エピローグ
「サヤ、無事でよかった」
病院での戦いが終わってから五日後、リョウは再び同じ場所に訪れていた。
ゲートは生成されたものの、早急な破壊と悪魔の撃破によって、一度ディアボロと化した人々も全て元通りになった。
結果として、死者はゼロ。怪我人も数えるほどしか出ていない。
総合病院は、もっとも被害の大きかった六階を一時的に封鎖しただけで、通常通り運営されている。
六階に入院していたリョウの妹サヤも、今は一つ下の階の個室に移されている。
サヤは相変わらず、起きているのか眠っているのかわからない。呼吸器から漏れる音は、寝息とも吐息ともとれる。
ただ、少なくとも彼女は生きている。
「サヤ、僕はこれからも、君を生かし続けることになる」
リョウは、彼女の手を取って、強く握った。
「でも、決して一人にはしない。君がいつか目を開けてくれると信じている。僕はその時のために、少しでも平和で、綺麗な世界を作ると約束する」
リョウの言葉が彼女に伝わっているのかどうかは、わからない。
結局、彼の独りよがりにすぎない。でも、今はそれでいい。わかりようがないことに悩んでいても、仕方がない。
「ごめん、サヤ。僕のわがままにもう少しだけ、付き合ってほしい」
病院の前で、ライラー・アーク・シンが待っていた。どうやら、久遠ヶ原学園からの外出ができるほどには回復したらしい。
「面会はもういいのか?」
「うん。僕はサヤがいるから戦える。サヤのために戦える。それを、確かめてきただけだから」
「そうか、なら行こうぜ。あそこに」
「あそこ?」
リョウは嫌な予感がした。
はたしてそれは、見事に的中することとなった。
「お帰りなさいませ主人様! 当店では只今"ツンデレ娘強化週間"キャンペーン中なんだけど、ご、ご主人様のためならツンデレになってあげなくもないわよ?」
途中で言葉遣いが一瞬で変わったメイドさんに連れられ、二人は『メイドファミレス べ、べつにご主人様のためじゃないんだからね!』のいつもの席についた。
お冷を渡された際に「一々ツンデレっぽく応対する無料オプション」をつけるかどうか聞かれたが、リョウは丁重にお断りした。
「なんでまたここなの?」
リョウは不服そうに言ったが、ここの料理が美味いことは事実なのでいきなり帰るような真似はしなかった。
「いーじゃねえか。俺をこき使った分は付き合えよ。それに、今日は新人さんがいるらしいぞ……お、きたきた♪」
シンは心底楽しそうに、こちらに注文を取りに来るメイドさんを眺めている。リョウはそちらに目もくれず、緩みに緩み切っている友人の顔を見て今後の付き合いをどうするか本気で考え始めていた。お冷はキンとするほど冷たく、思考を冷静にしてくれる。
「ご、ご注文はお決まりですか? ご、ご主人、さま……」
ふと、聞き覚えのある声にメイドさんの方を向いた。
「ぶっ!」
「うげっ!」
リョウはその瞬間、お冷を盛大に噴き出した。勿論、被害を受けたのは向かい側に座っていたシンだ。
「おい、いきなり何すんだ!」
「ゆ、ゆゆゆゆ雪緒!?」
黒のエプロンドレスに、白いフリルのついたエプロン。編み込み模様が美しいヘッドドレスを身につけている女性は、間違いなく亜麻月雪緒であった。
艶のある黒髪と、切れ長の瞳、しかし、頬はまるで桃のようにほんのりとピンク色に染まっていて、視線はどこにも定まっていない。
「何してるのこんなところで!」
「何って、メイドさん、だけど……」
「いやいや、どうしていきなり? 何故!?」
「それは……その……」
丸いトレーで顔の下半分を隠しながら、雪緒は身をよじった。こんなに恥じらう彼女の姿を見るのは、リョウも初めてだった。
「リョウは、こういうの、好きなのかなって……」
「…………」
「ほほーう、リョウ・イツクシマ君。俺よりも先に新人メイドさんと仲良くなっていたのかね?」
顔から水をぽたぽたと滴らせながら、シンが握り拳を震わせている。まるで裏切られたかのような顔をしているが、リョウは元から彼女を知っているのだから仕方がない。
「いやシンも知ってるでしょ! 彼女は四匹の狼の!」
