側の方が面白そうだから」であったり「重傷を負い、生きるために人間側の保護を受ける」など。
ただし、「人間に対し恩義を感じた」というケースは存在しない。
だが、人間側についた天魔(天使であれば堕天使、悪魔ならはぐれ悪魔)は撃退士として登録されて久遠ヶ原学園の生徒として扱われる。その中で、種族の垣根を越えて信頼関係を築くというケースは幾つも発生しているらしい。
リョウにも、共に戦った撃退士の中に堕天使やはぐれ悪魔がいたことだってあるし、同じ部活にも何人か在籍している。彼も含めて大抵の人間の撃退士は、堕天使とはぐれ悪魔に対して偏見を抱いていないものばかりである。
それは、「戦うべきは人間に危害を加える天魔であり、味方ではない」とほとんどの撃退士がそう思っているからだ。天魔に対し苦手意識を持っている者も、仲間である以上決して戦闘中に見捨てるような真似はしない。
しかし、雪緒は違う。彼女は決して堕天使、はぐれ悪魔を含んだチームでは戦おうとしなかった。
そして半年前、それを見かねた学園生徒会側が、彼女を無理やりはぐれ悪魔のいるチームに加入させたことがある。
結果――戦闘には勝利したものの、そのはぐれ悪魔は瀕死の重傷を負った。
同じチームで戦った撃退士の証言では「雪緒がはぐれ悪魔を盾にした」のだそうだ。彼女自身、それを認めている。
調査報告書には彼女の過去についての記載もある。
どうやら幼い頃、天魔同士の戦いに家族が巻き込まれ、両親を失ったらしい。
しかし、とリョウは思う。それにしては、彼女の憎悪は激しすぎる。刹那の殺気だけで、リョウは彼女の心に渦巻く天魔に対する執念が、今までに会ったどんな人物よりも強いことを悟った。
撃退士の中には、彼女と似たような経験で家族や親しい人を失った者が大勢いる。それでも、はぐれ悪魔とはいえ味方の撃退士を盾にするような真似をした者はいないし、聞いたことがなかった。
雪緒には、報告書に記載されている以上の何かがあったのだとリョウは確信した。
が、仮にそれを知ったところで彼にできることなどない。だからリョウは、聞き出すようなことはしなかった。
それ以上に、リョウには頭を抱えたくなる問題があった。
残る二枚の報告書にそれぞれ詳細が記された、二人の撃退士。
その二人は、堕天使とはぐれ悪魔であった。
時刻は午後四時になろうとしている。
(頼む、来ないでくれ……!)
リョウは、雪緒との間に生まれた気まずい沈黙の中で祈った。
願いが通じたのか、約束の時間を三十分過ぎても、残りの二人は来なかった。
「あとの二人、来ないね」
時計を見ながら、少々ホッとしつつリョウは言った。
「……そうね」
雪緒が舌打ち混じりに返す。
「あれ、もしかして来てくれた方がよかったの?」
「当然でしょ。油断しきってる天魔を討つ、またとないチャンスだと思ったから来たのよ」
「あ、そう……」
リョウが抱いた希望は、ものの一秒で粉々に砕けた。
雪緒が急に立ち上がる。
「もう帰るの?」
「そうよ。どうせ二人は来ないだろうし。リョウはどうする気? まさか来るまで待つわけじゃないでしょ?」
「そう、だね。僕も帰るよ」
リョウは少し逡巡してから立ち上がった。
「じゃ、一緒に帰りましょ」
「へ? う、うん」
リョウはほんの少しだけ、友人との約束をドタキャンしておいてよかったと思った。
目つきは言い訳できないほどキツいにしろ、雪緒は美少女と呼んで遜色ない美しさを持っていた。雪のように白い肌に、艶のある黒髪と柄のない黒い着物のツートーンがよく映える。放課後の廊下を歩いていると、金の簪が夕日を反射して宝石のように輝いた。
彼女の後ろを歩いていたリョウからは、まるで昔のカメラで撮った人物写真のようにも見えた。同時に、永遠に喪に服し続ける業を背負っているかのようにも。
「そういえば」
玄関に差し掛かったところで、彼女がリョウに振り返った。
「あなたに渡されたその報告書、私についてどんなことが書かれてたの?」
「え、それは……」
「別にそれぐらい言ってもいいでしょ。私がはぐれ悪魔を盾にしたことについては、どう?」
雪緒は表情一つ変えず、さらりと言ってのけた。そのことについて言及しなかったリョウの方が失礼だったのではないかと思うくらいに。彼女は、まるで隠し立てするつもりはないようだ。むしろそのことを誇っているようにすら思える。
「書いて、あったよ」
「そう。じゃあ、他の二人のも本当のことが書いてあるのね」
「僕の方には、何が書いてあるの?」
リョウは自分の下駄箱で靴を履き替えながら聞いた。
驚いたことに、彼女の下駄箱にはコンバットブーツが入っている。着物にコンバットブーツ。リョウには理解の及ばない組み合わせだった。
「あなたについては、優等生だってことぐらいしかわからないわ。ま、それぐらいしかないんでしょうけど」
「あはははは……」
雪緒に悪意がないことは、口調でわかった。人間相手には普通に――それでも口は悪いが――接してくれるらしい。
「でも、あなたが指揮を執ること自体に異論はないわ。私は後衛だから」
「ほ、本当に?」
思わず、リョウの口調が上ずる。事前に教師が"協調性に欠ける"と言っていただけに、雪緒の発言は一筋の光明に等しかった。
(あとは残る二人をなんとかすれば――)
「天魔は盾に使わせてもらうけどね」
「…………」
リョウの得た希望は、またも一秒で砕け散った。
高等部の校舎を出ると、すぐ目の前に大通りが広がる。四車線の道路というだけでなく、歩道もかなりの幅が設けられている。大人数の生徒の往来を考慮していくうちに、横幅だけでかなりの長さになってしまったらしい。
道の両側には多種多様な店が軒を連ねている。この時間帯は、特に喫茶店やスイーツショップなどが混雑している。リョウは誘われた時だけしか利用しないが、喫茶店一つとっても、店によってメニューやコーヒーのブレンドなど様々な違いがある。
「それじゃ、私はここで」
雪緒が足を止めたのは、スイーツショップの前だった。昔ながらの"だんご屋"のイメージそのままの建物で、店の前の客席は木製の横長椅子と番傘という風情ある作りになっている。
リョウはそこで、報告書に書かれてあった「好きな食べ物」の項目を思い出す。一体、そんなものをこちらに報せて何の意味があるのか、彼にはわからない。
「あなたはまっすぐ帰るの? それとも一緒に食べる?」
「えっ?」
こういうことも、彼女はさらりと言ってしまうのだろう。他意も口実もない、友達としてでもない。
恐らくそこにあるのは、リョウが天魔ではないから、という理由だけだ。
「美味しいのよ、ここのお団子」
「じゃ、じゃあ折角だし…………」
団子は確かに美味かった。彼女も表情を変えずに舌鼓を打つほどだ。
しかし、空気はまずかった。結局団子を食べただけで、二人が言葉をかわすことはなかった。