「なるほど……仕事先での恋愛、リクルート・ラブってやつか! 抜け駆けか貴様! 許さん! 俺が今までお前にしてきたアドバイスとか全部忘れろ! そして今日は俺のオゴリじゃなくてお前のオゴリだ! お前とはもう好感度ゼロからやり直し!」
「そんなに怒るなよ! 僕だって知らなかったんだ! 雪緒からも何か言ってよ!」
「リョウは、こういうの、嫌い?」
「そういうことじゃなーい! い、いや、嫌いではない、けど」
「ああああああああああああああ二人だけの世界ノー! 世界ノー!」
耳をふさいだシンが、尋常ならざる絶叫をあげた。
シンはその後、店側から三ヶ月の出入り禁止を食らったのであった。
後にも先にも、リョウがあんなに発狂するシンを見たことはない。
大学部の四号館、屋上。
今そこには、二つの人影があった。
一つは堕天使、一つははぐれ悪魔のものだ。
「思えばさー、アタシたちここで初めて顔合わせしたんだよねー」
はぐれ悪魔――バステットが柵に背を預けながら空を仰ぎ見た。久しぶりに、今日は戦いのない夕暮れを迎えることができそうだった。朱色に染まる雲たちを眺めていると、平和とはこの時が長く続くことなのかもしれないとさえ思えてくる。
「悪魔も感慨に耽ることがあるのだな」
「アンタさ、その嫌味っぽい言い方なんとかならないの?」
堕天使――ロンドは彼女の言葉を、鼻で笑った。
「これが俺だ」
「はいはい。そーですかい」
同じようにあしらいながらも、バステットはロンドの些細な変化を感じ取っていた。
彼は、少しだけ、表情を作るようになった。感情に合わせて、頬を緩めたり眉間に皺を寄せたりするようになった。
バステットは、そのことが少しだけ嬉しかった。
アグニを倒してから五日、最初の一日は休養に費やしたが、残りの四日間は戦いに明け暮れる日々だった。
未解決の依頼を、正式な許可を受けずに実行し、速やかに達成する。人員を募ることもせず、事前の作戦もほとんどない。故に最小の時間で任務を解決できる。
そのために必要な"実力"を、メンバーの四人は備えている。個々が最大限に力を発揮できるように、逐次戦い方を変える。神出鬼没、変幻自在の四匹の狼は、当初の計画とは形を大幅に変えて機能している。
しかし、成果を挙げ続けているのだから、文句を言われることもない。
「なんか、協調性は取り戻したけど不良になったカンジ」
「不良? 俺たちは撃退士としての責務を全うしているはずだ」
「それでも、正式な許可も貰わずに先行してるじゃん」
「事件の早急な解決のためだ。それに……」
「それに?」
「信頼できる仲間がいなければ、そんなことはできない」
「……そーだね、その通り」
そこで、二人の携帯が同時に震えた。
「誰から?」
「こっちはリョウ・イツクシマから。お前は?」
「アタシは雪緒ちゃんから。どうやら、今日も平和じゃないね」
「そのようだな――!」
二人は同時に、翼を広げた。
「雪緒、本当に今日はその格好で戦うの?」
「仕方、ないじゃない。急だったんだから」
メイドさんの姿をした雪緒は、靴だけをコンバットブーツに履き替えている。両手にはスナイパーライフルを構えている。まるで漫画の世界から飛び出してきたような姿だな、とリョウは思う。
「でも、似合ってるね」
「そ、そう……ありがと」
遠くから、ミノタウロスの雄叫びが聞こえる。
新宿、靖国通りを爆走するミノタウロスを、二人は道路のど真ん中で待ち構えている。
そこに、バステットとロンドが空から合流する。
「お待たせー……って雪緒ちゃん、何そのカッコ、リョウの趣味?」
「ち、違うってば!」
「他人の趣味に口を出すべきではないぞ、バステット・ペイルマリー」
「だから趣味じゃないって!」
「……どうでもいいけど、敵が来てるわよ」
ミノタウロスはアスファルトの道路を砕きながら、リョウ達目がけて突進してくる。
「なんかさ、前にもこーゆーのなかった?」
バステットが当時のことを思い出して、微笑む。
「でも、その時とは違う」
「その通りだ」
ロンドが首肯する。
「ルールはいつも通り、先に仕掛けた者に合わせる、でいいのね?」
「そうだよ、それが四匹の狼のやり方だ」
雪緒の問いに、リョウがはっきりと頷いた。
それを合図に、全員が同時に動いた。